散日拾遺

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6月5日 モンゴルフィエ兄弟 熱気球の実験に成功(1783年)

2024-06-05 03:54:32 | 日記
2024年6月5日(水)

> 1783年6月5日、モンゴルフィエ兄弟はフランス南東部のアネノイの町で熱気球を飛ばす公開実験を行った。町の広場に設置された台の下で湿った藁が燃やされ、その煙をいっぱいに詰め込んだ気球は、約十分間、空を飛んだ。
 続いて9月19日には、パリのベルサイユ宮殿前の広場で公開実験が行われた。広場には国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットも見にきていたという。この時は、来たるべき有人飛行に備えて、動物を乗せて飛ばした。気球は2.4キロの距離を飛んで無事着陸した。
 そして11月21日、人類初の有人飛行がパリのブーローニュの森で行われた。この時は二人の人間を乗せて90mの高さで25分間飛び、飛行距離は8.8キロであった。
 モンゴルフィエ兄弟は、暖炉の煙が煙突から立ち昇るのを見て、空気よりも軽い煙で空を飛べるのではないかと考えた。そこで大きな袋を作って中に煙を入れ飛ばしたのが、熱気球の始まりだった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.162

 
左:Joseph-Michel Montgolfier 、1740年8月26日 - 1810年6月26日
右:Jacques-Étienne Montgolfier 、1745年1月6日 - 1799年8月2日

 南仏のその町は Annonay と綴られるので、アノネーと記しておきたい。
 二人はこの町の製紙業者の息子で、両親がもうけた16人の子(!)の第12子と第15子だった。ジョゼフは夢見がちな変わり者で事業には向かず。エティエンヌは実務的な気質だったが兄たちと喧嘩が絶えなかったため、パリに建築家修行に出された。ところが1772年に長男レーモンが急死し、アノネーに呼び戻され家業を継いだ。エティエンヌはさまざまな技術革新を製紙業に導入し、モンゴルフィエの工場はフランス製紙業のモデルとして認められたという。
 件の公開実験は、Wikipedia では6月4日となっている。この成功はすぐさまパリに伝えられ、エティエンヌはさらなる実験を行うためすぐさまパリに向かったが、内気なジョゼフはアノネーに残った。
 9月19日の実験で乗せられた「動物」は、ヒツジとアヒルとニワトリだった。ヒツジは人間と生理学的に近いと考えられたらしく、上空でも酸素がなくならないことを確認するために好適だっただろう。アヒルは鳥なので上空でも生きやすく、ニワトリはほとんど飛べないことから敢えて選ばれたとあるが、もう少し調べてみないと意味がよくわからない。
 そして11月21日、史上初の有人飛行が到達した高さはWikipediaでは910mとされている。いずれにせよ大成功で、当時、一大センセーションを巻き起こした。多数の版画に描かれたほか、背もたれを気球形にした椅子、気球形の置時計、気球の絵が描かれた陶器などがつくられたという。一世を風靡する文化現象となったのである。
 その後に気球というもののたどった足跡を以下に転記。

> 1766年、イギリスの科学者ヘンリー・キャヴェンディッシュは鉄・スズ・亜鉛に硫酸を加えると水素が発生することを発見。モンゴルフィエ兄弟とほぼ同時期にガス気球も開発されていた。その中心的存在がジャック・シャルルとロベール兄弟である。1783年8月27日、パリのシャン・ド・マルス公園で最初の水素気球の飛行実験を行った。6千人の観客が料金を払って観覧している。同年12月1日、シャルルとニコラ=ルイ・ロベールが搭乗しての有人飛行を行い、2時間5分滞空して36kmの距離を飛んだ。シャルルはすぐさま単独でも飛行し、高度3,000mまで上昇した。
 熱気球とガス気球は競い合うように発展していったが、水素気球は熱気球に比べて効率的だったため、熱気球は一時期あまり使われなくなった。その後の気球に関する世界初の多くはガス気球によるものである。例えば1785年1月7日、ジャン=ピエール・ブランシャールとジョン・ジェフリーズが水素気球によるドーヴァー海峡横断に成功した。滞空時間の記録を最近塗り替えているのは、ロジェ気球のようなガス気球と熱気球の機能を一体化した気球である。
 1960年代にアメリカ合衆国のレイブン・インダストリーズが、ナイロン製でバーナーの燃料にプロパンガスを利用するより安全な気球を開発することで、モンゴルフィエ式の熱気球が見直されるようになった。現在、兄弟が最初の熱気球の公開飛行を行った6月5日は、熱気球の日となっている。

 ガス気球の後は、飛行船の出番ということになるだろうか。ジュール・ベルヌに『気球に乗って五週間』"Cinq semaines en ballon"(1863)という作品がある。飛行船の話も別にあったと記憶するが、手許で確認できない。
 モンゴルフィエ兄弟がその後のフランス革命をどう見ていたか分からないが、彼らの製紙会社はその後も堅調を維持した。エティエンヌの没後、娘の夫であるバルテルミ・バルー・ド・ラ・ロンバルディエール・ド・キャンソンが社主となり、Montgolfier et Canson(1801)、Canson-Montgolfier(1807)と社名を変更して現在に至る。高級アート紙などを製造し、世界120カ国で販売しているとのこと。

アノネーにおける最初の公開実験(1783年6月4日)


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