恐懼に堪えない日々

【恐懼】(きょうく)・・・ おそれかしこまること。日々の生活は恐懼に堪えないことばかりですよね。

わずかな空間

2005年10月27日 | 恐懼とか
最近電車内や駅で見かけるあのポスター
座席に座っている人が隣の空間に荷物を置いていたり、
はたまた足を広げて座っているため、しっかりとした座り方ならもう一人座れるのに、
といったありがちな迷惑行為を表わしているもので、
こういうのはいけませんよ的な車内マナー向上を啓蒙しています。
これはなにも極端な例を表わしているわけではなく、日常ありがちな光景です。
特に最近は厚着の人々が増えているために、本来ならば7人がけのシートなのに、
6人しか座ることが出来ないという光景はよく目にします。
もっともそれはしっかりと詰めて座っていればちゃんと7人座れるんですけどね。

私が今日電車に乗っていたときもまさにこんな状況でありました。
運よく新宿から電車に乗った時に席につくことが出来たのですが、
両隣に座った人たちが先に述べたような行為を行なっているために、
私の両隣には微妙なスペースがあるにもかかわらず、人が座れるほどではない、
というような状況になっておりました。
左隣に座っている中年サラリーマン風の男性は、足を大きく広げて新聞を読んでおり、
右隣に座った学生風の若者は同じく足を広げて携帯ゲームに没頭しておりました。
いや、別に電車内がそこそこ空いていればある程度はいいかと思うのですが、
駅を一つまた一つと過ぎていくうちに、どんどん乗客は増えていきます。
で、彼らもそういった状況に気がついて、どちらか片方でも足を狭めてくれれば、
私はそちらの方向に詰めることができ、
そこに出来たスペースへ私の目の前に座っている人が座ることが出来るんですが、
両隣の彼らにはそんなことにはまったくお構いなし。
ご両人とも思い思いに新聞を読み続け、携帯ゲームの画面と格闘、と。

こうなってくると気まずいのは私なんですよ。
自分が立っていて、目の前の座席に微妙なスペースがあるのに座れない、
という状況でイライラすることはあまりないのですが、
このように自分が席に座っている状況で、
前に立っている人が座ることが出来ないというのはなんとも気まずいものです。
それに私は身を縮めてこじんまりと「座らせていただいている」のに、
両隣にいる配慮を欠いた人間のおかげで人一人が座れなくなるという状況に、
なんとなく怒りというか憤りを感じてしまいます。
勇気を出して隣の人に「もうちょっと詰めてもらえますか?」
と言うことが出来れば一番いいのでしょうが、そんなことの出来ない私は、
よいしょっと身をゆすって席を詰めるような仕草をして、
暗に席を詰めるように両隣へプレッシャーを送るのですが、結局最後まで変化なし。
私は目の前に立つ人に対してずっと恐懼の念を抱き続けねばなりませんでした。

自分が座れてさえ入れば立っている人のことなど関係ない。
つまり自分さえ良ければ他人はどうでもいいというように、
崩壊しつつある日本人のモラルが、電車内の乗車マナーに表れているような気がします。
こういう気まずい思いをするのなら電車に座るというのも考え物ですな。
極力これからは立つようにしなきゃと思いましたよ。まずはそこからだ。

恐懼謹言。
コメント
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