『丁丑公論』といえば、
タイトルの「丁丑」は干支、「ひのと・うし」のことである。
明治十年に書かれたもので、同年が「ひのと・うし」だったので福沢がこのように題したのだ。
内容は物騒なもので、この年の西南戦争で反逆者の汚名を着た西郷隆盛らを擁護し、当然、痛烈な政府批判につながるものを含んでいる。
当時は讒謗律(明治8年制定、同13年旧刑法制定に伴い失効)および新聞紙条例のもとに、自由民権運動をはじめとする反政府的な言動は厳しく抑圧されていた。このため福沢は書いたものをいったん封印した。それが世に出るのは福沢の没年、明治34年のことであった。
今は福沢のことには立ち入らない。すごすぎるからね。
「丁丑」の話である。
十干十二支のうち、十二支は今に引き継がれているが、十干のほうは滅多に語られることがない。
十干が何だか覚えてはいるが、どういう意味があるのかは僕も知らない。
「木・火・土・金・水」、五行の思想は何だか意味ありげで面白そうだと思うぐらいだ。
(ATOKは五行思想を御存じないようで、「もっかどごんすい」と入力したら「目下ドゴン水」と出てきた。どんな水だ?)
おさらいしてみる。
十干とは、甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸(こう・おつ・へい・てい・ぼ・き・こう・しん・じん・き)
これは順に、木(きのえ・きのと)火(ひのえ・ひのと)土(つちのえ・つちのと)金(かのえ・かのと)水(みずのえ・みずのと)と読み下される。
十二支は御存じ、子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥
この組み合わせで各年のエトが決まるわけだ。
エトの組み合わせは何通りあるか?
10×12で120通り、というのは、かつて僕が大の得意だった「早とちり」の典型例で、並べてみれば分かるように実際には60通りしかできない。(これを理屈で説明しようとすると、単純な僕の頭はいともたやすく不条理の世界に迷入してしまう。)
60年でエト(十干十二支)が出発点に戻るので、満60歳(というか人生の61年目)を「還暦」というわけだ。
これが人生の標準的な長さの近似値(今日の標準ではちょっと短いが)になっているのは偶然ではなくて、古代の中国人がそのように設定したのだろうと家人の説、きっとそうだろうね。
それはさておき、丁丑は「ひのと・うし」と確かめてふと今さら気づいたのだが、「ひのと・うし」の年はあっても、「ひのえ・うし」という年はゼッタイできない。「丑」は「乙・丁・己・辛・癸」とは組むが、「甲・丙・戊・庚・壬」とは組まない。
だから120通りではなく、60通りなのだ。あたりまえだが、今まで気づいていなかった。
そこで十二支の動物を、「甲・・・」と組むか「乙・・・」と組むかで二群に分けてみる。
甲群: 子 寅 辰 午 申 戌
乙群: 丑 卯 巳 未 酉 亥
これを眺めて、何か言えないかな~と思ったりするが、どうなんでしょうね。
それぞれ直近の対を比べてみると・・・
ネズミ(軽小敏速)vs ウシ(巨大鈍重)
トラ(強力獰猛) vs ウサギ(柔弱温順)
リュウ(天空飛翔)vs ヘビ(地上跛行)
ウマ(快速疾駆)vs ヒツジ(鈍足徘徊)
イヌ(馴化秩序)vs イノシシ(野生奔放)
それぞれ何かしら理屈は付くし「竜頭蛇尾」なんていう熟語もあるぐらいで、きっとこの対照/対称は本来の意図の内にあるのだろう。
ただ、サルとトリはどうなるのか。
利口なお猿と、三歩歩けば忘れるおバカな鳥・・・とは思いたくないのですよ。
トリ年だからね、僕は。
歴史に話を戻すと、大きな出来事をエトでもって命名できるのは便利なところだ。
本朝の場合、古いところでは壬申の乱がある。壬申の乱が西暦672年と覚えておくと、すべての年のエトはそこから計算できる。戊辰戦争(1868年)のほうが便利かな。
その間のできごとは元号で呼ぶことのほうが多く、さほど用例が多くはないね。
近いところで阪神甲子園球場や関連施設は、その一帯の開発が本格的に始まった大正13年(1924年)が「甲子(きのえ・ね)」の年であったことに由来する。
中国史にはこの例は多いだろう。近くは辛亥革命(1911年)、それに先立つ戊戌の変法(1898年)など。
秀吉による文禄・慶長の役は、韓国・北朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼ばれるそうな。
1592年と1597年のエトにちなんだものだ。
今年は巳年、癸(みずのと)巳の年である。
内外とも水辺が和やかであれかしと切念する。
タイトルの「丁丑」は干支、「ひのと・うし」のことである。
明治十年に書かれたもので、同年が「ひのと・うし」だったので福沢がこのように題したのだ。
内容は物騒なもので、この年の西南戦争で反逆者の汚名を着た西郷隆盛らを擁護し、当然、痛烈な政府批判につながるものを含んでいる。
当時は讒謗律(明治8年制定、同13年旧刑法制定に伴い失効)および新聞紙条例のもとに、自由民権運動をはじめとする反政府的な言動は厳しく抑圧されていた。このため福沢は書いたものをいったん封印した。それが世に出るのは福沢の没年、明治34年のことであった。
今は福沢のことには立ち入らない。すごすぎるからね。
「丁丑」の話である。
十干十二支のうち、十二支は今に引き継がれているが、十干のほうは滅多に語られることがない。
十干が何だか覚えてはいるが、どういう意味があるのかは僕も知らない。
「木・火・土・金・水」、五行の思想は何だか意味ありげで面白そうだと思うぐらいだ。
(ATOKは五行思想を御存じないようで、「もっかどごんすい」と入力したら「目下ドゴン水」と出てきた。どんな水だ?)
おさらいしてみる。
十干とは、甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸(こう・おつ・へい・てい・ぼ・き・こう・しん・じん・き)
これは順に、木(きのえ・きのと)火(ひのえ・ひのと)土(つちのえ・つちのと)金(かのえ・かのと)水(みずのえ・みずのと)と読み下される。
十二支は御存じ、子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥
この組み合わせで各年のエトが決まるわけだ。
エトの組み合わせは何通りあるか?
10×12で120通り、というのは、かつて僕が大の得意だった「早とちり」の典型例で、並べてみれば分かるように実際には60通りしかできない。(これを理屈で説明しようとすると、単純な僕の頭はいともたやすく不条理の世界に迷入してしまう。)
60年でエト(十干十二支)が出発点に戻るので、満60歳(というか人生の61年目)を「還暦」というわけだ。
これが人生の標準的な長さの近似値(今日の標準ではちょっと短いが)になっているのは偶然ではなくて、古代の中国人がそのように設定したのだろうと家人の説、きっとそうだろうね。
それはさておき、丁丑は「ひのと・うし」と確かめてふと今さら気づいたのだが、「ひのと・うし」の年はあっても、「ひのえ・うし」という年はゼッタイできない。「丑」は「乙・丁・己・辛・癸」とは組むが、「甲・丙・戊・庚・壬」とは組まない。
だから120通りではなく、60通りなのだ。あたりまえだが、今まで気づいていなかった。
そこで十二支の動物を、「甲・・・」と組むか「乙・・・」と組むかで二群に分けてみる。
甲群: 子 寅 辰 午 申 戌
乙群: 丑 卯 巳 未 酉 亥
これを眺めて、何か言えないかな~と思ったりするが、どうなんでしょうね。
それぞれ直近の対を比べてみると・・・
ネズミ(軽小敏速)vs ウシ(巨大鈍重)
トラ(強力獰猛) vs ウサギ(柔弱温順)
リュウ(天空飛翔)vs ヘビ(地上跛行)
ウマ(快速疾駆)vs ヒツジ(鈍足徘徊)
イヌ(馴化秩序)vs イノシシ(野生奔放)
それぞれ何かしら理屈は付くし「竜頭蛇尾」なんていう熟語もあるぐらいで、きっとこの対照/対称は本来の意図の内にあるのだろう。
ただ、サルとトリはどうなるのか。
利口なお猿と、三歩歩けば忘れるおバカな鳥・・・とは思いたくないのですよ。
トリ年だからね、僕は。
歴史に話を戻すと、大きな出来事をエトでもって命名できるのは便利なところだ。
本朝の場合、古いところでは壬申の乱がある。壬申の乱が西暦672年と覚えておくと、すべての年のエトはそこから計算できる。戊辰戦争(1868年)のほうが便利かな。
その間のできごとは元号で呼ぶことのほうが多く、さほど用例が多くはないね。
近いところで阪神甲子園球場や関連施設は、その一帯の開発が本格的に始まった大正13年(1924年)が「甲子(きのえ・ね)」の年であったことに由来する。
中国史にはこの例は多いだろう。近くは辛亥革命(1911年)、それに先立つ戊戌の変法(1898年)など。
秀吉による文禄・慶長の役は、韓国・北朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼ばれるそうな。
1592年と1597年のエトにちなんだものだ。
今年は巳年、癸(みずのと)巳の年である。
内外とも水辺が和やかであれかしと切念する。