恐懼に堪えない日々

【恐懼】(きょうく)・・・ おそれかしこまること。日々の生活は恐懼に堪えないことばかりですよね。

教育における公と私

2006年03月14日 | 所感とか
昨日の山梨ツアーの車中では色々と話に花が咲きましたが、
中でも一番白熱した議論が教育に関する事柄。
参加者全員が教職課程を履修していたということで、
それなりに知識も興味関心もあるわけです。
で、一番の論点は、「教師と生徒との恋愛は是か非か」というもの。
この問題に関しては私も先日の面接でいの1番に問われました。
私の考えとしては建前も本音もなく、そんなものは言語道断というスタンスですが、
昨日の話の中では、やはり建前としてダメというのではなく、
そう言うものを認めてもいいのではないかという意見も出ました。
つまりは、恋愛というのは職務とは別のプライベートな部分であり、
それに対してどうこう言うのはいかがなものか、ということ。

まぁこの意見もわからないではないのですよ。
極端な例でいえば、教師が新任で赴任すればその年齢は22歳。
生徒が高校3年生であればその歳は18歳で、4歳しか変わりませんからね。
充分にお互い恋愛対象としてありえない話ではありません。
実例は私の身の回りでは聞いたことはありませんが、実例もそこそこあるはず。
ここまで言われると何となくそうなのかなぁなどと思いがちですが、
やはり私の考えとしては相変らず、生徒と教師の恋愛は非、なのです。

第一に教師という存在は特定の生徒のものにはなりえず、
全体の生徒に対して奉仕する存在なのです。ありきたりですが。
つまりこれを教師の「公」の性格の部分であるといえます。
そして恋愛というのはあくまで「私」の部分であります。
ただしその恋愛対象が生徒になった場合はストレートにはいきません。
なんとかして公と私を分けようとしても、それは無理な話だろうと思います。
必ずや私の部分が公の部分を侵し、
生徒に対して平等に接することができよう筈がありません。
恋愛は個人のプライベートの問題なのだから口出しするな、
という考え方は至極もっともで、私も同意します。
しかしそのプライベートの部分が「公」を侵害する恐れがあるのであれば、
そのようなものが許容されるわけには行きません。

第二に、教師が生徒に異性としての好意を寄せる場合は話になりませんが、
逆に生徒が教師を好きになってしまうという場合。
おそらく生徒と教師の間に恋愛があるとすれば、
こちらのほうが割合としては多いのかもしれませんな。
果たして教師を好きになる生徒の心理はどのようなものなのでしょうか。
生徒が好きになった場合の対象というのは教師という仮面をかぶった人間であり、
その教師の人間性を受容した上で好きになったのではないように思うわけです。
教師として振舞っているのはあくまでも虚像ともいえる部分であり、
単純に異性を好きになるのとはわけが違うのです。
教師に対する信頼は概して恋愛感情と混同してしまいがちですから。
生徒が教師を本気で好きになっているように見えても、
それを額面通りに受けとめるのはあまりにも思慮に欠けることです。
ましてや人間形成上、発達段階にある中高生なら。

教師と生徒との恋愛は是か非か。
是だと考える方は今一度よくお考えになれば、
どう考えても非に回るのは必然であるという結果になるのではないでしょうか。
ってか常識以前の問題になってくる気もしますが。
久々に真面目に私の所感を述べさせていただきました。

恐懼再拝。
コメント
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