2017年1月20日(金)に、書いたつもりで書き忘れていたこと:
被爆二世さんに知らせたい記事が朝刊にあり。長崎の原爆体験を伝える目的で朝日新聞が長崎県内版に連載を続けている『ナガサキノート』、その連載が3000回を迎えたとある。詳しくは紙面に譲るとして、『ナガサキノート』というタイトルに目を引かれた。僕の年代の者が直ちに連想するのは大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)、1965年に上梓されたノン・フィクションである。明らかに意識しているだろう。大江は愛媛県内子町が生んだノーベル賞作家ではあるが、小説はどうも好きになれない。強いて挙げるなら『遅れてきた青年』は嫌いではないというぐらい。ただ、『ヒロシマ・ノート』は衝撃的だった。その勢いで『沖縄ノート』も読んだ。
「どんなに筆を尽くして書いてみても、実際に被爆を体験した人からは、『こんなものではない』と言われる」という趣旨のことが、『ヒロシマ・ノート』のどこかにあった。ことの性質上、絶対に筆舌には尽くせないものがあり、それを極限状況と呼ぶのか。あるいは、それを体験した人にとって「こんなものではない」と言い続けるほかないような状況があり、それが極限状況であるのか。そんなくだらないことでも考えながら読まないことには、どうにもたまらない気もちだった。「ことの性質上、絶対に筆舌に尽くせない」ものが他にもあるとすれば、統合失調症の発病期に起きることがそれではあるまいかと後年思った。『ヒロシマ・ノート』の遅れてきた影響であったろう。
先日は杉山アナと『まんだら屋の良太』から「小倉」が偶然の結び目として浮上したのだったが、長崎に落とされたプルトニウム型原爆は、当初小倉に投下されるはずだったことが知られている。当日朝の小倉が曇り空であったため、直前になって投下目標が変更された。落とす側にとっては一定の条件を備えているならどこでもよく、しかしどこかでなくてはならなかった。一方にとってはどうでも良いことが、他方の運命を未来永劫にわたって分ける。「ノート」を綴る役割は、小倉ではなく長崎の人々に託されることになった。
被爆二世さんは長崎出身で福岡在住。逆に福岡出身で長崎在住の放送大学(院)OBから連絡があり、活躍ぶりを知らせてきた。彼は元ラグビー青年で杉本哲多の雰囲気がなくもないが、ケンカはしないはずである。杉本自身は立派な不良少年あがりとあるが、何でも駅前(逗子?藤沢?)で派手にケンカして、そのケンカっぷりが見事でスカウトされたと聞いた由、これはブログを読んだ母からの追加情報。杉本の姑さんが中村メイコで、この人も(その御家族も)ただ者ではない上に、相当の酒豪と聞いている。この面々がお正月に集まると、どんな風景が展開されるんだろう?
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スポーツ面では、板東英二の凄さが毎日のように回顧されている。二年生のショートで後にプロ野球で活躍した大坂という選手の話に、「板東さんが投げると、ほとんどショートに飛んでこない。私らは試合の外におるんですよ」とある。板東は三振を15個とらないと走らされたそうだ。27アウトの半分以上が三振なら、「野手は楽なようで楽ではないのかもしれない」という記者の説がたぶん正しい。対魚津高戦の二回裏、ショートゴロエラーで徳島商がピンチを招いた場面である。四球二つがからんで満塁になったが、板東は後続を二飛、一ゴロに退けた。延長18回まで、まだまだ先が長い。
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診療の合間にとりとめもなく。摂食障害は単純な食欲の変調には収まらないし、ある種の睡眠障害は単なる眠りの不足・不規則では片づかない。言葉で語る代わりに体で語っていると見れば、かなり深いレベルのコミュニケーションの問題である。自己と自己身体との乖離というテーマが至るところに顔を出し、しばしば自我障害の水準に及ぶ。体-心-魂の全てのレベルが音を立ててきしんでいるようだ。「去る者日々に疎し」と格言はいうが、どれほど日が経っても疎くなれないとすれば、人は先へ進むことができない。記憶力の低下を嘆く声があり、忘れることを禁じられた嘆きがある。別々のことに見えて、実はすべてつながっているのではないか?
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「私の年のものは、心がけて思い出づくりを始めませんとね。」
思い出は、思い出すためにある。人生の最終章で作る思い出は、いつどこでどのように思い出すのだろう?人は皆、不死を信じている。僕にはそのように見える。
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