Jun日記(さと さとみの世界)

趣味の日記&作品のブログ

ティー・タイム 5

2019-02-21 14:48:14 | 日記

 今までの続編のような感じで「ティー・タイム 5」に行きます。

 祖父の話が出たところで、祖父母の話です。過去帳の整理をしていただけに、我が家のお墓はかなり古く、菩提寺では周囲の墓石が現代的な花崗岩などの石で徐々に新しくなっていく中、古い青石の旧態の型で残り、遂に墓所内では2番目か3番目に古い青石のお墓となって仕舞いました。近年の父の納骨の時には、返ってアンチークで風情があるから壊したくない、何だか愛着があって、というような懐古趣味的な墓の感じになってしまいました。

 これは現代の、今の時代になったからこその反応でしたが、私の小学校時代には、もう皆墓石は先を競ってと言わないまでも、順次新しくなるのが当然という様な墓所の雰囲気でした。新しい墓石の波に押されて、皆が強迫観念を覚えるくらいに、家は何時墓を新しくするのか?という言葉が、墓参の折に必ずと言ってよい程我が家の大人の口に上っていました。当時の墓石はかなり高価で、それだけ出すなら安い家を建てられる、というような話もあったように思います。墓参の折、祖母は墓前で、家の羽振りが良かった時に、あの時に墓を立て直せば良かったですね。と祖父に語り掛けているのを私は何度か見た覚えが有ります。そんな時の祖父は、過ぎた事を言っても、と、言葉少なだったようでした。

 そんな祖母が、何時であったか私に、

「あんたの代になったら、家の墓を建て直してね。」

と言うものですから、私は『えっ!』と内心驚きました。呆気に取られていると、

「お父さんとお母さんは甲斐性が無いから。」

と続いたので、何となく私は納得して仕舞いました。

 この辺り、子供の私が納得してしまうくらい、当時の父がやり繰りしていた我が家はかなり質素な生活をしていました。ある日の食卓で祖母曰く、「私達はこんなご飯、子供達に食べさせなかった。」と、食事中嘆息していた事が有ったくらいです。

 小学生の私は祖母の言葉に取り合わず、無言でその場を何とか誤魔化して済ませたかったのですが、祖母は続けて同じ文句を繰り返し、必ず私がはいと返事をするまで、確りと私を見据えて放してくれませんでした。そこで私は仕様が無く、祖母の願いをはいと承諾しました。分かったと返事をしたのです。そんな祖母とのやり取りは、その後の墓参の折にも1度くらい菩提寺で起こりました。それから1、2年して祖母は亡くなったのです。

 祖母が亡くなって1、2年程が過ぎ、お盆や彼岸では無い墓参りの時期外れに、家では祖父と両親、多分妹も共に、家の皆で墓参に出かけました。これは我が家でも珍しい時節でした。私はこの時の墓参の時期を不思議に思っていましたが、過去の祖先の誰かの、法要の年に当たっていたようです。

 墓前でのお参りを済ませると、小学校も高学年になっていた私はさっさと墓所前を離れ、鐘撞堂の側で1人で気楽に遊んでいました。そこへ私の両親や妹を墓前に残したまま、祖父が1人でやって来ました。

「お前の代になったら…。あんたのお父さんとお母さんは甲斐性が…。」

と、私の目の前に立つと、祖父は祖母と同じ言葉を私に言って聞かせました。

 私は、祖父と生前の祖母は打ち合わせがしてあったのかと内心思いました。それであんぐりと口を開けて祖父を見上げてしまいました。私に取って祖母の言葉はそう重い物では無かったのですが、当時の家としての我が家の家長である祖父の言葉はズンとくる重い物でした。祖母と合わせて、回数にするとこれで3回目にはなるだろうこの言葉に、「はい」と答えたこの時の私の気持ちは、夕刻にかかる釣鐘の様に重く沈んだものでした。

 しかし、女の子ですね、祖父が亡くなり、長の年月で私はすっかりこのような重い約束は忘れてしまいました。祖父母の希望、家の墓の立て直しをして欲しい願いを思い出したのは、父の納骨を済ませた以降でした。父の後年、私は父とは不仲でしたから、父の方は私に財産を行かないようにした、などと口にした事も有り、私も長く腹を立てていましたから、父の没後は、父の残した資産の殆ど全てを母につけてしまいました。

 そのせいでしょうか、墓についての祖父母との約束を思い出した私が、母に家の墓の立て直しを促すと、母は1も2も無く承諾の返事をしてくれました。そして早々と父没後の1年後には、墓を綺麗に立て直してくれました。その費用の中には間接的に父の遺産も含まれていると思うと、『結局、父と母は甲斐性があったな。』と私は思いました。家で暢気に居候している(一応婿取りで長女の)私の方が、余程甲斐性が無いなとくさってしまいました。

 祖父母からは「お前の代になったら」(家を継いで欲しい)という希望を受け、父からは「財産が行かないようにした。」(家を継がないで欲しい)という言葉を受け、身内の相反するこれ等の言葉に、考えると困惑してしまう私です。過去帳の資料の書面から、家を継げば私で9代目かと、祖先や子供の為にと考えてみたり、その他いろいろと、あれこれと考えてしまう私です。

追記

   これを書いた後思い出しました。祖父の言葉があった後、次の墓参の時であったか、今度は父から「お前の方で墓を立て直してくれ」の言葉がありました。お父さんは甲斐性が無いから、そう自分で言う父に、私は父の真意を知りたくてその顔をじーっと見つめました。父はどうやら怒っているようでした。それもカンカンだったようです。内心の憤りがその目元や強張った顔付きに如実に現れていました。そして、お父さんの方では墓を立て直さないから、とも付け加えて、内心に決意するようにグッと息を飲んだ感じでした。

   ふざけているんじゃ無いのだと、私はその父の顔や雰囲気に事を理解しました。まだ墓前にいる祖父を振り返ると、祖父はうずくまり墓の前の掃除などしているようでした。私は祖父と父の間で何かあったのだと感じました。この時、父は相当怒ったらしく、本当に生前墓の改築や新築の話をせず、実際にも何ら手を付けずに補修程度で済ませて逝きました。

 

 


ティー・タイム 4

2019-02-20 20:17:48 | 日記

 この辺で止めてもよいティー・タイムです。ああ勘違い、みたいな事を長々と書いても全く仕様が無いのですが、私が小学生の頃からあった父から聞いたこの話、この年になるまでそうなのかなぁと時折思い出していました。父と同じ様に、私も自分の子供に「そうかもしれないんですって。」と言ったものです。なんら確証無しに話をしているのですから、私も相当よい加減なものです。

 今回こうやって、何ら確証が無い話という事実がハッキリ私の方に分かり、知った当初はやはり衝撃を受けたのですが、その後、落ち着いて考えてみると、私の家系は普通の家であるとしみじみと安堵したものです。実は先祖に大きな人がいるという事は、相当なプレッシャーになり、私にすると何となく面映ゆく感じ、妙に世間に対して肩身の狭い思いをして来た物でした。その重荷が一気に無くなったのです。私にとって、今迄半ば無意識に感じていた世間との隔たりが一気に無くなり、人との距離が無くなると、世の中が自分の身近に感じられ、私はその中に溶け込んだ心持がしました。

 そして、次には私の祖先としての祖父を思い出しました。すると私はほのぼのと幸福な気持ちになりました。祖父は可なり頑張って今のこの家に来たのだと感じ入ったからです。私は明るい気持ちになり、続いて嬉しくなったのです。何故なら、祖父は商売人としての才覚を現し、かなりな努力をして、家族の生活の為に頑張ったのだという事実に思い至ったからでした。自分の祖先としての祖父に、そういう家族思いの人が確かな人物として自分の家系にいてとても良かった、と、ほのぼのとしてしみじみとした誇らしい感情が湧いてきました。

 祖父については、その両親の時代から戸籍が有ります。父の没後、相続の関係で父の戸籍を取り寄せた時、父の両親、私からは祖父母、そのまた祖父の両親の戸籍も父の戸籍に付いて来ました。それで知ったのですが、祖父には姉が2人、妹が2人、そして弟が1人と、何と6人も兄弟がいたのでした。祖父の戸籍に兄弟が入っていた時には、祖父の姉にはそれぞれに子供もいました。相当な大所帯であったことが分かります。しかも、祖父の父、曽祖父は早くして亡くなったという事です。その為、祖父はかなり苦労したという話を私も聞いていました。祖父は本当に苦労して頑張ったんだなぁと、父の戸籍を見ていても、その時の私には祖父の頑張りが目に見えるようでした。

 事実に気付いた時に思い至った祖父、そんな祖父にほのぼのとした家族愛を感じ胸が熱くなった私です。この家は当時としてはこの土地の一等地、長者町といってよい場所に立っているのです。『お祖父ちゃん、大所帯を抱えて商売に励んで、頑張ってこの場所まで来たのだなぁ。』と私は微笑むと嬉しく感服していました。

 その様な訳で、事実は私には結構ショックを与えました。が、祖父の頑張りを思い出した時、自分の祖先、直近に近い人物に、普通に商売人として頑張っていた人物がいる家系なのだと、嬉しく誇らしく思えたのです。これは私の記憶に確かにある人物であり、不確実な歴史の有名人ではありません。

 私の人生は、今までが不鮮明な足元のおぼつかない夢の様な世界にいた感じでした。暗い中遠くにかすかに輝くような光が差しているような感じで人生を過ごしてきたのです。しかし、ハッキリとした事実が分かると、私は私の周囲を確りと現実の物として捉える事が出来る様になりました。真実味を帯びた世界が私の身の周りに広がったような感じです。私の肩に有るのは重い荷物では無く、ありのままの世界がベールの様に私の周囲に降り下りた気がします。そして当たり前に私の周囲を取り巻いている。私はその世界に違和感なく落ち着いているのです。地に足が着き、私の身近に燈明が点り、ほんのりとその蝋燭の灯りの温もりが肌に感じられる。そんな気がした私の過去帳の整理でした。


ティー・タイム 3

2019-02-19 11:22:37 | 日記

 今回、こういった先祖の話についても、思い立って少し調べてみました。家の先祖が大伴家持関係の出身かどうかという様な事です。本当にそんな可能性が有るのだろうか?心の隅ではそんな事を思いながら、私は今迄、実際に調べた事が有りませんでした。

 さて、結論から言うと、これは現状では、私の方では全く紐付けられませんでした。それどころか、どうも荒唐無稽な話のようです。当時の父の話では、学校で社会の先生をしていた伯父が、何やら何処かで調べて来たという話でした。その結果、如何やらそうらしいと、その伯父から聞かされたという話でした。それで私の方でも、あの伯父さんが言っていた事ならと、心の隅でちらりと信頼できる話のようにも感じました。

 私は事の真偽を調べずにこの年まで来たのですが、当時の父の話を思い出してみると、家の家紋から溯ったというような話でした。それで、私は家紋について調べてみました。現代風にインターネット検索したのです。すると、この話が可なりの眉唾物である、というよりも、全然当てにならない話なのだ、と判明したのです。予想はしていても、これには可なり驚きました。父の話では、話の出処が可なり信頼できる人であっただけに、全く根拠が無い話だと分かると、一体全体どうなっているのだろうかと唖然としたものです。

 私自身が元々信じていなかったとはいえ、そうらしいという父の曖昧な言葉は後に嬉しい物となっていました。所謂、ほんの少しの家に対する希望の光でした。昔、私が家について揶揄した時の父の不満げな様子に、父の為にそうであればよいなと、子供心に心の片隅で願い、ちょっぴりは信じていたので、本当にがっかりしました。

 しかし、私の住む故郷のこの地は、可なりな地方で、この事実が現実であり、当たり前なのだと思うと、やはり苦笑してしまいます。極々平凡で、屋号を姓にしていたくらいの家の元祖なのだから、武士というよりも町人の出なのではないか、と考えたりしました。商売をしていたのなら商家かなと、名前から役所の番人かなと考えたり。町人でも、元祖はそれなりに利便性のある人だったのだろうか、等々、あれこれと考察してみたりしたのでした。実際、下級でも、武家の婿養子になったのかもしれません。その時の役に因んだ名前を、屋号で誇らしく苗字に据えたのかもしれないと私は考えた次第です。(勿論根拠は全然ありません。)


ティー・タイム 2

2019-02-19 10:36:42 | 日記

 引き続き過去帳作成の記事になります。

 こうやって法名を取りまとめてみると、過去の色々な父の言葉が浮かんできます。親戚の集いばかりではありません。昔の姓には「屋」が付いている。屋は屋号である。苗字に屋号を使っていたらしい。家は武士の出だ。下級武士だったらしい。家の元祖は菩提寺のある町の、誰それという家から出ているらしい。等々。そして、私が小学校中学年、4年生になる頃には、家は大伴家持の子孫らしい等と言い出したものです。

 当時の私は正月のかるた取りで百人一首を覚え、もう万葉集等の歌人を知っていました。社会では奈良、飛鳥、天平、等、平安時代などの日本にあった古い時代という物を知るようになっていましたし、歴史の中でも大伴家持は習っていたと思います。第三者の目とか、客観的にという言葉も国語や道徳などで習って知っていました。

「物事客観的に捉えなければいけない、今迄の君達は自分主体、主観的な世界に生きて来たが、これからは物事を第三者の目で見て、客観的に物事を捉えるという事が大切だ。」

というようなことも学校で習った頃でした。

 「まさかぁ、そんな昔の事分かる訳無いじゃないの。」

と、父の言葉に私は笑い、「そんな有名人が家の祖先な訳無いじゃないの、こんな現代になって、今更調べようもないでしょう。」と、馬鹿にしたように父の言葉をせせら笑ったものです。が、内心はやはりなんだかそんな有名人に縁があるなんて、家は立派な家なんだなぁと、一寸半信半疑に、可なり否定的に違うと感じてはいましたが、ちょっぴり嬉しかったものです。そして、口では父に「違うわよ、お父さん。誰、そんないい加減な事を言ったのは?。」と、下級武士だという話はどうなったのかと、そっちの方が当たり前に聞こえる話だと、盛んに笑って父を揶揄したのでした。

 「お前なぁ。」

と、父は割合真面目に、

「お前はどうして、いつも家やお父さんに対して、卑下したような事を言うのかなぁ。」

と私に対する苦情の様に言ったものでした。確かに、当時の私は父を揶揄ったり、家について世間に対して遠慮がちに物事を捉えたりしていました。けれど、その時の父の話はあまりにも膨大過ぎて、何時もの私でなくても、誰にとってもまさかと思う、すぐには鵜呑みに出来無い話だったと思います。


ティ―・タイム

2019-02-18 11:43:42 | 日記

 次の作品に移る前に、ひと休みです。

 何を書こうかと思い、決まる迄の間のその場汚し、お茶を濁すというような事になりそうですが、最近していた事を書こうかと思います。私が何をしていたかというと、家の過去帳の整理です。家は未だ過去帳がきちんと記入されていない家なんです。親戚の方が来ると、ハッキリと呆れられます(笑い)。親戚なだけにきつい事は言われませんが、未だ親が家にいた頃には私は親の陰に隠れ、その雰囲気をしみじみと感じ取っていました。

 さて、菩提寺で書いて頂いたらしい資料を見ると、2枚の紙が有ります。1枚には何代目、何代目と戒名に数字が打ってあります。その数字で行くと、亡くなった父は8代目に当たるようです。そうすると、私が跡を継ぐと私で9代目という事になるのでしょう。日本人としては余り好まれない数字の代目です。私に伴侶がいれば、その人が継ぐべき代目だったかもしれません。

 ここで、私の幼い頃の記憶では、この父の代目の数字はもっと大きかったので、ちょっとこの点を不思議に思いました。その代目は14代か19代目くらいという話でした。予想より10代程少なく、年数にすると200年程少なくなる計算です。それで改めて自身で調べてみると、家にある資料ではやはり父が8代くらい、家の元祖から年数にして200年程経過しているもようです。家系が10何代か続くと、優に300~400年くらいの年数が必要になりそうです。家の古い墓石に掘られていた元号からみても、江戸後期が元祖のようですから、今家にある資料が年数的にも正しいようです。

 元々のこの私の疑問の起因は、誰かの葬儀や法事の時に親戚が家に一同に集い、仏壇前でこの家の祖先について話し合っていた時に遡ります。記憶では家で2回ほど、親戚宅で1回ほど、大人達が紙を見て話し合っていた場面を私は覚えています。その時の大人達の話の端々も私は覚えていたので、今回資料を纏める上でも大いに参考になりました。

 例えば、初代が両貰いだとか、婿取りだとか、女性が多い家系だとか、途中で同じ家の者同士で結婚しているとか、循環家系だとか、…そんな話です。これ等については、私は未だ考察する余地があります。はっきりそうだとは確定できないでいる部分が有ります。が、養子縁組が何回かあった事は確かのようです。元々の先祖の血筋が途絶えているかもしれませんし、どこかで綿々と繋がっているのかもしれません。その点私の方では確実に調べようが無く、こういった文字通りの過去の記録は、やはりそれぞれの菩提寺に残る書付などが参考資料となるのでしょう。が、私の方では、そこ迄拘りを持ち、確定して調査する必要は無いように考えています。単に、家の過去帳(法名綴り)を完成させてしまおうというのが目的です。

 そこで、年末から今年に入る頃に思い立ち、実際に着手する迄に1月ほどを要して、漸くそろそろ纏まって来たかなという段階にいます。まだまだですね。