散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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selfish から水木しげるへ

2017-09-11 07:29:44 | 日記

2017年9月11日(月)

> selfishと東京
> さっき『東京物語』のラストを確認する為にネットを色々見てたところ、この”ずるい”の英訳(英語版字幕)がなんであったかも見つけてしまいました。selfish だそうです。なるほど分からなくもないような微妙に違うような。。。
> 東京物語の長男長女家族の冷たさは私は都市部、特に東京が持つ魔力ゆえじゃないかなぁと思っています。
> 東京が冷たいというより、東京で暮らしていると田舎で暮らしてる人が別世界のように感じられてしっくり来なくて、うまくコミュニケーションが取れず邪険になってしまったというようなイメージの記憶が私の感覚としてあります。東京物語では東京の生活がせわしなさすぎてという部分もあったようにも見えました。 
> この映画のタイトルが東京物語なのも、東京の魔力みたいなものがテーマだからかと勝手に思っております。
> 偶然ですが、東京(都市)とselfishに関連があるようにも思えます。

***

 勝沼さん、再度のコメント感謝。

 これはもう、面白すぎる領域に入ってしまって、とても手がつけられません。 ブログ上ではこのあたりでいったん中断させていただき、あらためてじっくり語らいましょう。

 予感としては、「selfish は『ずるいんです』に近いけれどとても意を尽くしていない」「東京と selfish の関連は面白いが、田舎は田舎で selfish でもあり、selfish のありようが違うのではないか」「selfish な田舎が消滅しつつある現在、東京は田舎抜きで selfish な東京たりうか」といったことが浮かんできます。

 ええ、面白すぎます!

 時に selfish を訳し戻すと「利己的」ですよね、「ずるい」と「利己的」が完全等号で結べないのが話のミソだと思いますが、ちょうど転記しようと思っていた文章に図らずも「利己的」の語が出てくるので、ここに御紹介します。「二十歳の水木しげるが出征直前まで考え続けた、死ぬ意味/戦争の無意味」と帯に対処されています。切なくも面白すぎる名著です。

***

 仏教は悟りをひらいて絶対境に入らむが為めに修行をする。

 修行とは何か。利己に非ずや。金剛力とは何ぞ。何んの為の金剛力ぞ。誰が為の金剛力ぞ。道元言ふ、法の為め。

 法とは何んぞ。法とは自己の裡に築かれた価値である。そのために自己を犠牲にすると言ふ……と言ふ事は、自己を幸にする。即ち、ある種の利己主義ではないか……ある人言ふ。法の力に依って萬人を救ふ。この故に吾を犠牲にす。之如何で利己主義か。心理学的に言って之と謂うも明白に利己主義なのである。

 彼はかくすれば快なる故であると。

 だらだらしているとキリストにすまないような気がする。

 彼はあれ程までに人間の事を思ってくれたのに……世人は泥棒をする、嘘をつく、人殺をする。

 「地の塩となれ」とは名言だ。真の基督教徒は、地上の塩位しかない。世が立っているのは義人がいるからだ。小数の義人こそ地の塩、即ち、神の国を造るおのである。

 神の国とは人類の理想である。その理想を現在から未来へ渡すのが義人である。

 そうして人類が神の国を造るまで伝へ伝へるのが義人なのである。義人とは基督教徒であるが、私は思ふ。真の基督教に非ざれば塩に非ずと。

 ニセ信者はかへって真の基督信者を殺してしまふ。私は馬鹿信者をみて基督教など言ふにたらぬものと考へたが、真の基督教徒をみて、成程地の塩だ尊敬するにたると思った。

 基督教は倫理であって学ではない。倫理、即ち人間の行ふべき道としては世界一の教へだ。

(水木しげる/荒俣宏 『戦争と読書』(角川新書) P.54-5, 昭和17年10月22日の日記から)

 


コメント御礼 ~ 『東京物語』はずるいゆえに素晴らしい

2017-09-10 22:39:26 | 日記

2017年9月10日(日)

 書いたらとたんにコメントをいただきました。本当によく見ておられること。

 「ずるいんです」にこもる意味は、どうやら Kokomin さんのインタビュー対象者と原節子演ずる紀子とでは、かなり違っていたようですね。しかし、それが現状を読み替える抜け道の道標になっている点で、不思議に共通するようでもあります。この「ずるい」は、たとえば英語などに翻訳するのがかなり難しそうですね。「甘え」との関連について考えてみることも面白いでしょう。

 コメント内容については傾聴するばかりですが、「たまに上京する(もしくは私達が帰省する)時の田舎の祖父母がうざったいという孫の気持ちが痛いほどに共感される」とおっしゃるのは、私にはまった異次元の事態です。そしてそれは、世代の違い(私は団塊に10年遅れた世代、勝沼さんはそこからさらに半世代若い団塊Jr)だけでは説明がつかないだろうと思います。私と同世代の中にもこうした反応を示すものは多いし、『東京物語』が活写しているのは当然ながらさらに古い世代のことですから。

 では何が違うのかと言われると、さしあたり答が思いつきません。たぶん、かなり重要な問題に関わっているはずだと思うのですが。

***

・タイトル

『東京物語』はずるいゆえに素晴らしい

・コメント

 『東京物語』は受け止め方にかなり個人差がある映画だと思いますので、あくまで私の受け止め方として。25年のタイムラグはあるのですが、実は私はこの映画にとても当事者として感じる部分があるのです。

 ざっくり言うと『東京物語』は尾道に住む老夫婦(夫が笠智衆)が東京に住む子ども達家族にひたすら邪険にされる中、戦死した次男の嫁(原節子)だけが優しいという映画なのですが、私は団塊Jr世代で両親が田舎から東京に移り住んだ子どもとして、このたまに上京する(もしくは私達が帰省する)時の田舎の祖父母がうざったいという孫の気持ちが痛いほどに共感してしまうのです。

 で、「ずるいんです」です。実はラストにこの台詞を言う原節子は微笑どころか激しい不安を訴えます。未亡人としている今に言い知れぬ不安を感じると。微笑を浮かべるのは笠智衆です。「それでいいんじゃよ」と応えて映画は終わります。

 家族の絆は素晴らしいというのは幻想であると描いていたこの映画が、ラストに来て急にでも人はそんな家族に属していることで幸せを感じてもいいとして終わるのです。

 この映画を見て私は救われた気がしました。家族は必ずしも素晴らしいものじゃなくてもいいし、そういう家族というシステムを拠り所にする弱さもあっていいと。二重の意味での救いがあるように受け止めました。この最後の「ずるいんです」がないと長男長女家族(とその子どもに自分を重ねた私)はただの悪者になってしまうんだけど、最後の「ずるいんです」で全ての登場人物が救われるんですよね。

 素晴らしいものと思いすぎない、価値や意味を重くし過ぎない、少し穴があるくらいでちょうどいいというのが健康的な心の一つではないかと思うのですが、思えばヴォネガットの小説にもそういうメッセージがあったように思いますし、意味なく回すからこそ流行ったハンドスピナーともつながる部分があるように思えます。もちろん私も身をもって体験用に一つ持っています。

Ω


病者の祈り

2017-09-10 10:22:37 | 日記

2017年9月10日(日)

 ずっと前、たぶん桜美林時代から折にふれて耳にしていた詠み人知らずの祈りを、8月30日に北千住のクリニックで目にした。少し言葉をかえて転記しておく。ここでは『病者の祈り』と題されていた。もっと別のタイトルがありそうに思われるが、案外ぴったりとした代案がない。

 

大事をなそうとして力を求めたのに / 慎み深く従順であるようにと弱さを授かった 

より大きなことができるように健康を求めたのに / より良いことができるようにと病弱を与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに / 賢明であるようにと貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに / 神の前に跪くようにと弱さを授かった

人生を享受しようとあらゆるものを求めたのに / あらゆることを喜べるようにといのちを授かった

求めたものはひとつとして与えられなかったが / 願いはすべて聞き届けられた

神のみこころに添わぬ者であるにもかかわらず / 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ

 

Ω

 

 


北東北をささやかに探訪 ③ ハンドスピナー/広さ比べ/東京物語と黒石のできごと

2017-09-08 10:18:55 | 日記

2017年9月6日(水)

 一昼夜過ごす間に、大勢の人からいろいろなことを教わった。

【不思議なおもちゃ】

 ハンドスピナーというものが流行っているらしい。他愛のないものだが、他愛のないものが案外な助けになるということがある。爪を噛んだり貧乏揺すったりする代わりに、あるいはペンなんぞを指の周りで器用に回す代わりに(僕にはどうしてもできない、ボールペンを壁まで飛ばして傷つけるのが関の山で・・・)、それともゲームにハマる代わりに、手許で無心にクルクルやることが、いわばより害が少なくて快適な時間つぶしへシフトする意味をもつのだろう。

 ネットを見ると、「1993年、筋力の低下を引き起こす重症筋無力症を患う娘を持つ米フロリダ州在住の母親が考案した」とあり、「自閉症の人が気もちを落ち着かせるものとしても使われている」とある。欲しい!

 通販で一つ買ってみようと思ったが、目移りして決められない。店頭での出会いを待つことにした。

    

 

【岩手と四国】

  「郷里の四国は良いところですが、陸奥(みちのく)もいいですね。とりわけ広さ・深さが格別で・・・」というような挨拶をしたら、ある人が「岩手一県で、四国全体とほぼ同じ面積です」と教えてくれた。その後の一昼夜に4~5人の人々が口々に同じことを言ったから、何か発信源があるのだろう。

 岩手県 15,280 km²

 徳島県  4,145 km²
 香川県  1,882 km²
 愛媛県  5,672 km²
 高知県  7,107 km²
  計   18,806 km²

 四国のほうが20%ほど大きいけれど、同水準なのは間違いない。人口は岩手県132万人、四国は4県あわせて382万人で、体感的な「広さ」に影響するところか。人口減少が進行中なのは共通の悩みだが、実は国土を広く使いたい時の、もうひとつの有効な手段につながっている。ひょっとして将来・・・?悔しいな、その効果を見ることは、とてもじゃないができない相談である。

 

【東京物語】

 バーンアウトについて話すときの定番として、「私って、ずるいんです」と微苦笑できるような心と生活のゆとりが、良い予防になるのではないかという小ネタがある。桜美林の院生時代に Kokomin さんが見つけたことで、そのことも忘れずにつけ加えている。今回もスライドの隅っこに記しておいたら、目ざとく見つけたある人が何やら小さく叫んだ。その後も熱っぽく回りに訴え続けて止まらない。訊いてみれば・・・

 小津安二郎監督作品で現在でも名作の誉れ高い『東京物語』、その中で原節子扮する主人公・紀子が(たぶん笠智衆演ずる舅から)「ありがとう」と言われ、「私、ずるいんです」と答える場面があるのだそうである。話はしてみるものだ。

 ちなみにこの発言者はカート・ヴォネガットが大好きとかで、「愛をちょっぴり少なめに、ありふれた親切をちょっぴり多めに」という引用句を殊の外よろこんでくれた。カート・ヴォネガットの名前もこのフレーズも、発言者の社会的立場を考えれば少々剣呑なところがあるけれど、それで譴責も受けず、しょっ引かれもしないのが今の日本のありがたいところである。

【黒石で起きたこと】

 それで思い出したが、青森県の黒石からも参加者あり、かつてホーリネス教団の牧師が殉教した故地である。天皇が神であることを否み、不敬罪に問われて連行されたT牧師は、取調べの獄中で死亡した。年端も行かない息子が父親のなきがらを大八車に乗せ、寒空の下を連れ帰ってきた。僕らの世界ではよく知られたことであるが、忘れることの得意な日本人の記憶から、宗教家や共産主義者の殉難はあらかた消え去っている。そうか小林多喜二、彼も4歳以降育った小樽の連想が強いが、そもそも秋田県・現大館市の生まれだった。

 「あんちゃん、もう一度立たねか、みんなのためにもう一度立たねか!」

 多喜二の母・セキが遺体を抱きしめてそう叫んだと伝えられる。

Ω


北東北をささやかに探訪 ② 絶景かな、絶景かな

2017-09-07 23:13:46 | 日記

2017年9月5日(火)

 集まったのは、青森・秋田・岩手三県の在住者30人余りである。といっても、元々は他地域の出身者が過半を占めるようだが、皆ゆえあってこの地に導かれ根を下ろして活躍している。僕は山形で小中学校の一年間を過ごし、精神科医としての基礎教育を福島で受け、東北には大いに愛着があるというものの、南東北止まりで陸奥(みちのく)の広さ深さを未だ知らない。

 中に仙台出身の人があったので、杜の都は素晴らしい、ケヤキの並木が大好きですというようなことを言ったら、あれは戦災の産物で、と教えてくれた。もとは城下町の武家屋敷が樹々にすっかり埋もれてしまうような、街全体を杜が覆い包む風情だったそうである。空襲ですっかり焼け、せめてもの復興にケヤキの大通りが整備されたそうな。有名な七夕祭りにも同様の背景があるらしい。あの戦争がどれほどのものを奪ったか、認識も自覚もまだまだ足りない。

 それにしても空気の美味しく水の清澄なこと。写真は露天風呂からの眺めである。前夜はこの空に十三夜ぐらいの月が朧にかかり、「月が出てますよ」と口伝えで皆、入れ替わり立ち替わり風雅を堪能した。紅葉になればなお絶景であろうが、夜は冷え込むに違いない。気温は今が最適。

 多言は野暮なこと、湯瀬温泉は掛け値なしに素晴らしいとだけ書いておく。

      Ω