散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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あたり一面、暑い夏

2015-07-27 11:55:21 | 日記

2015年7月26日(日)

 情けなくも暑さに圧倒されている。今日は36℃予報、ただ事ではない。活動は低下するのに食欲は落ちないので、目方は例年通り増え気味になる。それがまた自己効力感を下げるという悪循環。

 暑い中、小型飛行機が住宅街に落ちた。白鵬が35回目の優勝を決め、旭天鵬がついに引退する。母親グループが安保法制反対の集会を開いている。時間の流れに寒暖の容赦はない。

***

 夜、珍しくTVを見た。池上彰スペシャル、教科書に載っていない20世紀。松岡洋右、ヒトラー、JFKと、「演説」をキーワードに映像をつないでいく。映像の大半は過去に見たことがあるものだが、こういう具合に足早に繫ぐのは面白い手法で、ヒトラーとJFKのフレーズの意外な共通点 ~ 国家が何をしてくれるかではなく、国家に対して何を為し得るかを問え ~ など、実は相当深い問題へのつながりが潜んでいる。池上は敢えて言葉にしないが、大衆蔑視と巧妙な操作、数の勝利という相対的な成果をベースに包括的・絶対的な権力掌握を目ざす手法など、現政権をヒトラーとダブらせる仕掛けがそこここにある。「そんな大げさな」とばかりも言えない。ワイマール憲法下での「公正な」選挙でヒトラーが首相に就任してからナチスドイツが瓦解するまで、わずか13年である。あれほどのことが起きようとは、1932年には誰も予想できなかっただろう。

 番組に出て来る若者代表みたいな女子タレントが誰だか知らないが、ほんとに何も知らないという意味でたいへん良いサンプルになっている。「今だったら拒否する権利があるけれど、その頃は誰もイヤと言えなかったんですよね」とおっしゃるのは、どうなんでしょうね。現に徴兵制をとっている国や社会で「拒否する権利がある」かどうか、少なくとも著しい社会的不利益を被ることなく晴れ晴れと「NO」が言えるかどうか、考えたことあるかな。あるいはまた、現に戦争が始まって進行している状態 ~ 国を挙げてのお祭り騒ぎ(戦争を祝祭に喩えるのは不謹慎な冗談などではなく、学ぶところの多いきわめて有効な変換操作)の中で、「拒否する」ことの難しさがわかっているかしら。総じて今どきは、「昔の体制は権威的・非民主的であり、昔の人間は古い教育に洗脳されて歴史の流れが見えず、昔の人間は今ほど命を大事にしなかった」式に、「今とは違う」で片づけることがデフォルトになっているように感じる。しかし今どきが、ほんとにそれほど昔より進歩しているかどうか。

 それだけに、ミュンヘンの街頭で「ヒトラーについてどう思うか」と通行人にインタビューする場面が印象的だった。高齢から若いほうへ、3人(1人と2組)に質問を投げかけていく。

 84歳女性 「何も思わない、何も言うことはないわ。もういいかしら?」 

 60台男性 「ヒトラーは狂っていた。しかし彼だけではない。隣人のユダヤ人が連行される時、どういう運命が待っているか知っていながら、われわれドイツ人は何もしなかった。」

 33歳男性 「自分がその当時に生きていたとしたら、どちらの側についたかは相当難しい問題だと思う。」

 例によって断片の切り取りなので、断定的なことは言えない。けれど、このスペクトラムにドイツらしさがよく現れていると感じる。特に最後の男性がとりたててネオナチのシンパとかではないとした場合、危険とか何とかいうよりも、むしろこれこそが歴史的な理解ということだと思うのだ。その時、その人(々)が、そのような行動をとった背景には、必ず理由があり必然性がある。その点では個人病理と変わりがなく、それが分かっているからこそ「難しい」と言えるのだ。「今の進歩した自分たちならそんな愚かなことはしない」というのは、進歩の成果どころか無知と傲慢でしかない。

 そういうことだと、またぞろ同じことが起きるのを止めるのは、甚だもって難しかろう。

 ***

 また話題が変わるが、1~2年前に「戦争の早期終結のために原爆など必要なかった」ことをくどくどと書いたら、ある友人がたまたま読んで疑問を投げてきた。長い話を短くすれば、「それはもう解決済みでしょ?」ということだったと思う。そうかもしれないが、そうでもないのじゃないか。むろん、投下した側で投下に関わった者には「正当化」の心理が働き、殊にアメリカ人は「正邪」に神経症的にこだわる人々なので、世の終わりまでいかなる反論も受けない一群が残ることは、ほとんど如何ともしがたい。そうではなく自由に考えることのできる人々の間で、あるいは他ならぬ日本人の間で、それがどの程度共有されているかということで。

 簡単な思考実験だが、1945年8月以降にアメリカが待機戦術をとり、通常爆撃の反復だけで(あるいはそれすらせず、日本列島の四囲を封鎖するだけで)様子見をしたらどうなったか?その年から翌年にかけての冬を、いったいどれだけの日本人が餓死することなく生き延びられたか、そのことを言うのである。軍事教練や勤労動員そっちのけでイモ畑を耕さねばならない状況で、どんな軍事的抵抗があり得ただろうか。「米軍だけで百万の損失」なんて、ちゃんちゃらおかしい、ヘソがアメリカンコーヒーを沸かしてしまう。

 ただ、日本人は餓死する時間を与えられなかったかもしれない。満州を怒濤の勢いで併呑したソ連軍が、瞬く間に北海道と日本海側から侵入してきたことは明白だし、アメリカが恐れたのも実際にはそのことだった。そうでしょ?

 だからどうしても原爆投下を正当化したいなら、「百万の米軍と多数の日本人の損失を未然に防いだ」なんてことは言わず、「ソ連軍に蹂躙されるか餓死するかの二者択一より、さっさとアメリカに手を挙げたほうがトクであることを分からせるため」とでも言ったら良いのだ。

 それでも僕は賛成しない(その理由は以前くどくどと書いた)が、少なくともこのほうがよほどリアルで偽善性が少ないと思う。


『希望』

2015-07-27 10:15:20 | 日記

 2015年7月26日(日)

 中高一貫にはそれなりの良さがあるが、地域のつながりから早い時点で切り離されてしまう点に少なからず難がある。日本の社会で進行中の再系列化を助長してしまうよね。

 何が言いたいかって、僕自身は転勤族の息子で、中学3年間のほぼ全てを名古屋で過ごした。地元の市立である汐路中学校というところに選択の余地なく通ったのだが、これが良かったのである。クラスにはいろんな家庭の、いろんな子がいた。先年来、卒業40周年をきっかけに集まるようになって、あらためて確認する。サラリーマンばかりではない、町工場の経営者や商店主があり、教員や医師もいる。集まれば昔通りの隔てのないやりとりが邪気なく楽しいのだが、中に画家や音楽家もいるのが、また面白いところで。

 Fちゃん・・・S画伯というべきかな、彼女は確かに図画工作の時間には生き生きしていたが、まさかホンモノの画家になるとは思わなかった。彼女とは40年ぶりではなくて、ときどき個展を覗いたりし、確かブログにも掲出済みだよな。この夏もまた、案内の葉書が来ている。昨日は気が変になるほど暑い土曜日だったが、碁笥をひきとるついでもあって(というか、そういう口実を自分に与えて)銀座の画廊へ回った。

  

 広々としたフロアの壁一面に、20点ほどの抽象画やオブジェ、いくつあったって彼女のはすぐに見つかると思ったが、いつものように目に飛び込んでこない。端からゆっくり見て回り、やがて正面に立った。

 タッチはいつもの通り、外連味のない溌剌とした生命賛歌だが、そうか、赤がまったく使われていないのだ。僕の知る限り、覚えがない。その代わり、背景の黒がしっとりと美しく、中央上部に空のように覗かれるトルコブルーが澄んで深い。

 いいなあ。

 これって売り物かな、あまり高くないといいな。後で聞いたら『希望』というこの作品は、いつもに増して評判が良いのだそうである。絵なんて分からないと思っているが、ゼンゼン分からないわけでもないのかな。何でもいいや、とにかく好もしい。

 

(S画伯様、掲載しちゃってよかったですか?)

⇒ はーい、大丈夫です!とお返事あり。よかったよかった。


『赤蛙』 Mさんに御礼

2015-07-27 10:13:16 | 日記

2015年7月25日(土)

 Mさま:

 先日はすっかり御馳走になりました。私のほうから御礼を申しあげたかったのに、かえって御社に慰労していただくことになって恐縮です。美味しい料理をいただきながら、この業界の事情についていろいろと聞かせていただき、とても有意義な時間を過ごすことができました。重ねて御礼申します。

 たまたま書架にあった御社の労作、奥付などから1990年頃に購入したものと思われます。漢字のトリビアについて、楽しいばかりか実用的でもある知識・情報が満載で、教養の宝箱といった趣のある価値ある一冊でした。それだけに、

 「こんなふうに小さい字がミッチリ詰まったものは、今は売れないんです」

 というMさんの呟きが、周知のこととはいえたいへん残念です。大げさなようですけれど、日本人が何世紀も前から培ってきた「教養」という伝統が、21世紀を迎えてあっという間に消え去りつつあるような気がします。Mさんを駆動したマンガというものは私も大好きで、『鉄腕アトム』に育てられ『あしたのジョー』に鍛えられた幸せを思うのではありますけれど、ビジュアルが文字を補完するのではなく駆逐するようでは、文化の根腐れというものだろうと思います。

 「採算を度外視して良いから、好きな本を作ってみなさい」といわれたら、どんな本を作りたいですか?

 そうお尋ねしたのに対して、Mさんは大きくのけぞるようにして、「そういう発想を、もう長いことしたことがなくて・・・」と答えに窮していらっしゃいましたね。もちろん現実には、採算を度外視した本作りなどありえないでしょうが、せめてあなたの幻の中で、自由な本作りを楽しまれるよう願っています。

 

 

 さて、翻訳小説は読まないとおっしゃること、たいへん興味深く感じました。おっしゃるとおり、翻訳は原作者と翻訳者の共同作品と考えるべきで、感動の由来がどちらであるのかを自問する時など、なるほど翻訳はわずらわしく胡散臭い一面をもっています。私の場合、「由来」を探索するのが楽しみの一つなので、逆に翻訳物が楽しいということもあるのですが。(ちなみに、私が最初に夢中になった翻訳ものは『クマのプーさん』、A.A.ミルンと石井桃子の極上のコラボでした。)

 お勧めいただいた『赤蛙』、Kindle 版で無料で手に入れ、木曜のうちに読んでしまいました。「とても面白かった」、まずはその一言をお届けしたいと思います。

 何が面白かったのか、本質的なところについては、言語化するまで少し時間をください。つまらないところから言えば、この作品には多くの親類縁者があるようです。たとえば志賀直哉の『城之崎にて』、死病と直面する主人公が、確か蜂の死骸に自分を重ねる場面がありましたね。湯治先のできごとなのも共通しています。あるいは井伏鱒二『山椒魚』、作品構成として似ているとはいえませんが、そこに出てくるのは一対の両生類。特に蛙という生き物の愚にして鈍でありながら、矯めた力で大きく跳躍する力強さ、圧倒的な運命の力に少しも怖じることなく、死に至るまで無益な跳躍を敢行し続ける姿には、ある崇高さが感じられます。いっそ、カミユの『シシュフォスの神話』と並べてみたい気がします。

 ところでMさん、島木健作の名を思い出せなかったのは、よくあることで少しも構わないのですが、確か「昔の・・・明治の作家」とおっしゃいませんでしたか?島木健作(1903-1945)は昭和の作家です。実年齢がどうこうということではなく、共産党員として検挙された経験をもつ「転向作家」であることを含め、そのあり方全体がすぐれて昭和的です。近代日本の作家をふりかえるとき、あらまし明治、大正、昭和(戦前)、昭和(戦後)を分けて考えるのは、益の多いことだろうと思います。

 もうひとつ、結核に冒された作家という「伝統」にも島木は連なっていますね。結核撲滅に向けた車内広告を、ちょうど今週に入って何度か見かけました。そこに掲げられた4人の肖像は、音楽家の滝廉太郎の他に、樋口一葉、正岡子規、石川啄木の3人でした。島木もこの末、敗戦二日後の1945年8月17日に他界しています。川端康成や小林秀雄に注目・嘱望されていたとの記事を読んで、ふと北条民雄(1914-37)を連想しました。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%9C%A8%E5%81%A5%E4%BD%9C

 『赤蛙』は末尾に「昭和21年1月」とあるので、そこに島木自身の闘病とあわせて敗戦直後の時代状況も重ねられているかと早合点しましたが、実際には戦中に書かれたものが戦後(=没後)に発表の場を得たもののようです。あわせてKindle で入手した『黒猫』『癩』など、この機会に読んでみます。

 あらためて、楽しい時間をどうもありがとうございました。

 


読書メモ ~ 『ホットケーキで「脳力」があがる』 ・・・ それとも人間をやめますか?

2015-07-25 07:41:29 | 日記

2015年7月25日(土)

 昨日の行き帰りに読みました。以下、抜き書き。

 

第1章 「何かがおかしい」子どもたちが急増

 ゲームをしているときの脳活動をくわしく調べると、ゲーム中は脳に強い抑制がかかることがわかりました。(・・・)そしてゲームで遊んだ後に何か別の作業をすると、脳全体がうまく働けないということもわかりました。要するに、ゲーム後はしばらく脳がマヒしたような状態になってしまうのです。

 一方、単純な計算をしているとき、右脳も左脳も前頭前野がしっかり働いていました。一桁のとても簡単な計算ですから、それほど脳の働きが必要ではないだろうと考えていたのですが、全員一様に活発に働いていたのです。

(P.9~11)

 親になってからどころか、それ以前、男女が出会ってデートしているようなときからお互いにスマホを片時も手放さないようなことが、ごく普通になっています。食事をしているカップルが、話もせず、顔も見ず、それぞれのスマホをいじっているというのは、今やごく当たり前の光景です。

 だからこそ、子育て中はあえて意識して、スマホや携帯電話を介在させない状況を作り、その中で親子がしっかりと関わるという取り組みをしなければいけない時代になったのではないかという危機感を、私自身は非常に強く抱いています。

(P.18~19)

 高校生の頃に、仕方なく携帯電話を持たせましたが、「夜寝るときと、勉強をしに自分の部屋に行くときは、携帯電話は必ず居間に置いていく」ということが、買ったときの約束でした。子どもがそれを破ったときには、携帯電話は没収、登校以外の外出は禁止、自宅では自室に蟄居処分にしました。

 家庭内での約束は一番大事な約束ですから、それを破るのは万死に値するほどのことだと学んでほしいと思ったのです。もうすぐ30歳になる長男がたまに帰省した時に、朝、彼のスマホがぽつんと居間に置かれていることがあります。少々やり過ぎたかな、と胸がチクリとします。

(P.26~27)

 

第2章 すべての子どもに必要な「朝ごはん」

 非常に深刻なのは、小学校の低学年以下の子どもがいる半数以上の家庭で、子どもと一緒に朝ごはんを食べていないという事実が浮かび上がってきたことです。その原因がどこにあるのか、私たちも非常に知りたいところです。子育てにおいて、これほど深刻なことはないのではないでしょうか。(P.52)

 

第3章 朝食の「質」と「摂り方」でこんなに変わる

 ここで奇妙な数字の一致があることに気がつきました。朝ごはんでおかずを食べていない子どもたちの割合が約4割、そして、朝ごはんの栄養バランスを意識していない保護者の割合も約4割です。偶然かもしれませんが、親の意識が子どもの朝食の実態にそのまま反映されている様な気がしてなりません。(P.71)

 母の体が弱かったことから、中学2年生のほぼ1年間、朝ごはん作りは私の仕事でした。父、母、妹、自分の朝食を準備し、お弁当が必要なときはお弁当を作り、普通に中学生活を送っていました。(P.77)

 子どもたちの知能指数と朝ごはんの主食の関係を調べていくと、米のごはんを食べている子どもたちの方が、パンを食べている子どもたちよりも、知能指数が高いというデータが出てきました。ただし、統計的にはそんなに強い傾向ではありません。「差がありそうだ」という程度のデータです。(・・・)朝ごはんで主食に米のごはんを食べる子のほうが、パンのごはんを食べる子よりも大脳の灰白質の体積が大きいことがわかりました。(P.81)

 パン食をしている人は、できれば全粒粉のパンに切り替えたほうがいいと思います。(P.87)

【註: 著者自身は ~ 僕と同じく ~ 朝ごはん「パン」党である。なので最近はパン焼き器を買ってきて、玄米を使って自分で米のパンを焼いて食べるようにしているという。】

 

第4章 「ホットケーキ作り」がもたらすもの

 子育て中の親に、たとえば、「週に一回でいいので、1日10分か20分、お子さんと一緒に何かをしてほしい」などとお願いすると、みなさん口をそろえて「忙しいから難しい」と答えるのです。「忙しくてとてもできない」と真顔で断れられるたびに驚きを感じました。

 「自分は仕事を持っているし、少ない時間の中でも子どもたちと一生懸命がんばって関わっています。そんな状況で、さらに新しく何かをするというのは不可能です」などと言って、最初は断る人がほとんどでした。

 そのうち、どう切り返せばいいかを学んでいきました。「忙しい」という人に対して、まずはそのことに共感を示してから、「ちょっとお尋ねしたいのですが」と切り出します。「そんなお忙しい中、御家庭で、御自身でスマホを何分ぐらいいじっていますか?TVはどれぐらい見ていますか?」と聞いてみるのです。これは結構効果があり、多くの親御さんの顔色が変わりました。

(P.104~105)

 実験を始めてみると、その結果以上に面白いことが起こりました。

 「自分のこれまでの子育ては間違っていたかもしれない」「一生懸命子どもと関わってきたつもりだったけれど、子どもと一対一できちんと向き合っていなかった」「子どもに声がけをする、子どもの表情を見る、という当たり前のこと、それを意識して、ほかのことをせず、子どもに集中したことがなかったかもsりえない」などということに、自発的に気づく人が多かったのです。

(P.107~108)

 

第5章 「早寝、早起き、朝ごはん」のためにできること

 TVを長時間見ていると知能指数が下がります。さらに、もっと深刻なことには、TVを長時間見ている子どもたちは、大脳の前頭前野を中心として脳の発達が悪くなっているということもわかりました。

 通常私が記者会見すると、”脳トレ教授”が何かおもしろいことをやるかもしれないということで、ほぼすべてのメディアがきてくださるのですが、このときばかりは、NHKを含めてテレビ局は一局も来ませんでした。

 メディアというものの真実が、ここにあるのかもしれません。今の日本のメディアは、自分たちにとって都合の悪い情報は、それがなかったことになるまで口をつぐんで、じっと待っているというところがあるように思います。

 実はこのデータは、発表してすぐにアメリカやヨーロッパから大反響があって、子どもの教育にとってこんなに重要なデータはないと大騒ぎになったのですが、日本ではまったく無視されたのです。

 アメリカでは、子どもだけではなく、TVを見る時間が長い大人はアルツハイマーになりやすいというデータまできちんと出ているのですが、これは日本はもちろん、本家のアメリカでもメディアではほとんど報道されていません。

(P.140~141)

 今までは、スマホや携帯電話を長くいじっていると、その分、家で勉強しないから成績が下がるのだという解釈がされていたのですが、そんなものではなかったということです。これは、子どもたちの脳の中から、学校で学んだ情報が消えたという大変ショッキングなことを意味しています。

(P.144)

 おそらく何らかの意図を持った(私はスポンサーの意を汲んだと邪推しています)新聞記者が、記者会見の翌日にかみついてきました。

(P.146)

 

第6章 脳のさらなる可能性

 (作業記憶力のトレーニングとして)心理学の世界で一番使われているのは、「Nバック課題」と呼ばれるトレーニング方法です。

(P.178~179)

【Nバック課題!! う~ん、これは御勘弁・・・なんか、もう少し楽しいのはないかな、碁では代用できないかな、う~ん・・・】

 子どもたちにとって、積極的に脳を鍛えるということを一番健全な方法でやるのは、おそらく学校の勉強を一生懸命やることなのだろうと私たちは考えています。(・・・)寺子屋では、さまざまな身分の子どもたちが、読み・書き・そろばんを和尚様に習うということを、全国津々浦々でしていました。実はこのことこそが、当時の日本国民全体の能力を高めるうえできわめて有効だったのではないかと思うのです。

(P188~189) !!!!!

 これまでたくさん講演を行ってきて非常におもしろいと思ったのは、女子生徒たちは「自分たちには子どもを産まないという権利はおそらくないだろう」という答えが多く、「たとえ生まない権利はあったとしても、私はぜひ子どもをもちたい」という生徒も多いこと、これに対して男子生徒たちは8~9割が「生まない権利は間違いなくある、人の長い歴史があることはわかるけれど、それより自分の意思が大事だ、産むか産まないかは自分とパートナーが決めることであって、歴史が決めることではない」というのです。

 こうした議論を聞いていて、非常にたくましい、いいこどもたちだと感心します。このような問いかけにもよく考えて自分なりの意見をしっかり述べることができる子どもたちがいることに安堵します。それと同時に、今の教育の中では、大きな歴史の長い時間の流れの中で自分たちの存在価値や生きる意味をとらえていくトレーニングが、あまりなされていないということに少し不安を覚えるのも事実です。

(P.200~201)

 

さいごに

 平成27年4月、信州大学の入学式で学長先生が、「スマホをやめますか、それとも信大生をやめますか」と語りかけたと報道されました。それに対して、スマホなしの生活はあり得ないとのコメントが若者たちから出ているのを見ました。私が、独裁者としてこの国を自由にしようと企んでいるとしたら、信州大学長の存在に恐怖し、学長の言葉の意味を理解できない若者がたくさんいることに安堵します。自ら深く考えることを放棄した人間ほど、支配しやすい存在はありません。

 つまり、この若者たちの短絡的な反応は、私たちが恐れていた時代がすでに到来している証なのです。

 

 私も、学長先生と同じその重要な問いを繰り返します。

 スマホをやめますか、それとも人間をやめますか?

(P・205) 

 

 

 

 

 

 


稽顙再拜 悚懼恐惶 ~ 千字文 110

2015-07-25 07:22:36 | 日記

2015年7月25日(土)

 続けて行っちゃおう。祭りの際のマナーのことである。

 「額(ぬか)ずいて二度ひれ伏し、おそれつつしんでかしこまる。」

 「頓首再拝」とか「恐惶謹言」とか、周囲で意外に使う人があり、まだまだ死語とは言えない。「頓首再拝」という言葉を僕が知ったのは『罪と罰』の江川卓訳、キザ男のピョートル・ペトロヴィッチ・ルージンが婚約者の母親に宛てた手紙の末尾だったと思う。

 深く首うなだれるぐらいのことかと思っていたが、頓首も稽顙も頭を地に付けることを意味するのだそうだ。目前に偉いさんがふんぞり返っている図を考えるとシャクにさわるが、本来は母なる大地に頭をすりつける、素朴な愛情表現ではなかったかしら。

 そういえば『罪と罰』の終わり近く、自首を決意したラスコーリニコフがソーニャに言われるまま、道で跪き大地にひれ伏す場面がある。フロイトはドストエフスキーのこの種の悔悟をえらく嫌ったが、僕には懐かしい場面である。どちらかといえば、フロイトの方に防衛の作為を感じるんだな。