散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

5月27日 ピカール、成層圏飛行に成功(1931年)

2024-05-27 03:21:46 | 日記
2024年5月27日(月)
 
> 1931年5月27日、スイスの物理学者オーギュスト・ピカールは気球による成層圏飛行に成功した。この時に使われた最新型の水素気球は、容積1万4千立方メートル、直径30mという巨大なもので、密閉型の円形搭乗室がつけられていた。
 ピカールの目的は、成層圏での宇宙線やオゾンの観測、また成層圏での航空法の研究であった。気球はドイツのアウグスブルグを未明に出発して、16,940mの上空まで到達し、この日の夜、オーストリアのチロル山中に着陸した。気密室からの空気漏れなどのトラブルに見舞われたが、無事生還することができた。
 ピカールはその後、方向を転じて深海に興味をを抱き、深海潜水艇バチスカーフを建造する。それまでの深海探査は、潜水球という、船からワイヤーでつり降ろされる装置で行われていたが、自由が効かない上、ワイヤーの長さしか潜ることができなかった。ピカールのバチスカーフは自由に海底を動ける機能があり、研究の跡を継いだ息子、ジャック・ピカールの改良によって1960年、1万メートルを越える深海に到達した。ピカールは天空と深海、二つの1万メートルを制覇したのだ。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.153

  
左:父  Auguste Piccard 1884年1月28日 - 1962年3月24日
右:子  Jacques Piccard 1922年7月28日 - 2008年11月1日

 オーギュストにはジャンという双子の兄弟があり、オーギュストは左利き、ジャンは右利きであったため、母親はそれで二人を見分けたと Wiki に書かれてある。それほど似ていたのなら一卵性双生児だったのだろうが、それなのに利き手が左右に分かれるものだろうかと、そこが不思議。
 何しろピカール一家は似たもの揃いだったらしく、ジャン・ピカール、その妻ジャネット、彼らの息子のドンが気球飛行家、オーギュストの上述の息子ジャックは海洋探検家で、そのまた息子のベルトランが気球飛行家と来ている。
 ベルトラン・ピカールは僕と同世代の精神科医でもあり、1999年3月1日から21日にかけて気球による初の無着陸世界一周飛行を達成した。1997年に燃料漏れ、1998年には中国の領空通過拒否で失敗した後の三度目の正直とのこと。家風もここまで来れば立派なものだ。
 成層圏と深海では方向が逆だが、浮力をコントロールするという技術上の要点が実は共通している。オーギュスト・ピカールはこの点を見通していた。

Bertrand Piccard 1958年3月1日 -

資料と写真:

Ω

収税吏レビあらため、福音書記者マタイ

2024-05-26 21:04:17 | 聖書と教会
2024年5月26日(日)

 M師の説教から:

 καὶ παράγων εἶδεν Λευὶν τὸν τοῦ Ἁλφαίου καθήμενον ἐπὶ τὸ τελώνιον, καὶ λέγει αὐτῷ, Ἀκολούθει μοι. καὶ ἀναστὰς ἠκολούθησεν αὐτῷ.
 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
マルコによる福音書 2:14

 「座っている」と訳されている καθήμενον < καθήμai はしばしば「住んでいる」という意味で用いられる動詞であり、そのことからもレビが収税吏として生活を立てていたことが窺われる。
 これに先だってペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの二組の兄弟が、イエスに招かれ従っていた。彼らは漁師であって、イエスに従う道行きが挫折した場合に生業に戻ることは比較的容易だった。事実、十字架後にガリラヤ湖で漁にあたっていたことがヨハネ福音書から知られる。
 レビの場合は事情が異なり、ローマの権力によって承認された収税吏の職をいったん放擲した以上、そこへ戻ることはほぼ不可能だった。さりげなく記されたレビの決断は、人生を賭けた不退転のものだったのである。
 このレビという人物が福音書記者マタイであることが、他ならぬマタイによる福音書の記述からわかる。しかしマタイはこの召命のできごとを除き、自身については一切語らない。自分が何をしたかではなく、イエスが何をなさったか、何をしてくださったか、それのみを語る。
 これを「証し」という…

 ついでのことに16~17節:
 καὶ οἱ γραμματεῖς τῶν Φαρισαίων ἰδόντες ὅτι ἐσθίει μετὰ τῶν ἁμαρτωλῶν καὶ τελωνῶν ἔλεγον τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ, Ὅτι μετὰ τῶν τελωνῶν καὶ ἁμαρτωλῶν ἐσθίει; 
 καὶ ἀκούσας ὁ Ἰησοῦς λέγει αὐτοῖς [ὅτι] Οὐ χρείαν ἔχουσιν οἱ ἰσχύοντες ἰατροῦ ἀλλ᾽ οἱ κακῶς ἔχοντες· οὐκ ἦλθον καλέσαι δικαίους ἀλλ᾽ ἁμαρτωλούς.
 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 律法学者たちが「言った」ところは ἔλεγον すなわち未完了過去で、継続ないし反復を表す。イエスが「聞いて言われた」のは ἀκούσας ὁ Ἰησοῦς λέγει で、こちらは ἀκούσας がアオリストだから一回限りの動作である。
 ぶつぶつ言い交わされるこもった批判と、それに対する明快な答えの対照が、時制からも読みとれる。このあたりが原語にこだわる利得というものだ。

 ところで、この流れではファリサイ派の律法学者は「自分たちは招かれていないのか」と憤りを募らせたことだろうが、実は彼らこそ招かれているというのが真理のさらに深い相であり、憤激をさらに高め得る危険なトリックということになる。それを直観すればこその、イエスに対する執拗な害意であったのかもしれない。

Ω

5月26日 木戸孝允、波乱に満ちた生涯を終える(1877年)

2024-05-26 03:27:34 | 日記
2024年5月26日(日)

> 1877年(明治十年)5月26日、西郷隆盛、大久保利通と共に「維新の三傑」と言われた長州出身の木戸孝允が、44歳の生涯を終えた。奇しくも四ヶ月後には西南戦争で西郷隆盛が自刃、その八ヶ月後には大久保利通が暗殺されており、一年の間に三傑が相次いで命を落としたことになる。
 木戸孝允は、1833年(天保四年)に長州藩の和田家に生まれ、その後桂家の嗣子となり、桂小五郎と称した。彼の生涯を辿ってみると、むしろ維新後まで生き延びていたことが奇跡のように思われる。1864年6月の池田屋事件の時は、早く到着しすぎたために一度外に出て、新撰組の襲撃を逃れている。禁門の変の後の長州残党狩りも、幾松(後の松子夫人)の助けにより、からくも危難を脱している。このあたりの消息は、司馬遼太郎の小編『逃げの小五郎』(『幕末』所収)に詳しい。
 1866年には坂本龍馬の斡旋で、西郷・大久保らと薩長連合の密約を結び、維新後は「五箇条の誓文」の起草に加わるなど、維新の立役者の一人となった。
 西郷隆盛が西南戦争を起こしたのは、木戸孝允が世を去る三ヶ月前のことだった。木戸は死の床にありながら西郷のことを思いやり、「西郷、もういい加減にせんか」と叫んだのが最後の言葉となった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.152

木戸 孝允
天保4年6月26日〈1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年〉5月26日

 『逃げの小五郎』は読んでいないが、想像のつくところはある。木戸は剣の達人で、神道無念流・斎藤弥九郎道場の塾頭だった。一方、坂本龍馬は北辰一刀流・千葉道場の門人で相当の使い手だったとされるが、剣の腕前で木戸にかなうものはなかったように、司馬遼太郎の作中では描かれている。
 面白いのはこの二人とも、その腕前を実戦で振るおうとする姿勢がさらさらなく、凶漢から身を守るためにすらろくに用いていないことである。木戸はひたすら逃げおおせた。龍馬は高杉晋作から贈られた六連発を寺田屋で襲われた際に使ったが、やはり剣は用いていない。
 道場の剣術と戦場・路上の乱戦の違いを手練れだからこそ知っていたか、使命を負った大事な命を間違っても斬り死にで安く落としたくなかったか、はたまた武家の流儀にそもそもコミットメントが薄かったのか。木戸は藩医の息子、龍馬は土佐では下士の身分で、いずれも歴とした武士とはいえない出自である。同じく村医の息子あがりの村田蔵六(大村益次郎)も、『花神』の中で女房を相手に「儂は百姓だから、怖ければ逃げる」と漏らす場面があった。
 比べられるかどうか分からないが、徳川家康は壮年の頃まで馬術の達人と目された。その噂を聞いた某が、家康一行の難路にさしかかったところを遠目に見守っていると、家康は馬から下り徒歩でこわごわ道を辿った。確か『覇王の家』に書かれていた話である(違ったかな…)。
 いずれも「匹夫の勇」からはおよそ遠い姿で、大望を抱く者は自ずとそうなるのかもしれない。

 木戸は内政の充実を重んじて急激な富国強兵に与しないところがあり、憲法制定や三権分立の必要性を早くから理解していた。このため西郷と征韓論で一致せず、大久保の強権的な姿勢にも批判的だったという。木戸が長命して維新政府の舵取りをしていたらどうだったか、見てみたかった気がする。
 死因は大腸癌の肝転移と推測される由。
資料・写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/木戸孝允

Ω

5月25日 ドップラー、「ドップラー効果」について発表(1842年)

2024-05-25 03:24:54 | 日記
> 1842年5月25日、オーストリアの物理学者クリスチャン・ドップラーはプラハの王立ボヘミア協会の会合で、星の光の色に関する論文を発表した。内容は「波の振動数は波源と観測者の相対運動によって変化する」ということを数学的な関係式で表したものであった。今日「ドップラー効果」として知られているものである。
 その三年後の六月、オランダの気象学者クリストフ・バロットが実際にこの数式を検証するため、音で実験を行った。列車を使った「ドップラー効果」の実験である。
 同年ドップラー自身も同様の実験を行い、詳しい記録が残されている。それによると実験方法は、まず絶対音感を持っているトランペット奏者を複数集め、二つのグループに分ける。片方を屋根のない貨車に立たせ、残りを駅に配置する。列車が駅を通過するときに、同じ音程でトランペットを演奏しているのに「ドップラー効果」のため不協和音になる、というものであった。
 ドップラーは1846年に、この実験結果から音源の移動と観察者の移動の両方を合わせて考察した、論文の改訂版を発表した。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.151

Christian Andreas Doppler
1803年11月29日 - 1853年3月17日

 ドップラー効果と言えば、まず音について先に習い、ついで同じことが光についても言えるという順序で教わったかと思うが、上述はその逆である。そもそも物理学者の頭の中では、音といい光というも「波動」という意味で本質的な違いはなく、ただ音の方が実証しやすかっただけのことに違いない。
 それより、よく分からないのが絶対音感の話である。両者の吹いた音が不協和音を生むという話だったら、奏者らが絶対音感をもつことは特に必要ないのではないか。
 別のソースを見てみると…

> オランダ人の化学者・気象学者であるクリストフ・ボイス・バロットが、1845年、オランダのユトレヒトで、列車に乗ったトランペット奏者がGの音を吹き続け、それを絶対音感を持った音楽家が(駅に立って)聞き、音程が変化することで証明した。

 この方がわかりやすい(カッコ内は引用者加筆)。
 何しろ設定に遊び心が感じられて楽しいことである。わざわざトランペット奏者や絶対音感の持ち主を動員しなくても、汽笛の音を横から聞くときと進行方向から聞くときとで音程が変わるなど、証明だけなら仕方はいくらでもあったはずだ。さすがオーストリアと思ったが、トランペットの実験を行ったバロットはオランダ人でしたね。Dutchman のステレオタイプを覆す、洒落た装いと言っておこう。
図と資料:https://ja.wikipedia.org/wiki/クリスチャン・ドップラー

Ω

5月24日 モースが電信機で初めての公式電文を打電(1844年)

2024-05-24 03:34:41 | 日記
2024年5月24日(金)

> 1844年5月24日、アメリカ最高裁判所の公的儀式で初めて、電信機を使った電文が打電された。旧約聖書の有名な一節「神はその為すところを示したまう」という電文は、ワシントンから61キロ離れたボルチモアまで即時に到達し、人々を驚嘆させた。
 電信機を開発したのはサミュエル・モースというアメリカの肖像画家だった。彼はある学者から当時発明されたばかりだった電磁石の動きについて聞き、それを通信に利用するアイディアを思いついたという。モースが開発したアルファベットを「・ー」の二種類の信号の組み合わせで表す方法は、今でも「モールス信号」としてよく知られている。
 モースはこの単一電線式電信機の特許を1837年に登録し、この新しい通信方法のために政府に出資を求めたが、政府はその重要性を理解できずに断ったという。後に認められ、この日の公式採用となった。
 「モールス電信機」の普及は、情報伝達を飛躍的に早くした。ニューヨークとロンドンの間が数分でつながり、日刊の新聞には前日の出来事が載るようになる。まさに、モースの発明によって世界は狭くなったと言っても過言ではないのだ。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.150


Samuel Finley Breese Morse
1791年4月27日 - 1872年4月2日


 これがまた才能豊かな問題含みの人物である。発明家にして画家、一方ではアメリカ合衆国における強硬な反カトリック・反移民主義者であり、奴隷制の正しさを聖書に基づいて主張する類いの篤信家だった。僕はプロテスタントで、日本でもアメリカでもカルヴァン主義の教会に属したが、こういう人物がカルヴァン派の一典型だと思うと宗旨替えしたくなる。
 発明物語のそもそものはじめに悲しいきっかけがあった。1825年モールス満34歳の年、ワシントンD.C.で絵描きの仕事をしているところへコネチカットの留守宅からメッセンジャーが馬で駆けつけ、妻危篤の報を伝えた。すぐさま急行したものの間に合わず、到着したときには既に愛妻の埋葬が終わっていた。このことがモールスを馬より速い長距離通信手段の研究へ向かわせたのだという。
 歴史の機が熟していたのであろう、電信の原理そのものにモールスが想到したのは1832年と早かった。相前後して類似の発明が次々と現われ、特許をめぐって争いが起きるのも多くの発明と共通する。ただ、ここでの実践的な問題は電信機自体ではなく、むやみに電線を伸ばしただけでは信号が減衰し、100mかそこらしか伝わらないところにあった。幸い有力な協力者の助力もあり、電信線に沿って一定間隔で継電器を設置することで問題を解決できることをモールスは知る。しかし、これを実証するにはまず相当の資金が必要であり、そこで「政府に出資を求めた」という話になるのである。
 それやこれやの問題を粒々辛苦の末に乗り越え、1844年に至ってついにワシントン・ボルチモア間の試験送信に成功したという次第。
 「神はその為すところを示したまう」と訳されているのは、実際には "What hath God wrought” で、wrought は 動詞 "work" の過去・過去分詞(古型)だから、正しくは「神の為されるところ」という主語部分である。我が文語訳聖書では下記のように訳されている。
 「ヤコブには魔術なし、イスラエルには占卜あらず、神はその為すところをその時にヤコブに告げ、イスラエルにしめし給ふなり」(『民数記』23章23節)
 念のために言っておくなら、ここでイスラエルと呼ばれているのは現代の中東に存在する攻撃的な国家と直結するものではなく、旧約の信仰者ヤコブに与えられた一種の霊名であり、ヤコブの子孫たちに代表される信仰共同体を指すものである。

 小学校の二年ぐらいだったか、父がその昔、陸軍幼年学校で学んだ日本語モールス信号の一覧表を作ってくれ、しばらくそれで通信ごっこをしたりした。それを思い出して活用したのが、これである。


 薄手の大学ノートを診療記録などに使っているが、本棚に立てる際に背表紙にタイトルを書くほどの幅がない。そこで白のマーカーを使って印をつける。
 左は ・ー・・  ⇒ 「か」 ~ カトーセキ(下等席)
 右は ー・ー・・ ⇒ 「き」 ~ キーテホーコク(聞いて報告)
 タイトルの最初の一字をモールス信号で書いておけば、簡単に弁別できるという訳である。
 モールスの実験から180年後の書斎の工夫。

Ω