散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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5月23日 コペルニクス 地動説を発表(1543年)

2024-05-23 03:01:52 | 日記
2024年5月23日(木)

> 1543年5月23日、死の間際にあったニクラウス・コペルニクスは『天球の回転について』を発表した。これはそのころの常識であった天動説と真っ向から対立する地動説を唱えるものであった。
 コペルニクスが初めて地動説を公表したのは、実は1514年のことである。それはごくわずかの信頼できる友人に見せた数部の手書きのパンフレットで、『天体の運動の仮説についての概要』という題名がつけられていた。パンフレットは科学者の間で回覧され、大きな反響を呼んだという。
 しかし、中世のキリスト教会では天動説のみが認められていたため、地動説を唱えること自体がキリスト教に反目することになりかねなかった。熱心なキリスト教信者であったコペルニクスには教会と対立する意図は全くなかったため、それ以上公にはしなかったのだ。しかしそれから30年、死期の迫ったコペルニクスは、友人の強い勧めにより、改めて自分の考えを公表する。本は彼の死の直前に出版されたが、出版社は教会の反発を恐れ、『天体位置の簡易計算法』という書名で世に出した。カモフラージュの甲斐あって、コペルニクスは刊行の翌日、教会に糾弾されることなく安らかに一生を終えた。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.149

ラテン語名: ニコラウス・コペルニクス Nicolaus Copernicus、
ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik
1473年2月19日 - 1543年5月24日

 外国語の発音を日本語で正確に表記することは概ね不可能なので(逆もまた同じ)どうでも良いようなものだが、やはり「ニクラウス」よりは「ニコラウス」と書くべきなのだろう。
 地動説に想到したのが41歳の時(さらに数年早いとの説もある)、それから30年近くも温め続けてきた心中を思う。古くは紀元前3世紀のアリスタルコスが太陽中心説を唱えていたそうだから、1800年ぶりの再発見である。
 コペルニクスは「悪貨は良貨を駆逐する」ことに気づいてもいたとあり、その知性はヨーロッパ人らしく狭量な縄張り意識を突き抜けたものだった。時代を震撼させつつあった宗教改革を、忠実なカトリックの信徒としてどう見ていたのだろうか。死を目前にして彼が地動説が発表した頃、丸い地球の裏側の日本では種子島に鉄砲が伝来していた。
 丸い地球といえば…
 マゼラン一行の地球周航は1522年に達成され、地球が球体であることは疑う余地なく実証された。自分がその時代に住んでいたとしたら、このことの方をよほど受け容れがたく感じたと思う。それが真実なら、この球体と彼の球体のどちらがどちらを回っているかは、むしろ二次的な問題となりはしないか。
 これまた「コロンブスの卵」の側面があり、いったん地動説に頭を切り換えてしまえば、たとえば惑星の運動に関する頭の痛い謎がすっきり氷解するのである。多くの天文学者の喉元まで出かかっていた決めの一言を、コペルニクスが30年の躊躇の後についに口に出して世を去った。1542年11月に脳卒中で倒れ、半身不随の闘病半年、「仕上がった校正刷りは、コペルニクスの死の当日に彼のもとに届いた」と別のところにある。
 なお、聖書のどこを見ても「太陽が地球の周りを回っている」などとは書かれていない。天動説は聖書とは別のカトリック的伝統の中で信ぜられたもので、それに逆らうことがなぜそれほど不敬とされたのかは、もう少し勉強しないと分からない。
資料と図:https://ja.wikipedia.org/wiki/ニコラウス・コペルニクス

Ω

5月22日 ホロヴィッツがロンドンで31年ぶりの演奏会を開く(1982年)

2024-05-22 15:59:14 | 日記
2024年5月22日(水)

> 1982年5月22日、ロンドンのフェスティバルホールで、ロシア生まれの78歳の大ピアニスト、ウラジミール・ホロヴィッツがコンサートを開いた。31年ぶりの講演を聞くために詰めかけた聴衆の拍手が鳴り止むと、ホロヴィッツは、最初の曲目であるショパンの「幻想ポロネーズ」ではなく、何の前触れもなく英国国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」を弾いて人々の度肝を抜いた。
 これには、少し訳がある。この演奏会は、コヴェント・ガーデン王立歌劇場の増築基金を集めるための慈善リサイタルとして企画され、チャールズ皇太子の招きにホロヴィッツが応じたものだった。出産を間近に控えたダイアナ妃は、バッキンガム宮殿にとどまり、テレビでこの公演を聴いていた。そんなダイアナ妃のために、ホロヴィッツはシューマンの「子供の情景」をプログラムに組み入れていた。ダイアナ妃はその演奏を聴き、感動のあまり涙を流したという。
 愛用のスタインウェイをニューヨークから船で運び、ホテルには練習用のピアノを用意するなど、気難しいホロヴィッツの要求をすべて満たして初めて可能となった、記念すべきロンドン公演だった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.148

  
Vladimir Samoilovich Horowitz / ולדימיר הורוביץ‎‎
1903年10月1日 – 1989年11月5日


・名前について:
> ロシア語名では、ヴラジーミル・サモイロヴィチ・ゴーロヴィツ(Владимир Самойлович Горовиц Vladimir Samojlovič Gorovic)、ウクライナ語名ではヴォロディームィル・サミイロヴィチ・ホーロヴィツィ(Володи́мир Самí́йлович Го́ровиць Volodymyr Samijlovyč Horovyc)。Horowitzという苗字そのものは、チェコの地名 Hořovice(ホジョヴィツェ)のイディッシュ語名 האָראָװיץ‎(Horovits)に由来する。

・精神科受診歴と訪日時の評価について:
> 1940年代、ホロヴィッツは自身の性的指向を変えようと精神科に通うようになった。1960年代、そして1970年代にまた、うつ病の治療のため電気けいれん療法を受けるようになった。
 1982年、ホロヴィッツは、処方された抗うつ薬の服用を始めたが、記録によれば、彼は同時期に飲酒もおこなっていた。この間、彼の演奏は相当に衰え、1983年アメリカ合衆国と日本では記憶力低下と身体のコントロール不調に見舞われた。

> 「私はその医者の名前も知らないが、その医者を全く信用していなかった。彼はホロヴィッツを薬づけにしたのだ。…コンサートの後、憔悴しきったホロヴィッツは物を言う気力もなく、椅子にうずくまってつぶやいた。『分かっている……間違った音だらけ……音をうんとはずした……自分で自分に何が起こっているか分からない』」フランツ・モア(1994)『ピアノの巨匠たちとともに』中村菊子訳、音楽之友社、51ページ

> ホロヴィッツは日本の文化に興味を示していたようであり、自宅のリビングの壁一面には海北友雪の日本画『一の谷合戦図屏風』を飾っていた(DVD『ウラディミール・ホロヴィッツ~ザ・ラスト・ロマンティック』より)。1983年に初来日。NHKホールで2回コンサートをした。高校生8000円~S席50,000円(平均4万円)が即日売り切れとなり話題となった。このコンサートを取材したNHK番組では、プログラム前半終了時の休憩時間にインタビューを受けた音楽評論家の吉田秀和が「ひびの入った骨董品」と評し、ピアニスト神谷郁代は賛辞を述べるなど評価は分かれた。
 吉田の批評に接したホロヴィッツは、長年その実演に接することを念願していた日本のファンを失望させたことと、自身の名誉を著しく傷付けたことを帰国後も気に病み続けたという。2度目の来日は、1986年にホロヴィッツ自身の希望もあり実現した。
 この年、彼はおよそ60年ぶりとなる祖国のモスクワでの演奏を成功させ、ベルリンでもその後伝説になったコンサートを行っている。82歳という高齢にもかかわらずヨーロッパでの演奏旅行の後訪日し、昭和女子大学人見記念講堂でコンサートを行った。この演奏会はホロヴィッツ本来の芸術性が発揮され、特にスカルラッティやシューマンの小品などでの美しい音色が際立つものであった。

> 「新聞の否定的な批評が次第に浸透してきて、幸運にも彼はその主治医の影響から解放された。その精神科医はお払箱になった。この経験の苦痛は大きく、彼は後になっても…その医者のオフィスの前を通ることすら避けたほどである」デヴィッド・デュバル(1995)『ホロヴィッツの夕べ』小藤隆志訳、青土社、147ページ

> 「新しい担当医の治療で復調したホロヴィッツ氏は、86年春、露、独、英の演奏旅行で素晴しい演奏を繰り広げた。この旅行の帰路に氏は再び来日を願い、ロンドンで急きょ記者会見を行った。『3年前の私の演奏は良くなかったと思う。しかし今はもっと良い演奏ができる気がするので、再び日本で演奏したい』。当時81歳の氏が会見の冒頭で語った言葉である。3年前の演奏を『薬のせいで』などと言い訳をせず、再起を望む姿勢に私は感銘を受けた。」佐藤正治 “放射線22 「ひびのない骨董品」” 『東京新聞』6.13 2006.

資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/ウラディミール・ホロヴィッツ

Ω

5月21日 リンドバーグ 大西洋単独横断に成功(1927年)

2024-05-21 03:03:00 | 日記
2024年5月21日(火)

> 1927年5月21日、チャールズ・リンドバーグは大西洋無着陸単独横断飛行に成功した。「翼よ、あれがパリの灯だ!」という感動的な台詞をご存知の方も多いだろう。飛行時間は約33時間、いまだ誰も達成していなかった偉業であり、2万5千ドルの賞金がかけられていた。
 リンドバーグは1902年にデトロイトで生まれた。ライト兄弟の飛行の一年前であり、飛行機という世紀の発明とともに育った世代である。十歳の時に飛行機を初めて見て以来、大空に憧れ続け、21歳で早くも自分の飛行機を手にしていたという。
 偉業を達成した時に乗っていたのは、そのために特別に注文したスピリット・オブ・セントルイス号で、たった60日で設計製造された。この飛行機は、顕著な特徴を持っていた。まず、巨大な燃料タンクを機体前方に取り付けたこと。これは墜落の時に操縦席が押しつぶされないためだったという。そして故障のリスクを減らすためエンジンは単一。補助翼と尾翼は小さく、操縦の難しい飛行機だった。わざと操縦を難しくしたのは、眠くなるのを防ぐという目的もあったらしい。
 偉業達成後、大きな名誉を手にしたリンドバーグだったが、英雄扱いは好まなかったようだ。その後、妻にも飛行機の操縦法を教え、二人で中国への航空図を作成、1933年には太平洋横断航路も開拓した。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.147

  
Charles Augustus Lindbergh
1902年2月4日 - 1974年8月26日

 セントルイスにはリンドバーグという名の通りがあり、空港には機体の大きな模型がぶら下がっていたが、件の搭乗機が「セントルイス魂」と名づけられたこと以外に、町と人物の縁を感じさせるものはとりたててない。出身地はデトロイトだし、なぜ「セントルイス」か分からずじまいだった。
 名前の感じからユダヤ系かと思って訊いてみたら、マデロン・プライスに一蹴された。「とんでもない、それどころか反ユダヤ主義者だったわよ!」
 実際はスウェーデン系で、少なくとも大戦前に親ナチス的であり反ユダヤ的であったのは事実らしい。一時は大統領候補とまで噂されたものの、政治向きの人物ではなかったようである。第二次大戦では太平洋戦線で軍務に関わり、日本人捕虜に対する連合軍の虐待と、日本軍による連合軍捕虜への同種の行為とを、こもごも記録している。1970年の大阪万博に来日し、太平洋横断飛行の搭乗機シリウス号とともに会場に姿を現した。

 上掲書は彼の輝かしい部分を拾っているが、陰の面もいろいろとある。
 1929年に結婚した相手がアン・モロー・リンドバーグ。夫の導きで女性飛行士の草分けともなったが、それより『海からの贈り物 "Gift from the Sea"』で知られる作家として名高い。「さよなら」という日本語の美しさを発見し、感動をエッセイに書き記したのはこの人である。
 この二人の最初の子である長男が1歳8ヶ月の1932年、自宅から誘拐され、2ヶ月余り後に遺体で発見された。やがてドイツ系移民のリチャード・ハウプトマンという男が誘拐殺人容疑で逮捕され、有罪判決を受けて死刑となった。当時チャールズ・リンドバーグの自作自演説が囁かれたのは邪推が過ぎるとしても、ハウプトマンに関しては冤罪の可能性が捨てきれないという。アガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』はこの事件に想を得ている。
 夫妻はその後、五人の子どもに恵まれた。晩年は夫妻でハワイ・マウイ島に住み、環境保護活動に尽力した。その一方で夫チャールズ・リンドバーグは、第二次大戦後に知り合ったミュンヘン在住のドイツ人女性との間に生涯にわたる親密な関係を営み、三人の非嫡出子をもうけたという。行動範囲の広さは、さすがというべきか。

 もう一つ調べて驚いたのは、彼が人工心臓の開発に関わっていることである。ただのヒコーキ野郎でなかったことは間違いない。

> リンドバーグには心臓弁膜症を患っている姉がおり、心臓病の治療法を開発したいという思いから生理学者アレクシス・カレルの研究室を訪れた。2人は意気投合し共同研究をおこない、1935年に「カレル・リンドバーグポンプ」を開発。これは今日の人工心臓に影響を与えている。組織が体外で生き続るための生理学的条件についてはカレルの知識が、血液を連続して環流させるポンプ装置の発明についてはリンドバーグの工学知識が生かされた。


資料と写真:

Ω

5月20日 ヴァスコ・ダ・ガマ、インドのカルカッタに到着(1498年)

2024-05-20 03:43:02 | 日記
2024年5月20日(月)

> 1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガル国王の命を受けて、四隻の艦隊でリスボンを出港した。目的地はインドである。一行は十ヶ月余りをかけてアフリカ南岸から喜望峰を回り、1498年5月20日、インドのカルカッタ沖に投錨した。
 旅の目的は、表向きは国王の親書を携えて未知の国々との友好関係を築くというものだったが、実は当時は大変貴重だった香辛料が目的だったと言われている。
 しかし、思い通りにならない風向きや水不足に悩まされ、航海は困難をきわめた。補給のために立ち寄った港でも歓迎されず、武装集団に襲われることもあった。やっとたどり着いたカルカッタでは、藩主の一人、カリカットのサムリと面会したが、意思の疎通が難しく、友好的な関係には至らなかった。
 さまざまな困難を乗り越えて、翌年ヴァスコ・ダ・ガマはリスボンに帰り着くが、乗組員の三分の一と一隻の船を失っていた。しかし、彼のもたらしたアフリカ、インドの情報と香辛料はポルトガルの人々に熱狂的に迎えられ、武力を誇るポルトガルは来たるべき大航海時代へと突き進んでいくのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.146

  
Vasco da Gama(1460年頃 - 1524年12月24日/25日)
/ 生誕地シーネスにあるヴァスコ・ダ・ガマ像

 1488年にポルトガル人バロトロメウ・ディアスが喜望峰に到達、東に向けてのポルトガルの発展は緒に就きつつあった。
 一方、コロンブスが1492年に北米大陸に到達。その成果を受けて発布されたアレクサンデル6世の教皇子午線は、ポルトガルに大いにショックを与えた。スプートニクショックみたいなもので、これに大いに加速されてのヴァスコ・ダ・ガマの快挙である。
 もっとも、コロンブスが「大西洋の西の果てから地獄に落ちる」という迷信を押し切って未知の海域に乗り出したのに対し、ヴァスコ・ダ・ガマのそれは上述の通り、国王の信書を携えて異文化地域に交流・交易を求めていったもので、いろいろ対比できそうである。
 『ロビンソン・クルーソー』のダニエル・デフォーはスペインに手厳しくポルトガルに好意的だが、これなどは多分にイギリスとの利害・競合が繁栄されているだろう。
 それはさておき、インドの先に中国があり極東がある。「バッテラ」や「コンペイトウ」といった言葉や文物を日本人が知る時が、半世紀余り先に迫っている。


図と資料:https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァスコ・ダ・ガマ

Ω



5月19日 織田信長、桶狭間で今川義元を討ち取る(1560年)

2024-05-19 03:32:59 | 日記
2024年5月19日(日)

> 1560年(永禄三年)5月19日、織田信長が25歳の時である。尾張統一を目前にしていた信長は、尾張の北に構える斎藤義龍と、東から迫る今川義元率いる2万5千の大群に囲まれる窮地に立たされていた。
 早朝、小姓六人だけを率いて清洲城を出陣した信長は、父光秀の頃からの家臣である佐久間の軍勢と善照寺で合流した。この時の信長の兵力は二千にも満たず、今川の軍勢の十分の一ほどしかなかった。
 今川義元が桶狭間で休息をとっているという一報が入ったのは正午のことである。直ちに信長は桶狭間に向けて進軍。桶狭間に到着した信長を待ち受けていたのは雷を伴う激しい夕立だった。大々的な野営を敷いていた今川の軍勢は動きを完全に封じられていた。信長は雨の途切れた一瞬の隙を突いて、今川軍の本陣を直撃した。これには義元を守る数千の兵もなすすべがなく、劣勢を察知した義元は退却を命ずる。これにより、身辺の守りが薄くなった義元に服部小平太が斬りかかり、ついで毛利新介が義元の首を上げた。
 圧倒的な兵力差がありながら今川軍の油断に乗じたこの奇跡的な勝利で、信長は名実ともに尾張の統治者であることを天下に示したのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.145



 大曽根寛先生は本来チャキチャキの江戸っ子だったが、生涯の後半は名古屋に住まわれた。八事(やごと)界隈の文教地区で、昭和40年代の僕らの住処から歩いていける距離である。名古屋で会食を計画するうちにコロナ禍に突入し、その後次第に体を悪くされ、コロナ明け寸前にとうとう力尽きた。直前まで科目制作に全力を注がれ、そのお手伝いをしたのが最後になった。
 その大曽根先生から「桶狭間の戦いはなかった」との説を伺ったことがある。作り話だったというのだ。
 これには面食らった。
 「なかったって…でも、西上する今川の大軍を織田勢が迎え撃って、義元の首級を挙げたのは事実なんですよね?」
 「だから、なかったんです。」
 大曽根先生、澄ましている。
 どういう意味だろう?
 名古屋で味噌煮込みをつつきながら、ゆっくり伺ってみるはずだった。

Ω