おいおい。声に気付いて振り向くと、彼女の背後敷居の上に、何時戻って来たのか彼女の夫が立っていた。
「親も馬鹿は無いだろう。」
私はお前の夫だよ。夫の私が馬鹿なら妻のお前も馬鹿だろう。彼はそう言うと明らかに機嫌を損ねた顔付きになった。不機嫌そうに目を吊り上げている。この顔は夫が可なり立腹した証しだった。『何か気に食わ無い事が有ったのだ。』瞬間妻は悟った。不味い事になったわね。彼女は思った。
夫の不機嫌を宥めるには如何したら良いだろうか。一方で裏庭の様子を気に掛けながらも、彼女は眼前の夫の尋常で無い様子から、今の場合こちらの方が自分にとっては重大事だと受け取った。僅かな間に何が自分の夫の心情にこれだけの影を落としたのだろうか。彼女は彼女の視線を繁々と夫に注ぎ彼を気遣いながら、一方では彼の背後の家の内の気配をそれと無く窺ってみるのだった。が、家の中はシンとして毛程も人の気配が無かった。また、先程この家を出て行ってしまった嫁、庭にいる彼女の息子の嫁が再び戻って来て家にいるという気配も無かった。夫と自分、彼女にはこの家の屋内に2人だけの気配しか感じ取れ無かった。彼女は夫の体越しに自分の顔を出すと、実際に彼女の目で以って廊下を覗き込んでみた。が、家の中はやはり他に人がいる気配が無かった。では、では何が?。彼女は怪訝に感じ裏口の土間にシンとして佇んだ。
暫し心を落ち着けてみる。その後、彼女は更に重ねて目の前の夫の様子を仔細に観察してみた。夫は生真面目な顔付きをしている。その口元はというと、尖っている。彼女は目を欹てた。『これは、確実に機嫌を損ねているんだわ。』そう改めて感じた彼女は『困った事になった。』と、内心呟いて顔を曇らせた。思わずふうっと嘆息した。ここに来て為す術無しの状態に陥った彼女は、逃れようの無いこの狭い勝手口の内で、文字通りの窮地に追い込まれていた。
ここで彼女に助け舟を出した人物がいた。その人物はというと、彼女を追い詰めた張本人である当の彼女の夫だった。彼は妻の嘆息の声にハッと気付き、ひょっとして我に返った。彼はそれまで自分の気持ちを取られむしゃくしゃしていた事柄から自分の意識を外した。彼の妻の顔を見詰めた。すると、彼女は酷く根を詰めた様子で、暗い顔付きになり視線を土間に落としている。屋外の光線から影になった勝手口で、家の奥にいる夫の方を向き、逆光になってしまった妻の顔付きは彼女の夫にはより一層暗く翳って見えた。