散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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5月18日 サティの「バラード」初演が大混乱に陥る(1917年)

2024-05-18 03:50:10 | 日記
2024年5月18日(土)

> 1917年5月18日、フランスの作曲家エリック・サティのバレエ音楽「バラード」がパリのシャトレ座で初演された。この公演を取り巻く人々は、台本はコクトー、舞台装置と衣装はピカソ、出演はディアギレフのバレエ団(バレエ・リュス)と超豪華なメンバーで、アメリカからは小説家のジョン・ドス・パソスや詩人のE・E・カミングズが聴きに来ていた。
 この作品は、サイレン、ピストル、タイプライター、発電機、飛行機の爆音などの効果音を使った実験的なものだったが、聴衆の激しいブーイングで場内は大混乱となった。カミングズは立ち上がり、汚いフランス語を使って聴衆を怒鳴りつけ、サティをかばったという。
 その後、「バラード」はローマでも演奏(上演)されている。この時も、バレエ・リュスが出演した。このバレエ団の中にオルガ・コクローヴァがおり、ピカソはここでオルガと出会うのである。翌1918年、ピカソとオルガは結婚し、1921年には長男パウロが生まれている。
 一方、詩人のカミングズは後年、破天荒な表記法で詩を発表するようになる。カミングズにはサティの音楽が即座に理解できたのだろう。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.144

Éric Alfred Leslie Satie
1866年5月17日 - 1925年7月1日

 オンフルール生まれで両親ともフランス人なのに、なぜかはじめは英国教会の信徒として育てられ、四歳でカトリックに改宗させられている。
 パリ音楽院在学中、指導教授から才能が無いと決めつけられ、1885年に2年半あまりで除籍となる。しかしその間に処女作のピアノ小品『アレグロ』を作曲し、1888年には『ジムノペディ』を発表した。
 薔薇十字団と関係して小品を書くかと思えば、フランス社会党のちには共産党に党籍を置いてもいた。最後はアルコール乱用による肝硬変で亡くなったという。
 「異端児」「変わり者」の異名にふさわしい人生だったようである。
資料と画像:https://ja.wikipedia.org/wiki/エリック・サティ

1924年の自画像

Ω

レモン&コアオハナムグリ

2024-05-17 14:36:40 | 花鳥風月
2024年5月17日(金)


 GW滞在中の、この一枚。
 レモンの開いた花弁は純白なのに、つぼみはこの通り薄く紫がかっている。訪問者はコアオハナムグリというものらしい。

 コアオハナムグリ Oxycetonia jucunda Faldermann はコガネムシ科の昆虫の1つ。いわゆるハナムグリの仲間では日本本土でもっとも普通な種である。
 本種は個々の場合において単一種の花を集中して訪れる一貫訪花を行うことが示されている。また移動の際にはある程度の距離を一気に移動する傾向も見られる。このようなことから本種は花粉媒介に関しては同種の花粉を離れた花まで運ぶ性質があり、花粉媒介者として有効で、特に自家不和合性の強い植物にとっても有用なものと考えられる。
 本種の成虫は花蜜や花粉を食べるが、花に来た場合には雌しべの子房に傷をつける場合があり、特に柑橘類では生長した果実の表面に筋状の傷が入る傷害果となってしまうため、農業害虫として扱われている。ただし温州ミカンでは傷のある果実は落下するので被害が出ない。

 一長一短というところか。レモンにときどき「筋状の傷」があるのは、君の仕業みたいだね。どうぞお手柔らかに。

Ω

 

5月17日 森鴎外の代表作『渋江抽斎』の新聞連載完結(1916)

2024-05-17 03:50:10 | 日記
2024年5月17日(金)

> 1916年(大正五年)5月17日、森鴎外が「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」で連載していた『渋江抽斎』が119回をもって完結した。『渋江抽斎』は、鴎外の史伝小説の第一作でありながら、鷗外の全作品中の傑作として評価の高い小説である。
 『渋江抽斎』は幕末期の弘前藩の儒医で、1858年(安政五年)に53歳で没している。鷗外が生まれる四年前に世を去ったことになる。作品中で鴎外は「抽斎仲は医者であった。そして官吏であった」と書いており、医者であり陸軍省医務局長を務めた鴎外と相通ずる経歴の持ち主であった。
 鷗外は歴史小説を書くにあたり、江戸時代の武鑑(武士年鑑)の蒐集を進めていたが、集めた武鑑の中に渋江抽斎の蔵書だったものが多く見つかったことから、この人物に興味を持ったのが、執筆の発端だった。つまり、武鑑の蒐集にも抽斎との共通点を見出したのである。
 鷗外は、抽斎の息子の保から父親に関する資料を提供され、これに沿う形で淡々と抽斎の生涯を描き出していった。作品の後半では、その縁者たちが王政復古や明治維新の動乱期をいかに切り抜けていったかにまで筆が及んでいる。
 なお永井荷風の『下谷叢話』は、鷗外の『渋江抽斎』に刺激されて書かれた作品だと言われている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.143


> 渋江 抽斎(澀江抽齋)、文化2年11月8日(1805年12月28日) - 安政5年8月29日(1858年10月5日)
 江戸時代末期の医師・考証家・書誌学者。弘前藩の侍医、渋江允成の子として江戸神田に生まれる。儒学を考証家・市野迷庵に学び、迷庵の没後は狩谷棭斎に学んだ。医学を伊沢蘭軒から学び、儒者や医師達との交流を持ち、医学・哲学・芸術分野の作品を著した。考証家として当代並ぶ者なしと謳われ、漢・国学の実証的研究に多大な功績を残した。
 蔵書家として知られ、その蔵書数は3万5千部といわれていたが、家人の金策や貸し出し本の未返却、管理者の不注意などによりその多くが散逸した。1858年、コレラに罹患し亡くなった。
 後に森鷗外が歴史小説『澀江抽齋』を発表し、一般にも広く知られた。なお鷗外に資料提供したのは抽斎の七男の渋江保である。

 幕末の日本で三度のコレラ流行があった。
 文政5年(1822年)8月~10月、西日本とりわけ大坂で被害甚大
 安政5年(1858年)夏、長崎から広まり、江戸だけで死者3~4万人
 文久2年(1862年)夏、麻疹の流行も加わり、江戸の死者は7万とも20万超とも

 渋江抽斎は安政、本因坊秀策は文久のコロリの犠牲者である。

Ω

林子平 補遺

2024-05-16 07:47:49 | 日記
> Hayashi Shihei walked so people like Mamiya Rinzo and Otsuki Jukusai could run.
 どう訳すかって?
 こんな感じでどうでしょうか。

 「林子平の歩みが拓いたその道を、間宮林蔵やオオツキジュクサイらが駆け抜けていった。」

 オオツキジュクサイがよく分からない。
 Bakkalian 先生の先のサイトに "Russian studies in Japan began under the rectorship of Otsuki Jukusai at Yokendo…" とある。仙台藩の藩校である養賢堂(1736-1872)のことで、ゆかりの人々の中に大槻平泉(1810-1850)、大槻習斎(1850-1865)、大槻磐渓(1865-1866)といった名が見える。あるいは習斎のことだろうか。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/養賢堂_(仙台藩)

 仙台藩の支藩であった一関藩に大槻一族があり、仙台藩のいわば頭脳として大いに活躍したとある。その誰かであることは間違いない。教えを請いたいところ。

Ω

5月16日 林子平、著書『海国兵談』のため蟄居を命ぜられる(1792年)

2024-05-16 03:54:16 | 日記
2024年5月16日(木)

 1792年(寛政四年)5月16日、著書『海国兵談』などで海防の重要性を説いた江戸後期の経世家、林子平は幕府から禁固の刑を申し渡された。『海国兵談』16巻の版木・製本はことごとく没収され、仙台の兄宅に蟄居を命ぜられたのである。
 この時に子平が詠んだ「親も無し妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」という歌は有名である。これ以降、子平は「六無斎」と号し、屋敷から一歩も出ず、頑なに蟄居を守り、一年後に没している。
 林子平は『海国兵談』の中で、「江戸の日本橋より、唐、オランダまで、境なしの水路である」と論じ、国内戦より対外戦に備えることが急務であると訴えた。これが幕府により、事実無根の売名行為という烙印を押されたのだが、果たせるかな、同年の九月にはロシアの使節ラクスマンが根室沖に現れている。林子平の先見の明は確かだったのだ。
 後に『海国兵談』は広く伝写されるようになり、尊王攘夷の志士を大いに刺激・啓発する書となる。幕府もその価値を認め、死後50年後に嫌疑が解かれ、初めて林子平の墓が作られている。1856年には、『海国兵談』の再版が許可されるまでになった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.142

林 子平
元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日)

 父親は岡村良通という幕臣だった。この父がゆえあって浪人したため家族は苦労を舐めたが、次姉がすぐれた女性で仙台藩主の目にとまり、次の藩主の側室に抜擢された。その縁で子平らの養父である林従吾が同藩の禄を食むことになる。子平は次男、部屋住みの気楽さで北は松前から南は長崎まで行脚するにつれ、自ずと海外から吹き寄せる風に目覚めたらしい。
 「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」~ 「一衣帯水」と言い「陸は隔て海は結ぶ」と言う、島国日本のわきまえの基本である。

 林子平の画像をインターネットで探していたら、こんなサイトが引っかかってきた。
 "North Star Forever!" と題するのは Dr. Nyri A. Bakkalian なる研究者のホームページとあり、その名で検索すると下記にたどり着く。
 アルメニア系アメリカ人にしてフリーランスの女性研究者、そしてなぜか日本、それも仙台を中心とする東北の歴史を主たる関心事としているらしい。いろんな人がいるものだ。
 おいそれと蓋を開けて良いのかどうか分からないが、まずはその Friday Night History - Episode27:Coast Defense and International Learning の末尾が、次のように明快に結ばれていることを転記しておく。

 And in short, Hayashi Shihei walked so people like Mamiya Rinzo and Otsuki Jukusai could run.

Ω