散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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小林麻央さん in 保健体育教科書

2024-06-06 09:15:40 | 日記
2024年6月6日(木)
 5日の午前はNHK、その足で渋谷学習センターに立ち寄り、夜は同窓諸兄姉と会食。歴史・医療・教育など、それぞれの持ち場で確かな貢献あり。「友が皆」の痛快を味わいつつ10kmを100分歩いて帰宅、本日1万9千歩あまり。
 明くれば下記の教示あり。スピリチュアリティが昨夜の話題になったことに寄せたものである。
 保健の教科書などというものは、入試に直接関係ないので注目度が低いけれども、人生への影響力は存外大きいものと思われる。中学だか高校だかの教科書で見たクレッチマーの気質体型論が後々まで印象に残り、今回の仕事でもとりあげる予定。

「病気になったことが私の人生を代表する出来事ではない」

 こうした言葉が若者の心に残るならば、これぞまさしく教育の力。


「現代高等保健体育」(大修館書店)より

Ω

6月6日 ニコラ・テスラ ニューヨークに到着(1884年)

2024-06-06 03:07:16 | 日記
2024年6月6日(木)

> 1884年6月6日、回転磁界の発明者ニコラ・テスラはパリからニューヨークにやってきた。テスラはパリのコンチネンタル・エジソン社で働いていたのだが、その卓越した才能を認めた支配人のバチェラーが、エジソンのもとで働けるように紹介状を書き、彼をアメリカに送り出したのだ。
 移動中に財布や荷物をなくしてしまったテスラは、ニューヨークに着いた時、わずか四セントの小銭しか持っていなかったという。仕方なく友人の家の方角に向かって歩き始めた彼は、電気器具の修理に苦労している男に出会い、その修理を見事やってのけてアメリカでの最初の収入を得た。
 テスラは旧ユーゴスラビア生まれのセルビア人で、エジソンの九歳年下であった。小さい時から記憶力と直感力に優れ、学校の成績も数学に関しては天才的であった。エジソンに出会う前、すでに交流電流のシステムを発明していたが、時代に先駆けすぎたためか認められていなかった。当時直流システムに固執していたエンジンとは、エジソンとは出会ったときからすでにライバルであったとも言える。その実力はエジソンのもとでも発揮されたが、二人の発明家は結局相容れず、この翌年テスラはエジソンの会社を持して独立した。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.163

Nikola Tesla(セルビア語キリル・アルファベット: Никола Тесла)
 1856年7月10日 - 1943年1月7日

 途方もなく重要でユニークなこの人物について、まったく、何も知らなかった。Wikipedia から主要部分を転記して学びとする。移動中に財布と荷物をなくした話から、エジソンと同じく発達障害系の問題があるかと考えたが、これに関してはかなり複雑な困難を抱えていたようである。
 渡米の経緯については情報に異同がある。また、当時ユーゴスラビアという国家は誕生しておらず、生まれは「オーストリア(現在のクロアチア)」ということになるだろうか。
資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/ニコラ・テスラ

【人生の概略】
 グラーツ工科大学で学んだあと1881年にブダペストの電信(電話)会社に入社し技師として勤務。1884年にアメリカに渡りエジソンのもとで働くが、一年後独立。1887年にTesla Electric Light and Manufacturingを設立。新型の交流電動機を開発・製作、1891年にはテスラ変圧器(テスラコイル。変圧器の一種だが、きわめて高い電圧を発生させるもので空中放電の派手なデモンストレーションの印象で今にいたるまで広く知られているもの)を発明。また回転界磁型の電動機から発電機を作り上げ、1895年にはそれらの発明をナイアガラの滝発電所からの送電に応用し、高電圧を発生させ効率の高い電力輸送を実現させた。通常の発明家というよりも、「天才肌の発明家」であると言われる。交流電気方式、無線操縦、蛍光灯などといった現在も使われている技術も多く、また「世界システム」なる全地球的送電システムなどの壮大な構想も提唱した。
 電気や電磁波を用いる技術(テクノロジー)の歴史を語る上で重要な人物であり、磁束密度の単位「テスラ」にその名を残している。LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれた。テスラが遺した技術開発にまつわる資料類は、ユネスコの記憶遺産にも登録されている。
 8つの言語に堪能(セルビア・クロアチア語、チェコ語、英語、フランス語、ドイツ語、ハンガリー語、イタリア語、ラテン語)で、詩作、音楽、哲学にも精通。電流戦争では、テスラ側の陣営とエジソン側の陣営はライバル関係となり、結局、テスラ側が勝利した。

【生い立ち ~ 前半生】
 父母ともにセルビア人。1856年7月9日深夜、オーストリア帝国(現在のクロアチア西部)リカ=コルバヴァ県ゴスピッチ近郊の村スミリャンで第四子として誕生。父のミルーチンはセルビア正教会の司祭で詩人。母ドゥカは泡立て器など調理器具類の発明をするような人物であった。
 5歳の頃に兄を失ったが、そのころから頻繁に幻覚を見たとされる。「ニコラ以上の神童」と呼ばれた兄を上回るため勉学に励み、特に数学で突出した才能を発揮した。6歳の時に父の転任に伴ってゴスピッチの町へと移り、その後1870年にカルロヴァツの高校へと進学した。高校時代にコレラに感染していると診断されて床につき、9ヶ月もの間、生死の境をさまよった。
 1875年、グラーツ工科大学に入学。電気モーターに魅了され、交流という方式を着想。しかし父のミルーチンが死去し、ニコラが授業料を払うための資金が遺されていなかったため、1878年12月グラーツ工科大学を中退。以後は自力で学びを進めた。1880年1月、プラハ大学に留学したが、コースの卒業証明はうけていない。
 1881年1月、ハンガリーのブダペスト国営電信局に就職。勤めるかたわら「交流電流」方式の活用方法の探究を続ける。1882年、フランス・パリへ移り、ゼネラル・エレクトリック社のフランス法人であるコンチネンタル・エディソン・カンパニーの技師の職を得る。同社で才能を認められ、一年後にストラスブールに転勤。この時期にも、プライベートの時間を使ってモーターの開発を続けた。1882年、誘導モーターの開発に成功。
 ところが、欧州では彼が開発した誘導モーターに興味を抱く人に巡り会えず、渡米を決意。1884年の渡米時点では所持金も殆ど無く、自作の詩や飛行機械のアイディアに関する計算を記した書類などしか持っていなかった。エジソン電灯会社の求人を見つけ採用される。当時、同社は直流による電力事業を展開していたが、テスラは交流による電力事業を提案し、エジソンと対立して数ヶ月で失職する。
 1887年4月、独立したテスラは Tesla Electric Light Company(テスラ電灯社)を設立し、独自に交流による電力事業を推進して同年10月に交流システムの特許を出願。
 1888年、彼が発明した誘電モーターおよび交流式電気システムについて解説した論文 “A New System of Alternating Current Motors and Tran.” を執筆。これが、テスラとウェスティングハウス社との連携へとつながり、「電流戦争」へと繋がってゆくことになる。

【地球規模の無線送電システムの構想】
 テスラ自身は「世界(無線)システム」(World Wireless System)と呼んだ構想。(「Tesla World system」とも)
 巨大なテスラコイルで発生させた電磁波を用い、無線で送電を行う装置の構想。ひとつの巨大な送電装置を地球上のどこかに設置することで、ケーブルを使わずに、地球上のありとあらゆる場所に電力を送り届ける、というものである。実際にニューヨーク州ロングアイランドに「ウォーデンクリフ・タワー」を建設し、実験も行った。ただし、周波数が150キロヘルツと低かったため減衰が大きく、到達地点では微弱となって実用化に至らなかった。

 ウォーデンクリフ・タワー

【エジソンとの確執】
 テスラがエジソン電灯会社に入社した当時のトーマス・エジソンは研究者と発明家としてすでに実績があり、テスラはエジソンへの憧憬や敬意から就職したとも考えられる。
 両者の確執は「直流と交流との確執」に起因している。
 エジソンは、エジソン好みの直流用に設計された工場システムをテスラの交流電源で稼働させたら、褒賞として5万ドル払うと提案した。直流の優位性や安全性に加え、交流の難しさなどを考慮しての発言だったが、テスラはこれを成功させた。ところが、交流を認めたくないエジソンは褒賞を「冗談だった」で済ませ支払わなかったため、テスラは激怒して後に退社する。
 後年にテスラら交流陣営とエジソンの直流陣営との対立は「電流戦争」と呼ばれるまでに激化する。
 エジソンは交流の危険性を広めるためのキャンペーンとして有名な電気椅子処刑を発案するなどしたが、現在は全世界で交流送電が採用されている。
 エジソンの死後、ニューヨークタイムズ(1931年10月19日)のインタビューでテスラは以下のようにコメントしている。エジソンは典型的な実験科学者、テスラは理論科学者として、研究手法が「水と油」であったことが窺われる。

 I was almost a sorry witness of his doings, knowing that just a little theory and calculation would have saved him 90 percent of the labor. But he had a veritable contempt for book learning and mathematical knowledge, trusting himself entirely to his inventor's instinct and practical American sense.

Ω