やれやれ、マルは自身の部屋に戻る途中溜息を吐いていました。が、その顔は穏やかに微笑んでいました。久しぶりに昔の愛妻、スーの顔を思い浮かべたのです。一時は思い出したくもない、誰からも触れられたくない彼の記憶でした。
『こんな風に心療されるんだなぁ。』
マルには何だか意外に思えました。シルの治療ファイルを、彼当てに送信されて来た物を彼は何度も見てはいました、が、結果として現れた事のみ、彼が必要な個所のみの端的な報告でしたから、それぞれの個々に行われた具体的な治療、その主だった内容に付いては殆ど知らないマルでした。また、これ迄心療の現場という物に居合わせる機会無く来たマルでもありました。
所謂、『彼女の企業秘密』という物なのだろうと、彼は思いました。感応者の彼女独特の治療法なのだろう。艦隊の相談員が皆同様の心療方法を施している訳ではないはずだ。彼は推論しました。
してやられたなぁ。『彼女のシュミレーションにまんまと上手く填まった訳だ、私は。』。マルは苦笑いしました。なかなかのやり手だなぁ、彼女は。そう感心してから、自分の部屋に戻ったマルは、現実に約束していた地球人の紫苑さん、彼との釣りに出かけるべく準備に取り掛かり始めました。
『本番はボロ等出さないように念入りに学習しておかないとな。』
彼は地球上の「釣り」の項目について、自身が取り零していたデータを確認し始めました。
「美味しい魚と料理法について、細部に至るまできちんと調べて置こう。」
こう呟くマルの母星では、水辺の生き物は高級食材、大層なご馳走に当たる物でした。彼自身も幼い頃から漁をして、それらを自ら料理して宴の共とすると、皆で愉快に食したものです。
「差し詰め、あのシュミレーションの中の私はシル自身だったんだな。」
ふふふ…と、彼は含み笑いすると悪戯っぽい色をその明るい緑色の瞳に浮かべました。如何やら彼は何か思い付いた様子です。
一方その頃シルは、彼女の仕事部屋で自身のドクター・マルに対するカルテをまとめていました。そして一瞬、シュミレーション上の釣りの場面を思い浮かべて身震いしました。
『やはり、当分は地球上に降りない方が身の為ね。』
赴任してからまだ短期間でしたが、彼女は地球上の任務でダメージを受けたこの船のクルーの、各々に違う問題を心療で解決しながら、しばしばこの様に身震いすると同じ文句を呟いているのでした。
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