※インド編(南アジア、アラビア半島カヤックトリップ)の続き記事。
インド最南端・コモリン岬。
ベンガル湾、インド洋、アラビア海と、3つの海が出会う岬。ベンガル湾をはるか東に向かうと、マレー半島やインドネシアの島嶼群に行き着く。アラビア海をはるか西に向かうと、アラビア半島やアフリカ大陸にたどりつく。そしてインド洋をはるか南に向かうと、南極までひたすら海が続いてゆく。
太陽光線に照らされてきらきら光るここの海面を見つめてると、なぜか心の中がシュワーっと泡立ってきて、いてもたってもいられなくなってきました。
インド亜大陸最南端・コモリン岬はいつか行かなきゃなと思っていた場所です。アイランドストリームのホームフィールドとしている紀伊半島や熊野に関する本を読んでいると必ず「補陀落渡海(ふだらくとかい)」って風習の話が出てきます。熊野の大海原の向こう、海上遥かかなたには観音浄土の理想郷があると大昔から信じられていて、古来より那智勝浦近くの補陀落山寺の住職などがそこへ向かって死の船出を行うという風習がありました。で、その奇妙な風習の説明のときに必ずこのコモリン岬が出てくるわけです。
補陀落(ふだらく)の語源は古代インド・サンスクリット語の「ポータカラ」から来ていて、南インド最南端のコモリン岬のはるか向こうの南方海上に観音浄土「ポータカラ」が存在するという信仰があり、それと熊野の補陀落渡海との関連があるとされています(ちなみにチベットのダライラマが住むポタラ宮というのも語源が同じです)。また南方の水平線の向こうに理想郷があるという概念は世界中いたるところにあり、沖縄ではニライカナイ、ケルト民族ではティル・ナ・ノグ タヒチではハワイキ、などと名前や表出の形は違うけれど、水平線の向こうのr理想郷というかポジティヴなフロンティアみたいなものののヴィジョンは共通していて、それらすべてにすごく普遍性が感じられるわけです。
で、ぼくもシーカヤックとかやってて水平線をずーっと見つめる機会がたくさんあるので、それらは簡単には口で言い表せないけれどなんとなくわかるところがあるというか、ピンと来るものがあるなあという想いや感覚を、ずっと持っていました。ほんと、感覚の世界で、言葉に言い表せないんだけどね。
で、念願かなってここコモリン岬に立って、大海原のはるか向こうの人間とか魚とか動物とか昆虫とか歴史とか未来とかカルチャーとかほかいろんなことに想いを巡らせていると、心の中で色んな想いがシュワーっと炭酸みたいに泡立って、やばいくらい胸がキューンとなってしまいました。
・・・・・って、なんか意味分かるようで分からん感じだけど こういうのもひとつのプラネット感覚ってやつかもしれません。
↑ 結構風が強かったですね。ベンガル湾方面から来る風。ちなみにこの近くにやたら大量に風力発電の風車が回っている場所がある。
↑ 岬の沖合にこんな小島があるけれど、そこはヒンドゥーの教えと社会正義の概念を融合させた偉い思想家、スワーミー・ヴィヴェーカナンダ(1863~1902年)が瞑想した場所だということで有名な聖地となっている。もちろんそれ以前、はるか古代から様々な行者が瞑想を行った場所でもあります。なお右のほうの小島に巨大な像がそびえているけれど、それはヴィヴェーカナンダのものではなく、詩人のティルヴァルヴァルという人のもの。
↑ 沐浴する人々。
↑ インド全土からやってきた、おびただしい人々。
↑ 聖なる沐浴場だけど、実はものすごく臭い。そこらに糞小便をdoingしちゃう人たちがたくさんいてそれがそこらに残っていて、また海水もあんまりきれいではなく、異教徒であるぼくは海に入る気がしない。こういうのがヒンドゥーの聖と俗ってやつなのだろうか。
↑ なかなか凄みのある景色ではある。
↑ このアニキたちは全員手にポップコーンを持っていておかしかった。
↑ 一種の観光地的ににぎわうカニャークマリ町。
↑ そこらで店を広げてるおばちゃんも多かった。
↑ 香辛料とかの露店はしぶかったな。
↑ センスがよく分からん、かなりでかい像。
↑ 奈良の大仏みたいなものか。
↑ アラビア海に沈んでいく夕陽はすごかった。
↑ みんな夕陽を見つめ、沈んだらさっさと帰っちゃうけれど実は夕日が沈んでからしばらくの薄暮の時間帯が最も美しいのである。刻一刻と色彩が変わって素晴らしい。
↑ 朝日はベンガル湾の向こうから昇ってくる。雲の合間からビームのように広がる太陽光線がよかった。