散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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放送大学の新学期

2013-04-19 00:40:15 | 日記
勝沼さん、ありがとう。

「お雇い外国人――明治日本の脇役たち」 (講談社学術文庫) [文庫]梅渓 昇 (著)
とりあえず、これを読んでみよう。

「明治お雇い外国人とその弟子たち」片野 勧 (著) 新人物往来社
こちらはかなりの力作と見えますが、2011年の出版なのにもう品切れみたい。
古書で探します。

尾崎さん、ありがとう。

> 「ほどほどのケンカは創造的なコミュニケーションの一部」を読んで、「明日のジョー」を連想しました。ジョーは孤独で、ケンカ屋ともいわれましたが、リングで殴り合うことだけが唯一の血の通うコミュニケーション手段でした。そして、試合をするごとに愛情深くなりました。

ジョーのケンカは「ほどほど」の段ではない、命を賭けたコミュニケーションだった。
少年院に入る際の心理検査(?)で、すべての連想キューに対して「血」と回答していた場面を思い出す。
たこ八郎さん(仙台市出身、1940年11月23日~1985年7月24日)がジョーのモデルと知ったときは、かなり衝撃的で考えさせられた。「幸せの黄色いハンカチ」で高倉健扮する主人公と路上で乱闘する場面は心底恐かった。
ケンカは盤上に限りましょう。

*****

先の日曜日に放送大学(院)のオリエンテーションがあり、入学式のない放送大学の事実上の今年度始業。

前日、S君から届いた分厚い封筒を抱えて出かける。
中身は彼がメールで言っていた、「神経心理学」最近号のコピーや彼の論文の抜き刷りである。
「いつも重箱のすみをつつくような症例報告ばかりなのですが今回のは読みごたえあります」との託宣どおり、「神経心理学を哲学する」に始まる重厚深遠なコレクションらしい。
物理学と形而上学は日本語では似ても似つかない二語だが、もともと physica と metaphysica だ。
医学はいつの間にこんなにも metaphysica から離れてしまったのだろうか。
S君に感謝しつつ、ゆっくり読み進める。

オリエンテーション午前の部は全体会で、全国から集まった80名からの新入生が神妙に大会議室を埋めている。
今年からコース主任のK先生の基調スピーチ、歯切れの良い関西訛りでポンポン決めていく。
「必ず何かの学会に加入すること」
「職場と同じでホーレンソーが大事」
「しっかり先行研究調べをすること。誰もやっていないテーマは、よほどユニークか全く無意味か、二つに一つ。」
おっしゃることが、いちいち実践知に裏づけられていて無駄な自己宣伝がない。だから気持ちいいのだ。

司会役があたったS先生、
「僕は放送大学の頂点を極めた人間、ただし体の大きさで」
と笑いを取ってなごませる。
186㎝の長身なのだ。

隣に座ったY先生が合間に話しかけてこられる。
「大学内の人権教育の実情調査をテーマにして裁量経費を申請しようと思うんですが、」
睫毛の濃い、人なつこい笑顔が輝いている
「よろしかったら一緒にやりませんか?」
一も二もない、この人もまたハッタリというものがなくて、自分のすべきことの連鎖を一筋に追っている。

午後はゼミに別れてのミーティング。
昨年から状況が変り、僕の担当する院生数がぐっと少なくなった。
今年度入学者は男性ばかり3名、居住地が北海道と九州と神奈川だ。
ゼミをどうやって持ったものかと苦笑する。
昨年までは近畿や中部にまとまった数の院生がいたので、東京・大阪・名古屋と3箇所のSCを毎月巡回したものだったが。

今年卒業したSさん、休学中のY君が応援にやってきて、それぞれ自分の研究をパワポで紹介する。
新入生3人の平均年齢が53歳、僕もSさんもそれより上で、Y君だけが30代の若さだ。
しかしある種の人生経験はY君がいちばん豊かであるかもしれない。
お父さんは「個人事業主」だったが、顧客には小指の先がない人が多かったという。
彼の学童期に仕事が失敗し、Y君は新聞配達などしながら上へ進んだ。今時でも苦学生というものはいるのだ。その後、地上げ屋、借金取り、スポーツインストラクターなどを転々とし、資格の類いは20を超えて所有する中に、アメリカで取ったMBAも含まれている。
暗さもきわまる性格だったのが29歳で人が変ったという。
何が閃いたのかロボットスーツに惚れ込み、その営業に喜びを見出して今は国の内外を駆け回る毎日。
「この間は、ドイツ人を笑わせてきました」
「ドイツ語で?」
「いえ、英語で、というか日本語で」

そうは見えないが、要素知能は相当に高いのだ。
「うんと社会貢献したら、愛人3人ぐらいは許されますかね?」
どこからそういう発想が出るかな~・・・

ユニークな個性を見ると、出身地が気になるのは僕のクセのようなもので。
こいつ、どこの人間だろう、どういう土地からこういうフシギな人格が湧いて出るものだろうと、考えても見当がつかず、ここは直接訊いてみることにして、答にのけぞった。

「愛媛です」
「えひめ?」
「先祖代々、松山です」
「まつやま?」
「先生、あの辺わかりますか?詳しく言えば、オヤジは菊間で、オフクロが松山なんですけど」
「きくま?」

菊間と松山、そのちょうど真ん中がわが父祖の地ではないか。
気が遠くなった。
こいつと俺と、同郷かぁ、う~~~ん・・・

オジサン5人がY君を囲んで痛飲、帰り道は形而上学もデカルトもどこかへ消えてしまっていた。



囲碁歴(続き)

2013-04-16 07:45:46 | 日記
囲碁教室は毎回2時間半ほど。
前半が講義で、後半が対局。

主宰するI先生がすごいと思うのは、10分足らずの休憩時間のうちに、その日の対局の組み合わせをたくみに案配することだ。出席者は全員来れば80名にもなるし、4,5級から五段まで棋力もさまざまなんだから大変だよ。
アシスタントがその日の出席カードを棋力別にざっと分けておいたのを、より分けながら二つ組みにしていく。同じ顔合わせが2週連続にならないように、近い棋力のもの同士を組み合わせるのは、簡単な作業ではない。しかもお互いの相性などにも細かく配慮していることが、打ってみてるとよくわかる。
さらに、大きな部屋をゆっくりした足取りで巡回しながら一局一局を実によく見ていて、終局後に「この局面の、この手が」とサラサラ並べ直して指摘なさる。
頭の中はどうなってんのかな、ダテにプロ九段ではないのね。

I先生は大学で僕と同学部の三年先輩にあたる。共通の知り合いもあることが最近分かったが、これらは余談。ともかく彼の人柄と配慮で教室が和やかに保たれている次第。
アシスタントの若い女性達の存在が花を添えるかに見えて、その正体は元・全日本女子アマチャンピオンを含むツワモノ揃い、空気はピンと締まっている。

で、2年前のこと。
まずは自分の棋力を申告するのに困った。
免状は六段持ってますなんて、言えたもんじゃない。何しろ紙上の勉強だけで、外で打ったことは皆無なんだから。
「アマ二段」と称する囲碁ソフトとコンピュータ上で勝ったり負けたりだったので、「たぶん二段ぐらい」と申告したのを家族は「ずる~」とからかうが、自分では「どこが二段ですか」とバカにされないか戦々恐々だった。

申告を踏まえ、まずは教室で現に二段で打っている人と対局。
結果は運良く勝たせてもらい、手順も良く覚えているが、それより何より忘れられないこと。
何と、手が震えて止らないのである。
途中、石を盤上に置くにも不自由し、アゲハマを取り上げるのはもっと難渋。
この自分が緊張しまくっていたのだ。

これには実に驚いた。
人前で話すというようなことなら、聞き手が500人いようが1000人いようがビビるもんではない。
加齢と共に面皮はいっそう厚くなり、「アガるって、どういうこと?」みたいな日常とは別人のごとく、手は震える、動悸は止らない、何を考えてどこに打ってるんだかわからない。
大石を召し捕って勝負が決まった後は、初めて人を斬った土方歳三もかくやと思われる、殺気だった身震い・・・

そうか、これこそ家人が対局を勧めてくれた理由だったのだ。
尾崎さん向けに、そっち方面のジャーゴンで表現するなら、僕って兄弟葛藤が克服できてないんです。
背景はいろいろあるが要はケンカ下手で。
対決を回避するか、金網デスマッチにしてしまうか、ほどほどそこそこのケンカがヘタクソなのだ。
ほどほどのケンカは、創造的なコミュニケーションの一部ですからね~

囲碁は「盤上の格闘技」などと申しまして、要はケンカという一面がある。
一面であって全面ではないのはもちろんのこと。王様を取るか取られるかグレーゾーンのない将棋に比べ、地合いの大小で勝負を決める碁の場合は、勝ち負けの程度や質に逃げ道を見出すことも(少なくともアマの場合は)やりやすい。
それでもケンカはケンカ、そして棋力の拮抗した仲間内では、ケンカの半分は負けに終わるのが当然。

ケンカに慣れ、負けることに慣れなさい。
わが弱点を知る人の、有り難い配慮だったのでした。

それから2年。
この間72局打って40勝26敗6引き分け(引き分けというのは、時間内に打ち終わらずI先生らによる判定で「形勢不明」とされたもの)。
今は五段で打たせてもらっているが、実力はたぶん四段半ぐらい。
まる二年経つ頃、ようやく手は震えなくなり、負けた碁こそ勉強になることが実感として分かってきた。

負けるよりは勝った方が確かに気持ちは良いのだが、でも勝ち負けじゃないのです。
棋理に適った碁は美しい。
棋理に適った碁を美しく打ちたい。

ついでに気恥ずかしさを抑えて言うなら、碁を打ちながら人生について学べるようになりたいのだ。
碁には性格も表れれば、その時の精神状態も反映される。
そして碁盤は宇宙なんですから。

*****

この前の土曜日は、Kさんと打って引き分けた。
Kさんは教室で、たぶん3番目に強い。若い頃は相当熱心に勉強したのだろう。
そのKさんの隙を咎めて急所を一撃、仕留めたかに見えたが、長考の末みごとにしのがれた。
さすがの工夫、陽動に乗った自分が未熟でした。

ああ、楽しかった!

今日は何の日?クラーク博士の日/お雇い外国人のこと

2013-04-16 06:53:26 | 日記
ラジオ体操の後そのまま聞き流していると、6時50分頃から「今日は何の日」のコーナーになる。
今日、4月16日は札幌農学校で教えていたクラーク博士が離日した日だって。
それが明治十年(1877年)、つまり西南戦争の年であり『丁丑公論』が書かれた年だ。
見送りに来た学生達に対して、"Boys, be ambitious!" の例の言葉が博士から語られた。

「少年(ら)よ、大志を抱け」と訳したのは誰だろう。
時代を反映し、歯切れ良く印象に残る名訳だが、他にもいろいろな訳し方がありそうだ。
ambitious は「野心的」ということだよね、「小さくなるなよ、でっかいことやろうぜ」という感じか。
boys という呼びかけも、かしこまらず親しみのこもったもので、「おい、みんな」ぐいらいの語感がある。
「みんな、でっかく生きようぜ!」

クラーク博士(1826-1886)はこの時51歳、一連のお雇い外国人の中では年齢の高い方である。
新島襄(大河ドラマ放映中の八重の将来の伴侶だね)の推薦で招聘され、わずか8ヶ月の滞在中に大きな足跡を残して去った。帰米後は事業が失敗するなど不遇であったらしい。59歳で心臓病のために他界したとある。

1877年のこの日、彼がどんな表情、どんな語調でこの言葉を発したか、見てみたいものだ。

*****

お雇い外国人という人々の尽力を抜きにして、日本の近代化を語ることはできない。
異文化の出会いとしても、きわめて面白い現象だと思う。

医学教育の基礎を置いたベルツ、大森貝塚の発見で知られるモース、ナウマン象やフォッサマグナの発見者であるナウマン(彼が信州を歩いていてフォッサマグナを発見する場面は、実に劇的で面白い)、日本の美術の紹介者ともなったフェノロサなどは大きなところ。
確か松山の子規博物館では、横浜あたりの港湾や鉄道の建設を指導したイギリス人建築家のことが紹介されていたが、名前が思い出せない。わが地元の東工大のキャンパス内を歩いていたら、その設立に貢献したドイツ人化学者の顕彰碑を見かけた。これも名前を忘れてしまった。
『坂の上の雲』には、メッケルがドイツから招かれて日本陸軍の指導にあたる場面があったね。
出身国はさまざまだが、打算を超えてこの若い国の出発に自身の夢を重ねて尽力する姿が共通しているようだ。メッケルは日露戦争開始にあたって、「日本陸軍の必勝を信ず」との個人的な祝電を母国から送ったという。当時の日独の利害とはまったく関係のないことだ。

誰か「お雇い外国人」という切り口で新書本ぐらいにまとめてくれないかな。きっと面白く啓発的なものが書けるだろうに・・・なんて言ってると、きっと勝沼さんが「先生、ありますよ、もう書かれてます」と教えてくれるんだ。

どうぞよろしく!



苗字のこと

2013-04-15 12:09:19 | 日記
遅めの昼休み、わが苗字についてあらためて考える。

マレーシアの留学生が訝ったごとく、「丸石」と「石丸」では意味が違うのかもしれない。
「丸」にはもちろん円・球の意味があるけれど、それだけではない。
例えば城に「本丸」「二の丸」がある。大坂城の攻防戦では、真田幸村が「真田丸」を拠点に活躍した。
そして船の名前がある。「咸臨丸」「第五福竜丸」。
さらに人名、伊賀の「影丸」から横綱「武蔵丸」まで。

大型船を近くから見上げれば、水上に城が建ったような威容がある。
「丸」は「円・球」すなわち完全に閉じた図形という意味から出発して、ひとまとまりの完結した建築物を現すようになり、それが城郭や船の命名に用いられるようになったのではないか。
だとすると「石丸」は、石で築かれたそのようなもの、という含意があるだろうか。
(でも船を石で造ったら沈んじゃうよね。地上の建物限定かな。)

伊予松山界隈には、石丸がとても多い。
むろん全国的には少ない。
山形に転校したときは、ものすごく珍しがられた。
高校に入って上京し、同級生に「今度、秋葉原に一緒に行こうぜ」と言われたときは、何のことか分からなかった。後に桜美林大学では、クロンメルヴァインという名の南ドイツ出身の声楽の先生が、僕の顔を見るたびに「いしまる~、いしまる~」と美しいテノールで歌いかけてくれた。
(あの電気店は、遂に名前を変えちゃったね、数年前にエディオンに吸収され、時間の問題だったらしいが。なお、創業者の石丸鶴雄さんという人は東京都出身とネット情報にあるが、2004年3月30日の他界の際、四国新聞にも訃報が大きく載った形跡があるので、ルーツは四国かもしれない。四国新聞社は香川が本拠地だ。)

四国以外では九州に若干。
やはり桜美林で僕の後から着任してこられ、不注意な人々が郵便物やメールの誤配を繰り返したもう一人の石丸先生は、九州出身で御先祖は佐賀藩・鍋島家に仕えるお侍であったそうな。
鍋島家と言えば化け猫騒動に「葉隠」か。
この石丸先生は刃物を研ぐことが趣味のひとつという奇特な御仁で、今は焼き物で知られるわが故郷の松山市砥部町が、良質の砥石を産するゆえにその名を持つことを御教示くださった。

我が家は武家ではないが、家の伝承では石丸を名乗ってから僕で14代目という。
(幕府ならそろそろ滅びる頃だな、室町幕府も江戸幕府も15代まで、鎌倉幕府は将軍は9代までだが執権が16代で終わり、ここにはきっと意味があるよね。)
14代といえばその初めは江戸時代も前半に遡るから、伝承が本当なら「功あって苗字帯刀を許された豪農」ぐらいのところだろうか。時代が下って武家の財政事情が逼迫するにつれ、金で苗字帯刀の権利を買うことも生じた(多くは一~二代限り)というが、江戸時代前半にそれは珍しかったろう。近い御先祖達は名主クラスのお百姓で、村の馬医(ばい)さん、つまり獣医を兼ねていたらしい。

*****

三國連太郎さんの訃報が目に止った。
本名は佐藤政雄さん、1923年1月20日生まれ、満90歳2ヶ月25日。
芸名も芸もカッコよかったね。すーさん、ありがとう。



囲碁歴

2013-04-15 10:23:31 | 日記
何がそんなに面白いのかと思いながら、面白くてヤメられないのが碁の不思議だ。
苗字が石丸、だからかな。
丸い石、って、碁石以外に考えられないよね。
(昔、マレーシアからの留学生に「丸石」っていう名前は分かるけど、「石丸」ってどういう意味ですかって真顔で訊かれ、答に窮しましたっけ。)

はじまりは親の影響で、中学生の頃、将棋にハマっている息子に「碁というものもあるのだ」と教えてくれたのが父である。父は将棋を指さないので、自分の知っているものの方に息子を誘導したのだな。
井目(盤面に9子の黒石を配置して打つハンディの付け方)から始めて毎晩打っていると、子どもの学習は早いからだんだん置き石が減っていくのが面白い。
「長屋の縁台で尻をからげてさすのが将棋、碁は君子のたしなみ」といったことも、誰かに聞かされた。
どっちもいいよね。

父の同僚でアマ二~三段の人々があり、ときどき稽古を付けてくれたりする。
武宮正樹さんが宇宙流で売り出し、石田芳夫さんが最年少で本因坊になったのがこの時期のこと。
石田さんは本因坊獲得後のスタジオ102でアナウンサーに「一度に何手ぐらい読むんですか?」と訊かれ、「千手ぐらいですね」と答えて相手を絶句させた。
(モノの本には「500手」とあるが、確か1000手と言ったんだよ。次の一手の選択肢が10個あるとして、それぞれについてその後の展開を100手ぐらいは考えるから、だいたい1000手と。「すごいなあ」と、「そう考えればそのぐらいになって当然だな」と、感想こもごもだった。)

中学一年から卒業までは名古屋、その後にワケアリで東京の高校を受験しに出たときは父が引率してくれたのだが、袋に碁石を入れて旅先を持ち歩き、頭の休憩と称して打ったりした。ありがたかったな。

高校・大学から研修医時代はほぼブランクで、ときどき思い出したように家族と打つ程度。
通った二つの大学を跨いでちょっと面白い出来事があったが、これは短編小説ネタに温めているので、ここには書かない。

そんな中で今でも思い出すのが、30歳も過ぎてから京都の遠縁の叔父に「キミの趣味は何か?」と訊かれた場面である。生まれたばかりの長男を連れて挨拶に行った時だったが、隠退した高校数学教師である叔父がその日はえらくゴキゲンで、「趣味は何や? What is your hobby?」とあやしげな英語混じりに訊き、答え渋っていると「碁ぉなんかどうや?」と提案してくれたのだ。関西訛りで「碁」と発音すると「碁ぉ」になる、あれだ。
へぇ、と思ったのは、叔父自身は戦中戦後にたいへん苦労し、道楽に費やす金もヒマもなく刻苦勉励して今日を築いた人だったからである。この人が口にするぐらいなら、碁は打っても良いものなのかなと妙に納得した。この叔父はきわめて元気な超高齢者だったが、昨年、不慮の事故で亡くなった。数学教育者の目に碁がどう見えているのか、報告かたがた訊いてみたかった。

それですぐにという訳ではなく、それから15年ほども経ってやみつきになったのは、やはり親がからんでいる。帰省の時に父が新聞の棋譜を並べたりしているので、これなら共通の話題にできるかと思ったのだが、その後のやり方に、自分らしさが現れていて苦笑する。

碁は対戦型ゲームだから、碁を打つというなら対局しないと意味がない。けれども碁会所に出かけることもせず、昨今流行りのインターネット対局を試しもせず、ただただ囲碁新聞や解説書を読み、詰め碁を解き、棋譜を並べるばかりで、父や息子達と家庭内で打つ以外はまったく対局しなかった。
理由は二つあって、いったん始めるとハマって抜けられなくなるだろうと思ったことがひとつ、根が負けず嫌いなので勝負にこだわって碁を楽しめなくなると恐れたことがひとつ、その二つの理由で固く対局を控えていた。その代わり、囲碁新聞の問題を解いてはハガキで答を送ることをしばらく続けた。

ここに傑作がある。
ハガキの応募者には、解答の正誤にかかわらず抽選で囲碁関係の書籍や囲碁用品があたる。全国から毎週数千人規模の応募者があるから、賞品が複数あってもそうそう当たるもんではない。僕のくじ運は人並みぐらいで、抽選のたぐいは当たったことがなかった。(医科歯科の精神科忘年会で幹事をやったとき、自分が商品に選んで準備した宮沢りえの写真集を、ビンゴで自分が当てちゃったのが唯一の例外。)

それが、囲碁新聞の抽選にはむやみに当たるんだよ、本当にむやみに!
「碁神」と呼ばれる本因坊道策の分厚い打碁集があたったのを皮切りに、解説書や携帯碁盤セットなど、3年ほどの間に4~5回も当たっただろうか。天啓かしらと思ったことだ。
それにも励まされて応募を続けるうち、正解ポイントが順調にたまっていって、遂に囲碁新聞でとれる最高位のアマ六段の点数がたまった。「一局も外で打たない者が、六段のわけないだろ」と思いながら、悪い気はしなかった。
ただ、これはやっぱり制度に問題があるよね。県代表クラスの本当の強豪が、六段とか七段とかいうレベルなのだから。

ともかく、それで「あがり」となるはずだった僕の擬似碁歴が、対局を経験するようになったのは二年前、「せっかくここまで勉強したのなら一度は打ってみたら」と地元のカルチャースクール通いを誕生日にプレゼントしてもらったのがきっかけで。

ここにも天啓あり、囲碁の指導啓発で活躍中の某プロ九段が渋谷で開講していた教室が、ちょうどこの時期に我が家の近辺に場所を変えてくれたのを、家人が目ざとく見つけたのだ。以来二年間、仕事があるから欠席は多いが、行けるときだけというスタンスでもそれなりに学ぶものはあり、否、大ありだった。

(続く)