恐懼に堪えない日々

【恐懼】(きょうく)・・・ おそれかしこまること。日々の生活は恐懼に堪えないことばかりですよね。

「ごちそうさま」を考える

2005年04月30日 | 所感とか
約一ヶ月前に友人へ貸した三万円が耳を揃えて返却されました。
最近は人間不信になりながらも、一縷の望みをかけて金だっただけに、
世の中もまだ捨てたもんじゃないなぁ、と一安心。
しかし友人同士の金の貸し借りっていうのは当分控えようと思うのでありました。
結果的に返ってきたからいいものの、それまでは疑心暗鬼になりますからね。
疑念を抱きつつ日々の生活を送るのはあんまりいいものではないのでね。
今回の金の貸し借りでは友人ということもあって利子を取ることはなかったのですが、
一応ささやかな謝意を示すということで食事を奢っていただきました。
ごちそうさまでした。

で、この「ごちそうさま」に関して思うことをいくつか。
子どもの頃にしつけをされていた人なら当然のことだろうと思いますが、
何かを食べた後にはそれを作ってくれた人に「ごちそうさま」って言いますね。
それはなにも家庭の中の話だけではなくて、外食に行った際なども、
会計を済ませて店を出る時にはたいていこの言葉を述べて店を後にします。
例えばその店の料理の8割が冷凍食品を解凍したものであっても、
その食事を提供してくれた人への一応の礼儀として述べるのはある意味当然のこと。
私はある程度どんな飲食店に入っても、店を出る時には「ごちそうさま」を欠かしません。
これは日本人の中ではほとんど常識のようなものになってるのかと思えば、
みんながみんなに当てはまる常識ではないようなんですね。

今日の昼も訳あって外食で済ませることになったのですが、
この店は食券制で、店を出る時には会計の必要はない店なのですが、
食事が終わると同時に無言で席を立っていく人が多いこと多いこと。
確かに一人で殺伐と食事をして、「ごちそうさま」ということに対し、
少なからず恥ずかしさを感じるのはわからんでもないのですが、
そこはやっぱり料理を提供してくれた人への礼儀を考えれば、羞恥心云々いうのは、
人としての礼節や道徳に悖るように思えてなりません。
食券制や前払いの店では言葉をかけるタイミングが難しいのもあるのかもしれませんが。
逆にそれを言わないのは何かしら店員の態度やら料理が気に食わない、
とかそういうところに原因の一端があるのかと勘繰ってしまうぐらいです。
私も絶対に「ごちそうさま」と言いたくないような店には出会ったことありますから。
もう一つあるのは「ごちそうさま」=「会計してくれ」っていう観念の方は、
既に会計済みなのでから、これ以上店員に申し付けることはない、ということなのかも。

幸いにして私もバイト先では「ごちそうさま」と言われる側の人間なので、
この言葉の持つ威力というのはよくわかってるつもりです。
多少厄介なお客さんでも、帰り際に「ごちそうさま」といわれれば、
こっちとしても悪い気は全然しないわけです。ある意味で免罪符的な言葉。
「ごちそうさま」って言うのは客がそこでしっかりとくつろいでいった、もしくは、
出されたものに対しての満足の現われを表明する言葉だと思うので。
だから食器返却口に無言でトレイを投げ捨て行くように置いていく人っていうのは、
いかに身なりがしっかりしていようと、本質的な部分でダメな人間だと認識します。
まぁ、自分の所では「ごちそうさま」って言ってくれる人のほうが少数派なので、
私の中では勝手にイメージを良くし過ぎているのかもしれませんがね。
本当に礼儀正しく店員に接する人って出来た人間なんだろうな、って思います。
言われる側の人間の気持ちがわかればこそ、自分もそうしようと心掛けるわけで。
私の中では自分がされて嫌なことはしない、っていうのがポリシーですから。
逆に自分がされて嬉しいことは進んでしよう、と。簡単なようで難しいですけどね。
とりあえずは身近な「ごちそうさま」からコツコツと実践していこうってことです。
なんか道徳的な話で恐縮でありました。

恐懼謹言。
コメント (2)
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