2016年9月21日(水)にいったん戻って。
都会の路上では皆余裕がない、僕と同じだ。
月曜からこっち、「怒り」について考え続けている。怒りについて考えること自体に怒りを遅らせる効果があり、これも箴言の素材になりそうだ。「怒りに呑まれるな、怒りについて考えよ・・・」とか。ついでながら箴言は全体がきわめてリズミカルな韻文になっている。漢詩の五絶・七律が連歌のように延々と続くのを想像すればよい。和訳でそこまで再現するのは至難と分かっているが、新共同訳は音読・朗読への配慮が薄すぎる。「あなたがた」と「あなたたち」、黙読するならどちらでも同じだが、「あなたたち」のほうは発音するも聞くにも微妙に煩わしいのである。
それはさておき、そんなことは中学・高校時分に考えておくもんでしょ、というレベルの話だが、僕はそれをしなかった。怒りん坊・癇癪もち、そのエネルギーに使うことを考えても制御しようとは思わなかった・・・言いすぎかな。
まず思ったのは、「怒り」はおおかた防衛ないしは反応だということである。何の?思いつく順に、まずは「悲しみ」の、次いで「恐怖」の防衛であるに違いない。分かりきったことだが忘れている。それならいっそ「怒り」という防衛反応の起動を抑え、本来の感情と対峙してじっくり味わったらどうか。
早速やってみたら、出勤途上の1時間余りの間に悲しい気もちが胸の内外に満ち満ちてきた。京葉線から見える広々とした海空が、悲しみの色に染まっているようである。怒らない人には、世界がこんなふうに見えるのか。マザーテレサやダイアナは、こんな色の海空を見ていたのかもしれない。
職場に着く直前に大きな陸橋があり、これには階段がなくて全体が広いスロープになっている。当然の結果として、これを下る自転車は相当のスピードを出すことになり、歩行者に危険なしとしない。今日も今日とて、歩き昇る僕の横を中年の女性が猛スピードで駆け下りて行った。彼女は50m前方の地面を気にしているが、こちらは50cm横を通り過ぎるつむじ風に冷やりとする。「気をつけろ」と内心の怒声にブレーキをかけてみれば、代わりに出てきたのは「こわ!」、そうだよこれって真剣に怖いのだ。実は怖がりだったのである。以下同様・・・
「悲しみ」「怖さ」「失望」「屈辱」・・・「怒り」という防衛の蓋を外して過ごす一日、実に多彩な感情を見ることになった。「笑ってごまかす」という言葉があるが、いわば「怒ってごまかし」ていたのかもしれない。蓋を開けて出てくるのがイヤな感情ばかりなのがつらいところだが、「喜」や「楽」を怒りで防衛する理由はないのだから当然の結果である。つらくはあるが、「怒り」が粗雑な韜晦の様式だとわかってしまえば、おいそれとこれに任せておくわけにはいかない。う~ん、そうなのね。
「怒りを遅くする者は勇士にまさる」・・・意味が少しわかりました。悲しみ・恐れ・失望・屈辱、怒ってごまかすことなくこれらによく耐える者は、なるほど魂の勇者であるに違いない。
2016年9月23日(金)
長い傘を水平に持って人込みを歩く御仁が時々ある。朝の新宿の階段で前を昇る男性がそれで、しかも垂直に下げていたものをいきなり水平に持ち替えたので、後の女性が危うく顔を衝かれかかってのけぞった。僕の位置はこの女性の横である。はいはい、怒らないのね。傘の先に軽く触れて「すみません」と明るめに声をかけたら、「あ!」と飛び上がる感じで持ち方をあらためた。こんなのはこれで良いんでしょうが、どうもなあ・・・
笑いに転化できるものなら、それが良い。NTT関連のサービス会社というのが電話をかけてきて、石丸の綴りを確かめるのに「石は石ころの石ですね」だと。「バカにしてるのか!」と怒ったらそれこそバカみたいな話だが、こちらの苦笑の意味を悟らないサービス業従事者に小さな怒りを禁じ得ないのは、大げさに言うと失望か屈辱か。何しろこれなら「怒り」ではなく「笑い」に転化するとしたものだ。
ただ、実際には週の初めに「怒らない」と決めて以来、笑うことが増えるどころか逆にかなり少なくなっている。僕の未熟ゆえではあるが厄介な事情も確かにある。躁状態を考えると分かりやすい。躁状態は魂のお祭り騒ぎとでもいったもので、人はその状態では頻繁に呵呵大笑する。いっぽう「易怒性」(怒りっぽさ)もまた躁状態の特徴で、意外なようだがそうでもない。祭りの熱狂に水を差すとき、どれほど大きな怒りがどれほど容易に引き起こされるかは周知のことである。
この括りでは「怒り」と「笑い」は同じ事態の両面であって、「怒り」を抑えれば(祝祭的な意味での)「笑い」も当然下火になる。僕はよく笑う人間でそういう自分が好きでもあっただけに、怒りを抑えたために笑わなくなるのでは意気阻喪する。僕に「怒るな」というのは、犬に「吠えるな」というのと同じ?そんなバカな。「怒る代わりに笑う」ことは僕にだってできるはずだ。
自分はさて置きマザーテレサにしろダイアナにしろ、仏陀にしろ誰にしろ、悲しみを知る人々には決まって静かな微笑がある。怒りを封印することは祝祭的な哄笑を抑えるかもしれないが、別の上質な(微)笑への道を開くはずである。『雨ニモ負ケズ』が「いつも静かに笑っている」と記すのも、こうした微笑のことに違いない。
ただ、「怒り」と「笑い」に関する厄介な事情がもう一つあり、決して笑いに転化できない怒りも存在するということである。『怒り地蔵』の怒りがその例だ。あの怒りばかりは、いかなる笑いにも転化し得ない。だとすれば、無用の怒りを削ぎ落としていった末に最後に残るこの怒りこそ、本当に怒るべき怒りなのだ。
福音書の中でイエスが明らかに/猛烈に怒る箇所が、僕の知る限りで二つある。ひとつは宮清めの場、いまひとつはラザロの死の場面である。前者は涜神に対する怒りであり、後者は「死」に対する怒りであった。『怒り地蔵』の怒りはこの二つに回帰するだろうか、そのあたりなお判然としないが、本当に「笑い事ではない」事態が世に存在するのは間違いない。仮に防衛であるとしても、これは怒るのが正しいのである。
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午後の診療、予約どおりX君がやってきた。彼は他所のクリニックで原病に対する薬物療法を受けているのだが、それとは別に毎月一度、僕のところにやってくる。その間に経験したこと、読んだ本のこと、世間のできごとへの感想などをとりとめもなく話す時間が、彼に必要でもあり支えにもなっている。こういう営みを精神療法と呼ぶかどうか知らないが、何と呼ぼうと呼ばれまいと、役に立てばそれで結構だ。X君はなかなかの読書家でもあり、僕とは読書傾向が決定的に違うのでなおさら楽しい。
「今月は何か面白いものを読んだの?」
「あ、いま読みかけてるのが・・・」
カバンから取り出した一冊のタイトルを見て、天を仰いだ。
『マンガでよくわかる 怒らない技術』
そういうことだったのか、どこかの誰かさん、企みましたね。部屋の隅で、微かに笑い声が聞こえた。
Ω