この句、昨日までは夏だったから「夏の内側、秋の外側」にいたことになる。ところが、今日は秋だから「秋の内側、夏の外側」にいることになる。つまり、(秋の)内側にいて、(夏の)外側にいる。昨日まではその逆だった、というわけだ。
屁理屈かもしれないが、理屈上はそういうことになる。
立秋によって、同じ場所で同じ生活をしていながら、夏の内側から外側に変わってしまった、作者の新鮮な驚きが感じられる。
とすると、この句は夏を見ている立ち位置だが、真後ろを振り返れば、秋と冬を仕切る透明なガラス戸が、もうそこに見えているに違いない。
カンナ(カンナ科カンナ属)
何年か知りませんが、作者が監獄にいたことは確かで、
独房だったかどうかは知りませんが、そういう推理は当然成立するでしょうね。
それよりも、「地球の外側」というのは、確かにその通りで、感心してしまいました。
太陽系の内側にいて、地球の外側で暮らしている 照れまんです。
いやいや、季節は難しいですね。旧暦・新暦、暦の上では、と言われても、人間の皮膚感覚とはなかなか一致してくれませんし、人によって熱い寒いも誤差がありますしね。
この句、こんな読みはどうでしょうか?
塀の中にいる。独房に入れられているが、午後から 散歩に出てもいい時間があり、庭かグラウンドに 出ることが許される。
庭に出ると、思わず秋を感じてしまった。自分は一夏、こんなところで何をしているんだろう。世間はすっかり秋の気配になっているというのになあ!!
内側の外側にいて秋立ちぬ 春樹 というような???
また、いらぬことを書いてすみません。ペコリ☆
半夏生地球は逆さまかも知れず 照れまん
確かに、その通りですが、作者が誰かは、無視して下さい。
それよりも、俳句自体に関心をお持ち下さい。