恐懼に堪えない日々

【恐懼】(きょうく)・・・ おそれかしこまること。日々の生活は恐懼に堪えないことばかりですよね。

農耕民族な人々

2005年04月10日 | 所感とか
日本人は農耕民族であり、西洋人は狩猟民族である。
こんなことから日本人は概して協調を好み、それを大事にする。
対して西洋人は個人主義であり、個々の考え方や意見を尊重する。
細かな所で違いはあると思いますが、おおむねこんなことをいう人がいます。
もちろん全てがすべてこれに当てはまると言うわけでもありませんが、
こんなコピペを見つけたのでちょっと拝借して貼ってみます。

ある船に火災が発生した。船長は、乗客をスムーズに海へ飛び込ませるために、
イギリス人には 「紳士はこういうときに飛び込むものです」
ドイツ人には 「規則では海に飛び込むことになっています」
イタリア人には 「さっき美女が飛び込みました」
アメリカ人には 「海に飛び込んだらヒーローになれますよ」
ロシア人には 「ウオッカのビンが流されてしまいました、今追えば間に合います」
フランス人には 「海に飛び込まないで下さい」
日本人には 「みんなもう飛び込みましたよ」
中国人には 「おいしそうな魚が泳いでますよ」
北朝鮮人には 「今が亡命のチャンスですよ」
大阪人には 「阪神が優勝しましたよ」と伝えた。
船員「船長!まだ韓国人が残っていますが!」
船長「ほっておけ。」
船員「なぜですか!」
船長「生き残られると迷惑だ。服が濡れたと賠償請求されてしまう。

今回の話とは関係ありませんが、なかなか秀逸なコピペですね。
とにかく日本人はこんな感じで、ついつい周りに流されてしまう、
ということが私の経験からもひしひしと実感することが出来ます。
中高生の頃にもあったいわゆる「連れション」もその一つだろうと思いますが、
あいつが行くなら俺も行く、なんてことは往々にしてあること。
今現在の話で言えば、大学の授業履修のこととかですね。
あいつがこの授業を取るなら俺もとるかなぁなんて感じで、
対して興味のない授業を履修してつまらない一年を過ごしてしまった、
なんて人も少なからずいるんじゃないでしょうか?
大人数の授業であれば試験の対策などもあるので何人かの知り合い同士で
授業を受けていたほうが頼りになるということもあるでしょうが、
それが必ずしもいい方向に繋がるのかといえばそれは甚だ疑問。

もちろん友好関係を維持したり協調性を尊ぶことが重要なのは当然ですが、
馴れ合いや思考停止状態に陥るというのは私にとってもっとも忌避したい所。
大学という限られたコミュニティの中であっても、
自分の興味のある授業があるのなら例え友人の多くが別の授業に出ていても、
それを貫徹するぐらいの意思があってもいいのではないでしょうかね。
現に私もそんなことがそこそこにありましたからね。
知り合いもなく話す相手もいない授業というのは何とも気まずいものですが、
後々になってみればその授業を取っていてよかったと思うこともあるわけで。

馴れ合いには馴れ合いの良さがあるし、私にもそういった部分があるので、
頭ごなしに否定をすることはいささか乱暴ですが、
皆が恐れているのは「出る杭は打たれる」ということなんでしょうかね。
とりあえず無難に協調姿勢でいれば何ごともなくうまくいく、
というような風潮があるのでこういうことを真面目に話してしまうと、
「変わり者」とか言われてしまう今の世相が私は何とも悲しいですね。
言いたいことがいえない世の中。そんなことをどっかの先生も言ってました。
とりあえず今日はチラシの裏的な愚痴でした。

恐懼謹言。
コメント
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