昨日の茶千さんのコメントにはピアノコンサートについての返信しかしてい
ないのでここで他のことも触れさせていただきます。
風邪は全快とはいえませんがかなり快調です。
PCというよりスマフォンのほうですが、この便利性に惚れ込んでいます。
内の奥さんが話しかけてもこれに気を取られていると、「嫉妬」します。別に
美人像を見ているわけではないのですが。
便利性では電子書籍に関心があります。青空文庫など名作等が何時でも
どこでもタダで読める魅力は捨てられません。といって毎日見ているわけで
もなく、青空文庫にある本を自分の本棚から外そうとも思いません。
本というものにくっ付いている自分の思いというものが、蔵書にはあります。
その思いとは、知識だけではないでしょう。その時期の自分の迷いとか疑問
に対して解答めいたものを求めていた自分を見いだすのは、自分が読んで
いた記憶と一緒にあるものです。
話はとびますが、昨日の2月20日は小林多喜二が築地警察署で虐殺され
た日です、1933年のことです。彼の思想が彼が身につけた知識と深い繋が
りを持っていることは当然です。同時に知識の量があるいは質が思想を決定
づけるものでしょうか。彼の生れや育ちの日々の生活と親族や周りの人びと
への関心や愛情とのかかわりなしに思想は形成されなかったでしょう。
多喜二も生活と知識のインプット&アウトプットの繰り返しのなかで、自分の
命そのものである自分の思想を己の身体と一体のものにしていたに違いあり
ません。
電子書籍か紙の本か、ということより自分がどういう解答を得るために本を
手にしているのか、そこに自分(達)の生活のどのような問題を持ちこもうと意
識しているのか、そこが大事なことなのでしょう。