恐懼に堪えない日々

【恐懼】(きょうく)・・・ おそれかしこまること。日々の生活は恐懼に堪えないことばかりですよね。

マインドの騒動

2005年07月17日 | 所感とか
・ぜんだて【膳立て】
(名)スル
1 膳の上に料理・食器を並べて食事の準備をすること。
2 (多く上に「お」を伴って)うまく事が運ぶように準備すること。下準備。
「お―が整う」「お―しておく」
出典・大辞林

日常生活で用いる場合、2の方が一般的かと思います。
説明にある通り、何かしらの企てをうまくいくように計らうことですね。
自分の望みを達成したい場合、友人などのお膳立てはありがたいもので、
自分だけではなんとも出来ない時にお膳立てをしてもらうことにより、
目標により近づくことが可能になるわけです。

で、この「お膳立て」を鉄道の「レール」に見立てて話を進行します。

もし、お膳立てという行為が自分の志す方向と別方向へ向いていたら、
ということなんです。
そのお膳立てしてくれる厚意自体はありがたいのですが、自分の意に反している場合、
周囲の人が用意したレールの上を走ることを暗に求められる気がします。
自分のベクトルとそれが一致すれば周りの協力に感謝しつつレールの上を走るものの、
人間は自らが意思を持たない列車と違って意志を持つものであり、
必ずしも用意されたレールの上を走るわけにはいきません。
それはなにも進学とか就職とかそういった問題に限ったものでなく。

幸いにして私も自分自身の意志を持つ人間なので、
用意されつつあったレールをはずされたところで脱線転覆とはなりません。
私が鉄道にある程度の見切りをつけてバイクへと興味を移したのは、
ただ単に用意されたレール上を走ってるだけではつまらない、
ということに気がついたからなのかはよくわかりませんが、
今現在の私は完全にレールの上を走ることを放棄してしまった状態です。
バイクのように自由意志である程度どこにでも行くことが出来る。
それはもちろんレールがない分、行き先もわからなければ、
その先にどんなものが待ち受けているかもわからないのですが、
先にある結果が見えてしまっているほうがむしろ面白くないと思います。
とすれば、それが一種の賭けになっても自由意志に任せてしまいたい、
というのが自然の成り行きってものなのかもしれません。

用意されているレールから逸脱することはある種の裏切り行為かもしれません。
しかし、最近愛してやまないあの名言がふと思い浮かぶんです。
「己の信を曲げぬこと、それを裏切りとは呼ばぬ」滝栄一郎・海軍中佐
もう私の生きる指針はこの言葉に凝縮されています。
さぁ、この先に待ち受けるものは一体なんなんでしょうか。

なんかもう例えが多すぎて自分でも意味不明の文章。
恐懼謹言。
コメント (2)
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