散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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Aの橋とHの橋

2018-08-28 05:07:01 | 日記

2018年8月27日(月)

 帰省の際、多々羅大橋をはじめとする「しまなみ」の諸橋とりわけ斜張橋を通るのは全行程のクライマックスで、安堵・解放・寛ぎといった感覚が一時に溢れてくる。

 とはいえ他にも好きな場所はもちろんあり、概して橋のある風景に外れがないようだ。そのひとつが伊勢湾岸道路の名港沖の眺めで、名古屋への親しみも手伝っているのだろうが、経済的な繁栄の風景に対して珍しくも晴れ晴れと屈託のない気もちが湧いてくる。

 その道に沿って、Aの橋とHの橋がそれぞれ行列を作っているのが、なかなか楽しい。

 Aの橋はこんな具合で、色も三色揃っている。

 続いてHの橋。

 いずれも2017年の帰省時だが、Aの橋は復路、Hの橋は往路の撮影で、天気が違ったのである。(いずれも同乗者が助手席で撮ったものである。念のため。)ぼんやり霞んだHの隊列を見ていると、鉄腕アトムに出てきた宇宙人との戦いが思い出されてちょっと怖くなる。Aの方が三色アイスみたいで和やかだ。藤沢周平に『橋ものがたり』という一冊があったっけ。相生橋はTの形が上空からも明瞭に識別できたために、爆弾投下の目標とされた。Tの橋ということか。

 橋の形も運命もさまざまである。

  (Wikipedia/相生橋) 

Ω


20年前の凄すぎるランナー/正岡子規と呉秀三

2018-08-27 09:13:50 | 日記

2018年8月26日(日)

 完全休養、というか終日へたばっていた。蟻の大群が来たら巣に運ばれちゃったかもな。

 女子マラソンを録画で見た。野上恵子アッパレの銀で思い出すのはちょうど20年前、本日解説の高橋尚子の鮮烈デビューである。正しく言えばデビュー戦ではないが、1998年12月6日のこのレースで多くのファンが彼女の凄さを知った、その意味での「デビュー」と言っておく。日本は冬でも常夏のタイ・バンコクはレース中の気温が32℃を超え、当然ながらスローペースの消耗戦になるはずのところ。

 あろうことか高橋はスタート直後から独走の一人旅、25kmまで世界記録のラップを1分以上も上回る驚異の走りを見せる。気温の上昇にはさすがに勝てず30km付近で「失速」したものの、2時間21分47秒は自身のもつ日本記録を4分あまり短縮し世界歴代5位、当時のアジア記録を更新するものだった。

 解説者としては多弁な高橋だが、20年前のことはほとんど語らない。しかしこちらは覚えている。二度びっくりしたのがゴール後のこと、疲れて座り込むでもなく後からゴールする選手を気遣ってかいがいしく世話を焼く姿だった。たいへんな選手が出てきたと思った。その後の世界記録更新よりも五輪の金メダルよりも、この日の衝撃が忘れられない。

 野上選手、2位でゴールの後、走って来た方向を振り向いて丁寧に二度礼をしたね。拍手。

***

 原稿の最終チェックのためにネットを見ていたら、斎藤茂吉に『呉秀三先生』という著書のあることを知った。

 呉秀三(1865-1932)、斎藤茂吉(1882-1953)

 両者のプロフィルと時代を考えれば接点があるのも当然で、何で今まで気づかなかったかと思うぐらいである。さっそく kidle 版で購入し、冒頭を見て驚いた。呉と子規の間に親交があったというのである。

 正岡子規(1867-1902)、なるほどぴったり同時代人だ。

 「「只今は帰りがけに巴里によりて遊居候 その内に帰朝致久振(ひさしぶり)にて御伺申すべく存候 御左右その後いかが被為入候哉 三十四年八月十八 呉秀三」とあり(中略)正岡先生はこの絵ハガキを『仰臥漫録』と簽(せん)した帳面に張りつけて朝な夕なにながめておられたのであった。」(斎藤茂吉『呉秀三先生』kidle 版)

 読み進めるにつれ、さて何が出てくるだろうか。夢野久作(1889-1936)が出てきたらすごいが、まさかね・・・

Ω


三河国は現在の・・・どこだって?

2018-08-24 21:56:05 | 日記

2018年8月24日(金〉

 今夜の『チコちゃんに叱られる』、アジア大会競泳の裏になっちゃったので録画して見ていましたら、「なぜ関東の味つけは濃いのか?」の解説の中で、

 「もともと、現在の静岡県中部にあたる三河の国などを治めていた徳川家康・・・」

 へええ、そうですか?

(https://ja.wikipedia.org/wiki/三河国)

 三河国を「静岡県中部」なんて書いたら中学受験も通らんよ、「愛知県東部」だっての。静岡県中部は駿河でしょうに。

 ボーっと作ってんじゃねーよ!

Ω


納豆の配慮/古切手10トン

2018-08-24 09:11:06 | 日記

2018年8月23日(木)

  早稲田でまた迷った。

  前回は東西線の早稲田駅を降りて早稲田通りを逆に歩き、今回は副都心線の西早稲田駅を降りて明治通りを逆に進んだ。特に今日は駅構内の地図をよっく見て、確信もって歩き出したんだから訳がわからない。道々考えるに「地上に出たら左」と自分に命じつつ、自信満々右へ行ったような気がする。昔からこの手のことが多かった。発達デコボコの話を聞いた時、妙に得心、安堵したことがある。

 遅刻しては申し訳ないと炎天の朝をせっせと歩く。インド大使館前を過ぎたあたりからエスニック料理店の看板が頻出、子育地蔵もあれば穴八幡もあり、僕の目的地は日本キリスト教会館ときている。緑地が多く道が曲がりくねって広いようでもあり狭いようでもあり、学生らしい若者や外国人が多い。点字図書館はここにあったのか。雑駁で賑やかで面白い地域だ。

  昼食の時間になり、美味しいお弁当が振る舞われた。遠慮もなくいただきながらふと見ると、向かい側のY先生が納豆をかき混ぜている。お弁当に納豆は付いてないよ。

 「マイ納豆、御持参ですか?」

 「はい。名古屋からの新幹線で朝のお弁当を食べたんですが、ちょっと混んでたので臭いさせちゃ悪いかなと思って。」

 堂々たる体躯に繊細な配慮を搭載した、素敵なお人柄である。とある電車の中で若い女性が牛丼弁当を食べていたら、近くに座っていた若い男性の気分が悪くなり、車掌に頼んで席を替えてもらったという目撃談を誰かが披露した。僕も以前りんかい線で似たような場面を見かけたが、二駅ほどで食べかけの牛丼と大きなバッグを抱えて女性が降りていった後の、車内のざわめきと会話が面白かった。

***

 建物の3階で会議、合間に5階へ上がって古切手を届けてきた。先般アルメニアから戻ったT君が外国のコインをここに届けたと聞いて目からウロコ、信心とはさしあたり無関係(そんな人間がいればの話だが)のT君から教わったというのが訳もなく楽しい。役立つこともあろうかと何となくとっておいたのが結構な量になり、昨夜数えてみたらちょうど400件ほどあった。消印には15年ほど前のものもあり、よくも長年呑気にため込んだものだが、年数割にしてこの件数はいったい多いか少ないか。手許に置きたいのを10件ほど残し、これはこれで目の楽しみである。

 感じのいい女性担当者が感じよく受け取ってくれ、「受領書をさしあげたいので、教会名を」と訊かれ「いえ、個人です」と思わず自慢げになっちゃうのがアサハカというもので、受領書の文面を読んでタマげた。

 「2017年度は、およそ10トンの使用済み切手をお寄せいただきました。書き損じハガキ、外国コインなどを合わせると、ご協力件数は約19,000件にのぼり・・・」

 10トンのうちの数百グラム、大海の一滴、九牛の一毛とはこのことである。日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)は「1960年の創立以来、約70名の医師や看護師などの保健医療従事者を派遣し、600人以上への奨学金支援をおこなってきました」とある。http://www.jocs.or.jp/support/stamp

 これもまた九牛の一毛だが、九牛といえども一毛の集積であることが、いつでもどこでも確かな出発点になるのだ。

Ω


点描⑤ ~ 田舎の家の「古文書」から(付:児童憲章全文)

2018-08-23 23:50:52 | 日記

2018年8月23日(木)

 振り返り点描は、これでおしまい。

 田舎の楽しみに大きく二つあって、一つが自然、もう一つは先祖の残してくれた古い文物とりわけ文書である。築90年近い家屋そのものがその筆頭で、本来の日本家屋がいかに堅牢で美しく機能的であったかが分かる。

 自慢しているのではなく、惜しんでいるのであることを強調したい。世界に誇り得た日本の家屋を都市部からほぼ完全に消滅させたのは、米軍による日本全土の徹底的な空襲である。呪うべきこの災厄がなければ、日本人の住環境はまったく違ったものになっただろう。

 高度成長期に「日本人はウサギ小屋に住んで経済戦争に血道を上げている」という揶揄が海外から聞こえ、日本人もこれを自虐的に受け入れた。一頃流行ったエスニック・ステレオタイプでも、男性にとって最悪の生活は「日本の家に住んで、中国人のサラリーをもらい、イギリスの食事を食べて、アメリカ女性を妻にする」というのが相場だった。

 不思議だった、なぜ大人たちは黙ってるのか。日本の家屋はもともとウサギ小屋などではない、ウサギ小屋に住まざるを得ない最大の原因を作ったものが何だったか、どうしてはっきり言わないのか。日本に対する空襲を問題にすると、重慶に対する日本の罪を問題にせねばならなくなる?それもこれも、あわせて問題にすればいい、せねばならないはずである。

 また逸れた。8月初めの高知ロケの際、S先生が院長室の椅子を「昭和8年の開院以来そこにあるもの」として御披露くださった。若い制作スタッフらは単純に「へええ」と驚いたが、そこで気づいてほしいのはこの病院が幸運にも空襲を免れたということである。わが家の家屋が90年前の面目を保っているのも、曾祖父から父に至る各世代の努力の賜物であると同時に、松山市街から遠く離れた田舎だったので爆弾を落とされなかったというのが、最大の前提にある。

 焼かれなかった家の各所に往時を忍ばせる文物が埃を被って生き延びているが、祖父母が短命であったために由来の伝わらないものも多い。父母からできるだけのことを聞き、保存に努めたいと密かに願っている。

***

 大げさなことを書いたが、一つ一つはとるに足らない小さなもの、たとえばこんなのである。

 まずはこれ:

  

 西国三十三所めぐりの納経帖(?)である。https://www.saikoku33.gr.jp/place/ 参照。

 臨済宗古刹のの檀家総代まで勤めながら、90代で他界する直前にキリスト教に入信した曾祖父のものに違いない。元祖スタンプラリーだが、墨黒々と朱印鮮やか、札所ごとに意匠が凝らされちょっとした芸術品である。

 こんなのもあった:

  

 「主婦之友」昭和6年8月号付録、『一目でわかる日本旅行地圖』である。購読者は父の母にまず間違いない。日本の大衆文化が質的にはほぼ戦後のそれに到達していた証左のようなものだが、当時の日本の領土の広がりが分かって面白い。樺太の南半分が描かれているのが見えるだろう。地図の裏面には日本各地の主要都市の地図に加え、京城・臺北・大連の市街図が掲載されている。

 昭和6年つまり1931年8月とはどういう時期か。前年11月に狙撃された「ライオン」こと浜口雄幸首相が、この月の26日に他界。9月には満州事変が起き、いわゆる十五年戦争に突入する。のんびり地図を眺めて旅の計画を語らうことのできる、ほぼ最後のタイミングであったろう。

 ついでにこれ:

 『なぞの新百科宝典』と題されるこの一冊、これはぐっと新しく僕の時代、といっても昭和40年のものである。前年4月に出版され、昭和40年11月第6刷とあるから相当売れたのではないか。これは学校に販売に来るのを、広告を見てねだって買ってもらったものだが、とてつもなく面白くまた大変な意欲作だった。319頁の紙面によくぞこれだけ詰め込んだこと、「インカ帝国滅亡の謎」から「タクラマカンのさまよえる湖」から「落葉樹の紅葉のメカニズム」から「ソビエト連邦のこどもたちの生活」から、好奇心の強い子どもが喜びそうなネタはひとつも逃すまいと言わんばかり、しかも記載が丁寧で詳しいのである。小三当時、座右の書にして夢中で読みふけったのを思い出した。

 巻末には縄文時代に始まる日本の歴史年表が掲載され、その最後は昭和40年つまり増刷のたびに追補していったものだ。同年の記載事項は三つ。

 ・ 日韓条約調印

 ・ 佐藤首相、沖縄訪問

 ・ 朝永振一郎博士がノーベル物理学賞を受ける

 懐かしく頁をめくり、表紙裏に戻って目を見張った。記されているのは「児童憲章」である。

 一、児童は人として尊ばれる。

 一、児童は社会の一員として重んぜられる。

 一、児童はよい環境の中で育てられる。

 いつの間にか聞き覚えた児童憲章は、ここで知ったのだったか。単なる博学のススメや知識主義ではない、児童憲章の精神を力あらしめるものとして編者はこの一冊を世に出したのだ。

 発行所は「財団法人 児童憲章愛の会」とある。同会のホームページは「平成21年6月閉鎖」とあり、そこに記された新しいURLはアクセス不、wikipedia では「解散した財団法人」のカテゴリーに分類されている。

 児童憲章の全文を転載する。

*** 

 児童憲章(じどうけんしょう)は、日本国憲法の精神に基づき、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福を図るために定められた児童の権利宣言である。1951年(昭和26年)5月5日、広く全国各都道府県にわたり、各界を代表する協議員236名が、児童憲章制定会議に参集して、この3つの基本綱領と12条の本文から成る児童憲章を制定した。(https://ja.wikipedia.org/wiki/児童憲章)

【児童憲章全文】

• 昭和二十六年五月五日

 われらは、日本国憲法の精神にしたがい、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める。

 児童は、人として尊ばれる。

 児童は、社会の一員として重んぜられる。

 児童は、よい環境の中で育てられる。

一 すべての児童は、心身ともに健やかにうまれ、育てられ、その生活を保証される。

二 すべての児童は、家庭で、正しい愛情と知識と技術をもって育てられ、家庭に恵まれない児童には、これにかわる環境が与えられる。

三 すべての児童は、適当な栄養と住居と被服が与えられ、また、疾病と災害からまもられる。

四 すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果たすように、みちびかれる。

五 すべての児童は、自然を愛し、科学と芸術を尊ぶように、みちびかれ、また、道徳的心情がつちかわれる。

六 すべての児童は、就学のみちを確保され、また、十分に整った教育の施設を用意される。

七 すべての児童は、職業指導を受ける機会が与えられる。

八 すべての児童は、その労働において、心身の発育が阻害されず、教育を受ける機会が失われず、また、児童としての生活がさまたげられないように、十分に保護される。

九 すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、悪い環境からまもられる。

十 すべての児童は、虐待・酷使・放任その他不当な取扱からまもられる。あやまちをおかした児童は、適切に保護指導される。

十一 すべての児童は、身体が不自由な場合、または精神の機能が不充分な場合に、適切な治療と教育と保護が与えられる。

十二 すべての児童は、愛とまことによって結ばれ、よい国民として人類の平和と文化に貢献するように、みちびかれる。

Ω