2015年7月26日(日)
情けなくも暑さに圧倒されている。今日は36℃予報、ただ事ではない。活動は低下するのに食欲は落ちないので、目方は例年通り増え気味になる。それがまた自己効力感を下げるという悪循環。
暑い中、小型飛行機が住宅街に落ちた。白鵬が35回目の優勝を決め、旭天鵬がついに引退する。母親グループが安保法制反対の集会を開いている。時間の流れに寒暖の容赦はない。
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夜、珍しくTVを見た。池上彰スペシャル、教科書に載っていない20世紀。松岡洋右、ヒトラー、JFKと、「演説」をキーワードに映像をつないでいく。映像の大半は過去に見たことがあるものだが、こういう具合に足早に繫ぐのは面白い手法で、ヒトラーとJFKのフレーズの意外な共通点 ~ 国家が何をしてくれるかではなく、国家に対して何を為し得るかを問え ~ など、実は相当深い問題へのつながりが潜んでいる。池上は敢えて言葉にしないが、大衆蔑視と巧妙な操作、数の勝利という相対的な成果をベースに包括的・絶対的な権力掌握を目ざす手法など、現政権をヒトラーとダブらせる仕掛けがそこここにある。「そんな大げさな」とばかりも言えない。ワイマール憲法下での「公正な」選挙でヒトラーが首相に就任してからナチスドイツが瓦解するまで、わずか13年である。あれほどのことが起きようとは、1932年には誰も予想できなかっただろう。
番組に出て来る若者代表みたいな女子タレントが誰だか知らないが、ほんとに何も知らないという意味でたいへん良いサンプルになっている。「今だったら拒否する権利があるけれど、その頃は誰もイヤと言えなかったんですよね」とおっしゃるのは、どうなんでしょうね。現に徴兵制をとっている国や社会で「拒否する権利がある」かどうか、少なくとも著しい社会的不利益を被ることなく晴れ晴れと「NO」が言えるかどうか、考えたことあるかな。あるいはまた、現に戦争が始まって進行している状態 ~ 国を挙げてのお祭り騒ぎ(戦争を祝祭に喩えるのは不謹慎な冗談などではなく、学ぶところの多いきわめて有効な変換操作)の中で、「拒否する」ことの難しさがわかっているかしら。総じて今どきは、「昔の体制は権威的・非民主的であり、昔の人間は古い教育に洗脳されて歴史の流れが見えず、昔の人間は今ほど命を大事にしなかった」式に、「今とは違う」で片づけることがデフォルトになっているように感じる。しかし今どきが、ほんとにそれほど昔より進歩しているかどうか。
それだけに、ミュンヘンの街頭で「ヒトラーについてどう思うか」と通行人にインタビューする場面が印象的だった。高齢から若いほうへ、3人(1人と2組)に質問を投げかけていく。
84歳女性 「何も思わない、何も言うことはないわ。もういいかしら?」
60台男性 「ヒトラーは狂っていた。しかし彼だけではない。隣人のユダヤ人が連行される時、どういう運命が待っているか知っていながら、われわれドイツ人は何もしなかった。」
33歳男性 「自分がその当時に生きていたとしたら、どちらの側についたかは相当難しい問題だと思う。」
例によって断片の切り取りなので、断定的なことは言えない。けれど、このスペクトラムにドイツらしさがよく現れていると感じる。特に最後の男性がとりたててネオナチのシンパとかではないとした場合、危険とか何とかいうよりも、むしろこれこそが歴史的な理解ということだと思うのだ。その時、その人(々)が、そのような行動をとった背景には、必ず理由があり必然性がある。その点では個人病理と変わりがなく、それが分かっているからこそ「難しい」と言えるのだ。「今の進歩した自分たちならそんな愚かなことはしない」というのは、進歩の成果どころか無知と傲慢でしかない。
そういうことだと、またぞろ同じことが起きるのを止めるのは、甚だもって難しかろう。
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また話題が変わるが、1~2年前に「戦争の早期終結のために原爆など必要なかった」ことをくどくどと書いたら、ある友人がたまたま読んで疑問を投げてきた。長い話を短くすれば、「それはもう解決済みでしょ?」ということだったと思う。そうかもしれないが、そうでもないのじゃないか。むろん、投下した側で投下に関わった者には「正当化」の心理が働き、殊にアメリカ人は「正邪」に神経症的にこだわる人々なので、世の終わりまでいかなる反論も受けない一群が残ることは、ほとんど如何ともしがたい。そうではなく自由に考えることのできる人々の間で、あるいは他ならぬ日本人の間で、それがどの程度共有されているかということで。
簡単な思考実験だが、1945年8月以降にアメリカが待機戦術をとり、通常爆撃の反復だけで(あるいはそれすらせず、日本列島の四囲を封鎖するだけで)様子見をしたらどうなったか?その年から翌年にかけての冬を、いったいどれだけの日本人が餓死することなく生き延びられたか、そのことを言うのである。軍事教練や勤労動員そっちのけでイモ畑を耕さねばならない状況で、どんな軍事的抵抗があり得ただろうか。「米軍だけで百万の損失」なんて、ちゃんちゃらおかしい、ヘソがアメリカンコーヒーを沸かしてしまう。
ただ、日本人は餓死する時間を与えられなかったかもしれない。満州を怒濤の勢いで併呑したソ連軍が、瞬く間に北海道と日本海側から侵入してきたことは明白だし、アメリカが恐れたのも実際にはそのことだった。そうでしょ?
だからどうしても原爆投下を正当化したいなら、「百万の米軍と多数の日本人の損失を未然に防いだ」なんてことは言わず、「ソ連軍に蹂躙されるか餓死するかの二者択一より、さっさとアメリカに手を挙げたほうがトクであることを分からせるため」とでも言ったら良いのだ。
それでも僕は賛成しない(その理由は以前くどくどと書いた)が、少なくともこのほうがよほどリアルで偽善性が少ないと思う。