物心が付いた頃、我が家にあった電気製品は、裸電球とラジオのみだった。それから洗濯機が来て、冷蔵庫、テレビ、黒電話、蛍光灯が来た。自転車とリヤカーがスクーターになり軽自動車になり、普通車になっていった。
当時の田舎には小さな雑貨屋があり、そこには子供たちのための駄菓子、大人のための食料品、農具、金物、酒、たばこ、燃料などを揃えていた。
地域によっては、子供たち専用の駄菓子屋もあった。この句の駄菓子屋は、作者の年齢を考えると、ウン十年前に足繁く通った駄菓子屋なのであろう。
産業革命以後の科学文明は、幾何級数的に変化している。生まれるものと滅びるもの、その変化に右往左往せず、地道に生きていきたいと思うこの頃である。最近は、パソコン、スマホは当たり前、自動運転の車やドローンのタクシーが完成間近である。しかし、科学は進歩しても、戦争はなくならない。人類は愚かのままだ。人類破滅を危惧するのも私だけではあるまい。
さて、あるものを詠うのが俳句の基本ではあるが、この句のように無いもの、無くなってしまうものを詠うこともできるのである。