題字通り、現在の子育てにおいて、一般には多分に聞かない言葉です。昭和でさえ私の成長期にもそうは聞かなかった言葉です。他に、故郷に錦を飾るとか、青雲の志とか、身を立てる理想の言葉が有りましたね。
さて、ここで、私の祖父は明治の人なのだと思い出し、再度認識しておかなければなりません。どうも祖母は祖父と図っていた、いえ、祖父が祖母にそう仕向けていたのでは、と私は感じずにはいられません。
祖父は私に、「お前しか家を継ぐものはいない、分かったね。」と又もや過去の祖母の時と同じ言葉を、さも因果を含めるように発すると、続けて「はいと言いなさい!。」と、祖母の言わなかった言葉、それを喝!のように言って、私に畳み掛けて来ました。
「はい。」
私はそう言わずにいられませんでした。祖父の家長としての威厳がそう言わせたのかもしれません。確かに祖母の時とは違って、祖父の言葉には荘厳な重みがありました。また、祖母の時で了承してあったのだからとか、祖母と私の遣り取りが祖父には知れていたのだ、隠せ無い、決定事項になっていたのだと思い、私はこの時諦めモードになっていました。
祖父はと言うと、私の返事で大喜びしたかと思いきや、私がこの時見直した彼は、どう言うものか視線や肩を落とし、神妙な面持ちでその場に立っていました。そうして、駄目かと呟きました。
「お前も駄目か…」と、祖父は沈み込んでいます。私は唖然としました。お祖父ちゃんたら、と、私は「はい」を繰り返したのですが、そうか、やっぱりなと祖父は元気の無いままでした。余程従兄弟従姉妹に拒否され続けたのだろう、拒否される事が彼には当たり前になってしまったのだろう、私のはいの返事さえ、嫌やいいえに聞こえたのだろう。そう私は思うと、気の毒にと、祖父の項垂れる有り様に同情しました。
その後、数回、祖父の言葉と私の了承のはいと言う言葉、それを言った状況を繰り返し彼に説明し、最後には到頭、祖父を正気付かせようと彼の手を取り、お祖父ちゃんと、ゆりゆりと手を揺らして彼の注意を引くと、私は再度事情を説明して、漸くの事に祖父は自分の頼みが承諾された事を飲み込んだようでした。私にすると、まぁ、ままよと、事は決まって仕舞ったのだから、それはそれでよいでは無いか、もう悩む必要も無いのだ、そう思い返ってサバサバとした気分になりました。
所がここで、祖父は又、お前本当は嫌なんだろうとか、継ぎたく無いのだろうとか、あれこれとゴネ始めたのです。私は困り、一々祖父への返答を繰り返す事態に陥りました。果ては、お前欲が有ったんだな、とか、欲が有ったんだ、あの家が欲しいんだろう。そう祖父は口にし出しました。私は呆れ、不快に思うと同時に、祖母も私が了承した後の日に、祖父のこの言葉と同様の言葉を私に言った事を思い出しました。
『もしかすると、』私は考えました。祖父母は本当は私に家を継いで貰いたく無いのではないか、彼らの本心はやはり歳上の従兄姉達に継いで貰いたいのではないか。私は喋り続ける祖父を目の前に、渋い顔で首を垂れて黙り込んでいました。
「先程から何をごちゃごちゃ言っておられるんです。お子さんはさっきはいと返事をしておられたのに。」
そんな助け舟が側から入り、漸く私は祖父の鬱陶しい問答から解放されました。「継ぐと言っているのだから、それで良いでは無いですか。」、正に私がその時思っていた通りの言葉をその人は言ってくれたのでした。また、何をそれ以上に御託を言う必要があるのだと、私が同様に感じていた言葉も言って貰えたのでした。
私は祖父の問答が続く内に、段々と彼に憤りを感じていました。私が彼の言葉を引き受けたのは厚意からなのに…、何故欲張りと迄言われ無ければならないのか。黙々として、この時の私の内心は、ふつふつと湧いて来る祖父への可なりの怒りを抱いていました。
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