散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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十干十二支

2013-04-15 08:26:41 | 日記
『丁丑公論』といえば、

タイトルの「丁丑」は干支、「ひのと・うし」のことである。
明治十年に書かれたもので、同年が「ひのと・うし」だったので福沢がこのように題したのだ。
内容は物騒なもので、この年の西南戦争で反逆者の汚名を着た西郷隆盛らを擁護し、当然、痛烈な政府批判につながるものを含んでいる。
当時は讒謗律(明治8年制定、同13年旧刑法制定に伴い失効)および新聞紙条例のもとに、自由民権運動をはじめとする反政府的な言動は厳しく抑圧されていた。このため福沢は書いたものをいったん封印した。それが世に出るのは福沢の没年、明治34年のことであった。

今は福沢のことには立ち入らない。すごすぎるからね。
「丁丑」の話である。

十干十二支のうち、十二支は今に引き継がれているが、十干のほうは滅多に語られることがない。
十干が何だか覚えてはいるが、どういう意味があるのかは僕も知らない。
「木・火・土・金・水」、五行の思想は何だか意味ありげで面白そうだと思うぐらいだ。
(ATOKは五行思想を御存じないようで、「もっかどごんすい」と入力したら「目下ドゴン水」と出てきた。どんな水だ?)

おさらいしてみる。

十干とは、甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸(こう・おつ・へい・てい・ぼ・き・こう・しん・じん・き)
これは順に、木(きのえ・きのと)火(ひのえ・ひのと)土(つちのえ・つちのと)金(かのえ・かのと)水(みずのえ・みずのと)と読み下される。

十二支は御存じ、子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥

この組み合わせで各年のエトが決まるわけだ。
エトの組み合わせは何通りあるか?
10×12で120通り、というのは、かつて僕が大の得意だった「早とちり」の典型例で、並べてみれば分かるように実際には60通りしかできない。(これを理屈で説明しようとすると、単純な僕の頭はいともたやすく不条理の世界に迷入してしまう。)
60年でエト(十干十二支)が出発点に戻るので、満60歳(というか人生の61年目)を「還暦」というわけだ。

これが人生の標準的な長さの近似値(今日の標準ではちょっと短いが)になっているのは偶然ではなくて、古代の中国人がそのように設定したのだろうと家人の説、きっとそうだろうね。
それはさておき、丁丑は「ひのと・うし」と確かめてふと今さら気づいたのだが、「ひのと・うし」の年はあっても、「ひのえ・うし」という年はゼッタイできない。「丑」は「乙・丁・己・辛・癸」とは組むが、「甲・丙・戊・庚・壬」とは組まない。
だから120通りではなく、60通りなのだ。あたりまえだが、今まで気づいていなかった。

そこで十二支の動物を、「甲・・・」と組むか「乙・・・」と組むかで二群に分けてみる。

甲群: 子 寅 辰 午 申 戌
乙群: 丑 卯 巳 未 酉 亥

これを眺めて、何か言えないかな~と思ったりするが、どうなんでしょうね。
それぞれ直近の対を比べてみると・・・

ネズミ(軽小敏速)vs ウシ(巨大鈍重)
トラ(強力獰猛) vs ウサギ(柔弱温順)
リュウ(天空飛翔)vs ヘビ(地上跛行)
ウマ(快速疾駆)vs ヒツジ(鈍足徘徊)
イヌ(馴化秩序)vs イノシシ(野生奔放)

それぞれ何かしら理屈は付くし「竜頭蛇尾」なんていう熟語もあるぐらいで、きっとこの対照/対称は本来の意図の内にあるのだろう。
ただ、サルとトリはどうなるのか。
利口なお猿と、三歩歩けば忘れるおバカな鳥・・・とは思いたくないのですよ。
トリ年だからね、僕は。

歴史に話を戻すと、大きな出来事をエトでもって命名できるのは便利なところだ。
本朝の場合、古いところでは壬申の乱がある。壬申の乱が西暦672年と覚えておくと、すべての年のエトはそこから計算できる。戊辰戦争(1868年)のほうが便利かな。
その間のできごとは元号で呼ぶことのほうが多く、さほど用例が多くはないね。
近いところで阪神甲子園球場や関連施設は、その一帯の開発が本格的に始まった大正13年(1924年)が「甲子(きのえ・ね)」の年であったことに由来する。

中国史にはこの例は多いだろう。近くは辛亥革命(1911年)、それに先立つ戊戌の変法(1898年)など。
秀吉による文禄・慶長の役は、韓国・北朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼ばれるそうな。
1592年と1597年のエトにちなんだものだ。

今年は巳年、癸(みずのと)巳の年である。
内外とも水辺が和やかであれかしと切念する。



土曜の朝、ニュースと記憶とわが友スンヒョン

2013-04-13 11:41:52 | 日記
関西の大学に行っている長男から、朝、珍しく電話あり。
「え?地震?」
家内の声が裏返った。

テレビを点けると、やっている。
5時33分ごろ、淡路島付近地下10㎞を震源として、M6.0の地震ありと。
最大震度6弱、瓦屋根の傷んだ様子がヘリから映し出される。

けが人は出ているが幸い死者はなし。
長男らは淡路島の北端からだと直線距離で40㎞もないところにいるが、震度は3~4程度。しかし同地の人々は直ちに思い起こしたことだろう。

1995年1月17日(火)午前6時前。
僕らはちょうどアメリカにいて、3年間の滞在の一年目の終わり近くだった。
そしてあの時も電話だった。

アメリカは月曜の夕方、夕食の支度をしていた家内が、料理のレシピを訊きたくて兵庫の母親に珍しくも国際電話をかけたのが、偶然にも地震発生の直後だった。
ものすごい揺れで廊下の柱時計が倒れ、家具のガラスがどれもこれも粉々に割れて危険な状態だが家族は無事と伝えられた。その直前に祖母が百歳近くで大往生を遂げたところで、震災に巻き込まれずに他界したことが家族の慰めとなった。いったん置いた電話はその後しばらく不通となり、日本国内の家族らに向けアメリカから「実家は被害あるも無事」と連絡したものである。

その夜から、アメリカの三大テレビがトップニュースとして震災後の日本の状況を伝えることが、ちょうど一週間にわたって続いた。
8日目になり、代わってトップに報じられたのはO.J.シンプソンの妻殺害容疑に関する裁判開始のニュースだった。

***

当時のことをぼんやり思い起こしていると、テレビの画面が地震から北朝鮮に代わった。

北朝鮮の国営テレビ放送が、既に準・戦争状態に入ったと報じている。北朝鮮の一般民衆の姿は例によってまったく見えないが、向こう側に非常な緊張があり(それが作られたものであるにせよ)、こちら側とは大きな温度差があるのは確からしく、それがまたもうひとつの記憶を呼び起こす。

アメリカ滞在中、仲良しのサラのお母さんが日米開戦当時の思い出を語ってくれたことがある。
「日本との間で問題が起きていることは知っていたけれど、外交交渉で解決されると信じていたから、真珠湾攻撃のニュースには本当に驚いた。」

サラの年長の友人であるマーリンは、開戦当時すでに学齢だったから、自分自身の思い出がある。
「真珠湾が日本軍に攻撃された、と町で大人達が言っているので、家に帰ってそのとおり母に伝えたの。そしたら母がびっくりして、拭いていたお皿が床に落ちて割れたのを、今でも覚えているわ。」

まさか戦争になるとは、アメリカの民間人は露ほども思っていなかったのだ。日本の側ではどうだったか、一般人がどれほど具体的に戦争の危険を察知していたか分からないが、それが遅かれ早かれ不可避であることを、薄々ならず感じていたのではなかったか。

この温度差が恐ろしいのである。

そういえば、わが友スンヒョンは北側に親族が大勢いたはずだ。
スンヒョン、おまえいったい、どこに行っちゃったわけ?!
韓国の精神科医、金承賢(キム・スンヒョン)の居所を、誰か知っていたら教えてください・・・




立国は私なり

2013-04-13 09:51:39 | 日記
安倍総理が、愛国心やふるさとに言及している、と昨日の朝刊。
そろそろ始まったな。

ちょうど良いので、国民栄誉賞の続きで途切れた話を少しだけ進めておく。

福沢諭吉に『痩我慢の説』という小論がある。これが無類に好きなのだ。
『丁丑公論』とセットになった講談社学術文庫の一冊は、それこそイチオシ中のイチオシだよ。
何のどういう「ヤセガマン」を説いているかは読んでのお楽しみ。ただの開明論者ではない、腰の大小の代わりにペンで戦った古武士・福沢の面目を遺憾なく著わしているからね。

さて、ここで紹介するのはその本来の趣旨ではなく、冒頭の一節だ。

「立国は私(わたくし)なり、公(おおやけ)に非(あら)ざるなり。」

こう言い切るところから『痩我慢の説』は始まる。
どういう意味か、
「愛国心とは要するに集団エゴイズムであって、公徳心というような高尚なものではない」
ということだ。
明治24年(1891年)の所説である。

卓見だし、勇気ある言挙げだと思うのだが、これが書き出しであって結論ではないのが福沢の真骨頂である。

愛国心は集団エゴイズム、つまり私情に過ぎない、しかし、その私情こそが美風の基ともなり、集団を支える力ともなる。ヨーロッパにおいても小国の「痩我慢」がしばしば歴史の転回点を作り出してきた。わが国においても、明治の困難な時代に外圧を撥ねのけ、文化水準を飛躍的に向上させるには、この私情のエネルギーがどうしても必要である・・・他の評論と読み合わせて少々言葉を足してみるなら、まずまずこんな流れである。

「愛国心は私情に過ぎない」という冷徹な観察と、

「私情こそが歴史を動かす力になる」という洞察と、

その双方をもちあわせた複眼的なリアリズムが、福沢の大きさなのだ。
だから、学ぶべきことは福沢の個々の所説よりも、むしろこのようなものの見方であると思う。

安倍氏らが愛国心の昂揚を訴えるのは結構だが、それが要するに私情の拡張に過ぎないことを知ったうえで口にしたいし、口にしていただきたい。そしてまた、その強力なエネルギーをどのような方向に動員しようとするのか、そのベクトルの全容を率直に明示していただきたい。(本来、政治家の役割は後者であって、前者ではないはずだ。)
特定の方向性をもった私情動員に反対するものは、私情そのものを持たないものと見なされるという、「いつか来た道」に誘導されるのはまっぴら御免なので。

一度にいろいろ言うと自分でも混乱するから、これはここまででいったん休止。
なお、備忘のためいくつか註を付けておく。

① 不思議な引用:
都知事時代の石原慎太郎氏が、「立国は私なり」という言葉を引用したことがある。
「なんで?」と訝るのが正しい反応。「逆じゃないの?」
そうなんです。彼、どういう意味で引用したと思いますか?

「『立国は私なり』という言葉があるように、愛国心をもって国に尽くすことは、我々ひとりひとりの責務なのだ」

あらましそのように曰ったのである。
これにはびっくりした。彼の勘違いか、あるいはよくよく承知で自己流に読み替えたのか、少なくとも福沢の原意とは正反対の文脈だからね。
この引用はメディアでも伝えられたから、ヘンだなと気づいた人は大勢いただろうが、知る限りでどこにもその指摘は出てこなかった。聞き流したんだな、みんな。

② patriotism と nationalism:
詳細は今は省略。

③ 私情の行方 ~ 防災共同体:
福沢の場合、立国に向ける私情に「脱亜入欧」の原動力たることを期待しただろう。
今日この私情に期待できる役割があるとすれば、何よりも震災復興に向けてではあるまいか。
そもそも日本人にとっては、「防災共同体」がクニや社会の原型だったのではないかと、『死生学』の原稿を書きながら考えている。
どこの国でもそうかもしれないが、たとえば「政治共同体」といったものを「防災共同体」と対にして考えるとき、「政治」よりも「防災」が上位に来るところにわれわれの歴史のひとつの特徴が現れていないか。
今この時に私情を鼓吹するのなら、あわせてこの原点に立ち返ることを考えてほしいのだが、そんなつもりはないみたいだね。

④ グスコーブドリの伝記:
詳しくはこの次に。

⑤ empathy と sympathy:
臨床心理をこととする人々は、empathy(「共感」と言っておきます)と sympathy (同情)の違いをことの最初にたたき込まれる。往々にして、「empathy」は◯、「sympathy」はよろしからず、と受け取られることが多かったが、石丸先生はこのことになると、ときどき妙なことを言っていましたね。
「sympathy そのものに寄りかかったのでは臨床はできないが、sympathy の動かない人に臨床などやってほしくない」
とか何とか。
「立国」についても似たことがいえると思う。

ああ手が疲れた・・・


精神病者監護法+アルファ

2013-04-11 20:12:46 | 日記
勝沼さんに敬意を表して、もうひとつ。

> 最近サッチャーや安倍総理が家族の絆を訴えるのは美徳の観念より自分達の進める新自由主義の補填の意味が強いという意見をよく見ます。競争社会をつくるから家族で助け合ってねという無責任な絆の強要です。

「競争社会をつくるから家族で助け合ってね」

この言葉から「塾」に集う賢明なるメンタルヘルス関係者御一同は、ある歴史上のできごとを直ちに思い出してくれるだろう(か)。

精神病者監護法のことである。
1900年(明治33年)制定のこの法律は、その第一条で「精神病者ハ其ノ後見人配偶者四親等内ノ親族又ハ戸主ニ於テ之ヲ監護スルノ義務ヲ負フ」と規定した。「看護」ではなく「監護」であることに注意したい。
精神病者がむやみに出歩いて世の中に迷惑をかけないよう、家族が責任をもってこれを「監護」せよということで、精神病者「を」守る謂ではなく、精神病者「から」世の中を守るための法律であった。この義務を遂行するために必要となれば、私宅監置すなわち座敷牢の設置が認められたから、今日に悪名を遺すのも無理はない。これに対して呉秀三が周到な実態調査に基づいて痛憤を著わしたのは有名な話、石丸先生の「精神医学」のヤマのひとつでもありましたね。

ただし、これを現代的な感覚から単純に「非人道的」と切るのではなく、それが登場した時代背景に注目せよというのが、授業でもミソだった。

1900年といえば日清戦争後・日露戦争前である。当時のわが国は、日清戦争の勝利を受けて治外法権は撤廃されたが列強に対する関税自主権は認められず、依然として半植民地状態にあった。そこからの脱出を国家的急務として、明治政府のとった方針が富国強兵である。貧乏国の日本がとてつもない無理をして一流の軍隊を持とうとするとき、しわ寄せはいやおうなく医療・福祉の領域にかぶさってくる。『坂の上の雲』はその陽の面を描いたが、これを支えた陰の部分が精神病者監護法であるといってもよい。

ヨーロッパには中世以来、修道院付属などの形で徐々に発展してきた大病院があり、伝染病対策などとあわせて精神障害者の収容に当てられた。当初はまさに「収容」の場でしかなかったものが、長い時間をかけて人道的な処遇に移行するようになる。フランス革命はこうした流れを理念的に加速した。黒船来航の時代、欧米はこうした数世紀の歩みを踏まえ、有形無形の社会資源を蓄積していたわけだ。精神障害者はこうした施設に収容されるのが、少なくとも都市部においては標準となっていた。

ひるがえって日本には何もない。病院を建てる金があれば、まず大砲を、軍艦をというのが国是で、それならば福祉は家庭に委ねる他はない。欧米への対面を繕う意味でも何らかの立法は必要である。(このあたりで「相馬事件」のスキャンダルも関わってくる。)それやこれやで後進日本のとった苦肉の策が、精神病者監護法であったともいえる。

単に現代の目で当時を切るのが無意味というのはこのあたりのことで、福祉にもバランス良く資源を配分しようとすれば軍事突出はありえないし、そうなると少なくとも富国強兵路線で戦争を勝ち抜き、迅速に植民地状態を脱するという選択肢は成立しなかっただろう。しかし、「別の選択肢」を構想するのは決して簡単なことではないのだ。

ここから先は一筋縄ではいかない話だから、この辺でいったん打ち切りにする。
書いておきたいのは、この期に及んで「競争社会をつくるから家族で助け合ってね」というのが、「富国強兵で行くから家族で助け合ってね」のリメイク版として出てくるとしたら、今度は後世に対して弁明などできないということだ。

だいいち、超高齢化+少子化時代の核家族にそんな力などありはしない。精神病者監護法は戦前の旧民法を前提としたもので、旧民法下では戸主が大家族の全ての財産と負債を管理し、構成員の運命に対して絶大な権限をもっていた(戸主が認めなければ結婚もできない)から成立した話である。今日では幸か不幸か、競争社会のしわ寄せを吸収する力をもった家族など、システムとして既に崩壊している。そのような意味で、日本人はこれからやっと近代的な意味での福祉について学び始めるのだと思う。新自由主義であれ何主義であれ、社会の果たすべき役割を家庭に押しつけるやり方では、もう何も立ち行かない。

付記:
田舎からの荷物が届き、中に例によって父が偕行(かいこう)の切り抜きを入れてくれている。その中に父の付けた赤マークがあり、見れば昭和11年当時、戦車砲の火力向上について熱心に意見具申を行った某将校が、上官に疎まれて陸軍医学学校付属の精神病棟に隔離・監禁された逸話が記されていた。
(ここでも時代背景を考えよ。昭和11年とは二・二六事件の年である。それが何を意味するか。)

さて、これは笑い話だと思いますか?

江戸言葉と国訛り

2013-04-11 11:56:41 | 日記
今朝ももちろん連載小説から一日を始め、そしてまた感心した。言葉について、詳しく言えば方言と江戸言葉について、触れた部分だ。
舞台は江戸時代の東北地方の某藩、登場人物の一人はそこで破格の出世を遂げる。江戸で磨いてきた剣の腕前を御前試合で示して藩主に抜擢されるのだが、その妹の見るところ、抜擢のもうひとつの理由は江戸言葉にある。参勤交代によって江戸の文化に触れて魅了された藩主にとって、その男の江戸言葉が大きな魅力だったのだ。
「藩主の妻子を江戸に留め置くという公儀の施策は、諸大名を治めるためには有効でも、代が重なるうちには、そうした人の性(=己の血肉となっている国訛りへの懐かしみ)を裏切るものになるのかもしれなかった」

参勤交代をこういう視点からみることができるのが、この作家の非凡な資質を示している。同時にこの件は僕の個人的な急所に触れることだ。

転勤族の息子として、僕はさまざまな言語環境の中を転々としてきた。
「ぶっきらぼうな上州の国訛り」(連載小説の主人公となるらしき女性の生国)で、小学校前半を過ごし、小学校後半では出雲訛りを話した。中学へ上がる前後の一年間は山形に暮らし、転校後3ヶ月で完璧なずうずう弁をマスターして両親のために通訳にあたった。(休暇で松山に帰省したとき、叔父叔母たちが驚いた顔と言ったら!)
その次は名古屋弁だ。今でもテレビ出演者のかすかな名古屋訛りを過たず拾うことができる。
囲碁解説で羽根直樹さんが「ここは、ほかっておくと死んでしまいます」と言ったとき、あるいは高橋尚子やなんかが、誰それが「そこにいる」「あっちにいる」と発音した瞬間、名古屋弁(東海訛りとでもいうべきか)を検出するにはこれだけで十分だ。

いずれも懐かしく、好もしいのだ。東北弁は比類なく温かい。名古屋では「みゃあみゃあ言う」と他所の人間は笑うが、独特の庶民性とともに人を繋ぐからくりが豊かにあることを、知る人は知っている。まことにまことに、どこの言葉も固有で素晴らしい。国の訛りは消えてほしくないものだと思う。

しかし、

残念なことに、僕には固有の訛りがない。詰まるところこの言葉でしか話せない、というものがないのだ。繰り返す転勤・転校の当然の結果だ。そしてこれまた当然の結果として、いちばん身についたのはNHKアナウンサー語であったかもしれない。(これを標準語とは言わずにおく。せいぜい共通語だよね。)

それはそれで悪いことではなく、損をしたとも思わない。
ただ、せっかくならこういう身の上を何かしら生かしたいと思う。
どこの出身の患者さんとでも、親しく話ができるということだけではなくて、さ。