(われもこう/けんじゅうがきて/わらいおり)
虔十公園林 宮沢賢治
虔十は、いつも繩の帯をしめてわらって、杜の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした。
雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ、青空をどこまでも翔けて行く鷹を見付けては、はねあがって手をたゝいてみんなに知らせました。
けれども、あんまり子供らが虔十をばかにして笑ふものですから、虔十はだんだん笑はないふりをするやうになりました。
風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは、虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながら、いつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。
時には、その大きくあいた口の横わきを、さも痒いやうなふりをして指でこすりながら、はあはあ息だけで笑ひました。
なるほど、遠くから見ると虔十は、口の横わきを掻いてゐるか、或いは欠伸でもしてゐるかのやうに見えましたが、近くではもちろん笑ってゐる息の音も聞えましたし、唇がピクピク動いてゐるのもわかりましたから、子供らはやっぱりそれもばかにして笑ひました。
続きは、以下でお読み下さい。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/4410_26676.html
ウド(独活)の花
教授だとか検事だとか象徴的な名称だけ登場させたりするのが少し気に入らないですが、虔十にはいつまでも宇宙の深淵へと通じる小さな穴というか、道祖神のような存在であってほしいと思います。
以前調べたら賢治はトルストイの芸術論をよく読んでいたようです。イワンの馬鹿にそっくりなこの話からして、かなり影響を受けてそうです。
昔、私の近所にも虔十と同じような人がおり、しかし平和に暮らして生涯をまっとうしたようです。
いつも「こわーおくにのなんびゃくりー」って、唱っているました。「ここわ、ってうまく言えないし、最初のフレーズの繰り返しのみ。
みんなは、それでもちゃんと扱い、ふらりと現れても、色々話しかけていたように思います。
いまなら施設でしか生活できないでしょう。
鳥やチョウ、虫までもが重要な遊び相手なのですが・・・。
確かに、ドストエフスキーの「白痴」や武者小路実篤の「馬鹿一」などとも共通点がありますね。
虔十公園林の虔十の特徴は、「自然界の様々な現象に対して、大いなる喜びを感じ、その感動を隠しきれず、ついつい笑ってしまう」ということだと思います。
私達日本人が、自然に対して「感動」を失いつつあることへの、痛烈な批判ではないか、と思います。