散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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気分は陶淵明

2017-09-13 12:50:28 | 日記

2017年9月13日(水)

 いえ、朝からお酒が飲みたいという意味ではなくて。

***

 歸去來辭 陶潜

歸去來兮

田園將蕪胡不歸

既自以心爲形役

奚惆悵而獨悲

悟已往之不諫

知來者之可追

實迷途其未遠

覺今是而昨非

舟遙遙以輕颺

風飄飄而吹衣

問征夫以前路

恨晨光之熹微

乃瞻衡宇

載欣載奔

僮僕歡迎

稚子候門

三逕就荒

松菊猶存

攜幼入室

有酒盈樽

引壺觴以自酌

眄庭柯以怡顏

倚南窗以寄傲

審容膝之易安

園日渉以成趣

門雖設而常關

策扶老以流憩

時矯首而游觀

雲無心以出岫

鳥倦飛而知還

景翳翳以將入

撫孤松而盤桓

*****

 さあ帰ろう、田園が荒れようとしている、いままで生活のために心を犠牲にしてきたが、もうくよくよと悲しんでいる場合ではない、今までは間違っていたのだ、これからは自分のために未来を生きよう、道に迷ってもそう遠くは離れていない、

 船はゆらゆらとして軽く、風はひょうひょうと衣を吹く、船頭にこれからの行き先を問い、朝の光のおぼろげなのを恨む

 やっと我が家が見えたので、小走りに向かっていくと、召使いたちが出迎え、幼い子が門で待っている、三本の小道は荒れてしまったが、松菊はまだ元気だ、

***

 幼子を抱きかかえて部屋に入れば、酒の用意ができている、壺觴を引き寄せて手酌し、庭を眺めては顔をほころばす、南の窓に寄りかかって楽しい気分を満喫し、狭いながらも居心地の良さを感じる

 庭は日ごとに趣を増し、門は常に閉ざしたままだ、杖をついて散歩し、時に首をもたげてあたりを眺める、雲は無心に山裾からわき上がり、鳥はねぐらに帰ろうとする、日は次第に暗くなってきたが、一本松をなでつつ去りがたい気持ちになる

***

 さあ帰ろう、世間との交際をやめよう、自分と世間とは相容れない、なんで再び官吏の生活に戻ることを考えようか。

 親戚のうわさ話を喜んで聞き、琴書を楽しんで屈託がない、農夫が春の来たことを告げ、西の畑で農作業を始めた、車に乗ったり、船を操ったりして、深々とした谷を訪ねたり、険しい丘に登ったりする、木々は生い茂り。泉はほとばしる、万物が時を得て栄える中、私は自分の人生が終わりに近づいていくのを感ずるのだ。

***

 致し方のないことだ、人間はいつまでも生きていられるわけではない、どうして心を成り行きに任せないのだ、また何故あたふたとして、どこへ行こうというのだ、

 富貴は自分の望むところではない、かといって仙人になれるわけでもない、よい日を選んで散歩し、杖をたてて草刈りをしたり、土を盛ったりする、

 また東の丘に登っては静かにうそぶき、清流に臨んでは詩を賦す、願わくはこのまま自然の変化に乗じて死んでいきたい、天命を甘受して楽しむのであれば、何のためらいがあろうものか

(http://tao.hix05.com/102kaerinan.html より拝借)

Ω


朝のクイズ: 解答篇 / 『バウドリーノ』下巻に入りました

2017-09-13 07:41:58 | 日記

2017年9月13日(水)

 答は魚屋さん、何しろお仕事が sefish (sell fish)なもんだから。どこで読んだんだったかな、「利己的」からの連想でした。

> 以前オーストリアの歴史を調べる為に本を読んだところ、いきなり飛び込んできたのは「神聖ローマ帝国は神聖ではないし、ローマを含まないし、帝政も怪しい」という文だったのを思い出しました。Wikiの神聖ローマ帝国の記述でも概要の最後のところでこの点がふれられています。

> 日本人からするとヨーロッパ史は国境や国の定義が動くのでつかみどころがなくて難しいですね。。。

 ある西洋史の先生が「そもそも『ヨーロッパ』こそが古くから当然に存在し、『国民国家』は1000年以上も遅れてたぶんに人為的に産み出された」と指摘しているのを読んだとき、目のウロコが一枚はがれたものでした。『バウドリーノ』の時代にも西ヨーロッパは確かに存在しており、それを可能にしたのはビザンツ帝国やイスラム勢力との拮抗関係だったでしょうが、ヨーロッパ内部の「国」はおっしゃるとおりまったく不分明です。(「日本」という概念と意識を成立させたのは、「太宰府」という関門と北九州の境界線だったという、アメリカ人歴史家の指摘を思い出します。)

 「イタリアの諸都市がバランスを保つうえでドイツの皇帝が必要だったのか」というもっていき方は現代人の読み込みというもので、「イタリア vs ドイツ」という図式そのものの成立する基盤がないのです。たかだか、シャルルマーニュの三人の息子たち ~ ロタール、シャルル、ルイでしたか ~ が継承した地域のぼんやりした線引きがあるぐらいで、言葉にしてもラテン語という共通語がかろうじて全体をつなぎ、そのもとに無数とも言える地方言語のバリエーションが跳梁跋扈している楽しい構図です。

 ところで、『バウドリーノ』の中に「ジェノヴァの統領」という人物が出てくるのですがこの「統領」に「ドージェ」というルビが振ってあります。何度か目にするうちにふと思い出したのはムッソリーニのこと、彼はファシスト・イタリアの「統領」を自認したのではなかったか。ある政治学史の本に「ドゥーチェ」という言葉で紹介されていたように記憶します。ヒトラーが「第三帝国」という怪しげなシンボルをフル活用したのと同様、ムッソリーニも中世に遡る伝統的なシンボルを動員したのですね。ファシズムという言葉からして、古代ローマの執政官が権力のシンボルとしたファスケス(fasces)なる用具に由来するようです(斧を中心に木の棒を束ねたもの、とブリタニカの注にあり)。

 私、10月からは『中国語Ⅰ』を履修するんですが、2018年度はイタリア語とスペイン語の入門編に挑戦する予定、これが今から楽しみでね。エーコの言葉、マルケスの母語だと思うと、ほんとにわくわくします。ドージェ/ドゥーチェの件などもあわせて調べてみます。

 今日もお元気で!

Ω


朝のクイズ: 問題篇

2017-09-12 08:54:45 | 日記

2017年9月12日(火)

 「利己的」で思い出した小ネタ。

 男の子が池に落ちた。ちょうど三人の大人が通りかかり、一人はバンドマン、一人は魚屋さん、一人は宇宙飛行士で、このうち二人がすぐ駆けつけて子どもを助け上げたが、一人は知らん顔して立ち去ってしまった。

 その一人は誰?

Ω


皇帝を滅ぼすわけにはいかない理由

2017-09-12 06:49:53 | 日記

2017年9月11日(月)

 「ニケタス殿、注意していただきたいのですが、ここがじつに微妙な点でして、おそらくこれを理解できるほどビザンツ人は繊細ではないかもしれないが、よろしいですか、皇帝に包囲されたときに身を守ることと、自ら率先して皇帝に戦いを挑むことは、別のことがらなのです。つまり、あなたのお父上があなたをベルトで叩いたら、あなたにはそれをお父上の手からとりあげる権利がありますが ~ それは自己防衛です ~ もしあなたが先にお父上に手を上げたら、それは父親殺しになります。神聖ローマ皇帝にたいして決定的に礼を失することになれば、イタリア諸都市を結びつけるすべがなくなるのです。おわかりですか、ニケタス殿、フリードリヒの軍を粉砕したばかりの彼らですが、依然として皇帝を唯一の君主として認めていたのです。別の言い方をすれば、皇帝を身近に置いておきたくはないが、かといって、彼がいなければ困るわけです。」

 「皇帝がいなければ、都市どうしが殺し合うことになり、しかもそれが正しいのか悪いのか、もはや判断がつかなくなるでしょう。なぜなら、善悪の基準とは、つまるところ、皇帝だからです」

『バウドリーノ』(上) P.321-2

***

 文中に出てくるフリードリヒは神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フリードリヒ・バルバロッサ(赤髭のフリードリヒ)と言った方が通りが良い。その治世は1152~90年、本朝の頼朝とちょうど重なる頃だ。この時代から、こうしたタフな国際政治を延々繰り返して地球上に広がったのがヨーロッパという奇態な集団で、僕らには「繊細を欠くビザンツ人」のほうがよほど分かりやすいかもしれない。こちらはこちらで、皇帝が倒されて代わるたびに先の皇帝は(少なくとも)目をえぐられるという、すさまじい世界だけれども。

 マキャベッリ(Niccolò Machiavelli, 1469-1527)がヨーロッパ人の政治思惟を理論化するのはほぼ300年後のことであるが、その中核となる体験は12世紀に既に出そろっている。高校世界史以来、訳が分からないばかりだった中世のイタリア/ヨーロッパ史が、いくらか身近になったように感じられる。

  Umberto Eco, 1932-2016

Ω


読書無用論への「愛書狂」のコメント

2017-09-11 18:47:46 | 日記

2017年9月11日(月)

 「パブリッシャーズ・ビュー/白水社の本棚」181号(2017年7月15日)、「愛書狂」欄に小気味よい記事あり。転記する。

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 三月八日付け『朝日新聞』の「声」欄に、21歳大学生からの「読書はしないといけないの?」なる投書があった。某君は高校生までまったく読書習慣がなく、大学へ入って、必要から専攻する教育や社会一般の本を読んだが、「読書が生きる上での糧になると感じたことはない」。それが問題視される方がおかしいという。

 後日、これについてどう思うか、賛否の意見が寄せられ、議論はさらに再びくり返された。「大人は読書を押しつけないで」と同調する中学生、「人との出会いを求めるなら」と諭す中年など様々。私はこのやりとりを不毛に思い、冷たく見ていた。もちろん、投書した某君は、読書する必要などまったくなく、そのまま一生を終えればいいのである。ただ、気の毒な人だと思うが……

 読軎体験に見返りや理屈は要らない。幼い頃に一度その喜びを知れば、頭より先に、身体が欲して止まないというだけのことだ。本は情報を盛る皿ではなく、読書は何より、深い感動が根底にある体験である。「声」欄の某君は、幼少時に絵本や児童書、青春期に文学の洗礼を受けていないようだった。痩せた土地に、いくら水や肥料をやっても、芽は出ず、花は咲かない。

 先日地下鉄で、こんな光景に出くわした。男子小学生が、背が取れかかってボロボロの歴史漫画の本を、夢中になって読んでいたのだ。父親の本だろうか。降りる駅が来て、少年は起ちあがったが、本は手に開いたまま。彼なら大人になっても「読書しないといけないの?」と悩むことはないだろう。私は心の中で拍手を贈った。

(野)

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 「愛書狂」は一面下部のコラム、「天声人語」(朝日)、「編集手帳」(讀賣)、「余録」(毎日)に相当する。愛媛新聞なら「地軸」で、このネーミングはなかなか良い。「愛書狂」欄もこれらに劣らず軽快な切り口で毎回楽しみにしているが、今回面白いのは最終段落で紹介される小学生の読んでいたのが「歴史漫画」であることだ。「漫画か、嘆かわしい」ではないのである。

 これは大いに嬉しいことで、僕も両親に買ってもらった科学漫画の12巻本を、「背がボロボロになるまで」愛読した。むろん活字本も劣らず濫読して今に至るけれど、『鉄腕アトム』やなぜか『のらくろ』はじめ漫画から受けた影響また否みがたく、どちらも大事というほかない。ただ、冒頭の21歳大学生氏がコラムを読んだら、「自分が言ったのは活字本のこと、漫画なら大いに生きる糧になる/なった」と言わないものか確信がなく、ひょっとしたら「愛書狂」子が的を外したのではないかとやや心配である。

 ついでながら「狂」の字のこと。これを精神疾患/障害に使わないのは確立した約束事だが、こういう文脈では活躍の余地がある。似た境遇にあるのが欧米語の mania で、もともと古代ギリシア語で躁病ないしは精神の変調一般を指すものとして使われた。「躁病」の用法が今日に引き継がれているのに加え、「◯◯mania」という表現もまた生き残って、ちょうど「◯◯狂」という日本語に照応するものになっている。bibliomania がほぼ「愛書狂」に相当するが、どちらかというと稀覯(きこう)本をあさる猟書家を意味するらしく、愛書家を表すならむしろ bibliophilia かもしれない。

 いずれにせよ、この語を敢えて使う編集者の思い入れは相当なもので、世の中には似たような御仁があるものだと微笑ましいのである。

 Ω