古来、本は書き写すことが普通だった。源氏物語なども写本によって1千年の時を経て、現代までつながっている。
それが木版・石版・金属版から凸版・オフセットまで進み、戦後になって大量印刷時代になり、ベストセラーが100万部というような時代になった。
大量消費、大量廃棄時代の到来である。
更に現在では、紙のいらない電子書籍の時代が始まった。紫式部や清少納言が聞いたら、なんと言うだろう。
電子書籍は、大量の木材を使わなくて済むから、自然にとっては良いことなのかもしれない。
そんな中、逆行するように、古来の経を筆で書き写す「写経」が、ブームという。特に般若心経が多いようだが、亡くなった方の供養になり、精神統一にもいいし、功徳を積むとも言われている。
写経を終わり、筆を洗う時になって、作者は初めて肌寒さを覚える。精神集中していた証しなのだ。
そぞろ寒くなり、火が恋しくなるちょうど今頃の季語である。
夏の暑さから解放され、大気は澄み切り、月は美しい。
けれど、何となく頼りなく淋しい、人が恋しい、火が恋しい。
そんな秋にふさわしい気持ちを表す句を作りたいと思っていたが、正太さんが正に作句されていたのだ。「火の恋し」と「写経」が、とてもよい組み合わせだ。
私の亡母は、「写経をする時は、無心になること、又ならねば書けません」と常に云っていた。
作者は、無心になるための写経だったか、或いは、奥様との思い出に浸りながらの、鎮魂の想いで筆を持たれたのか、心惹かれる句である。