kaeruのつぶやき

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名胡桃城 ー1ー。

2016-05-29 21:59:31 | 「真田丸」

  名胡桃城が出てくるのは来週「裁定」ですが、ドラマ「真田丸」の視聴を通じてこの城の歴史上の位置を知りました。城の名前は記憶にはありましたが北条氏滅亡に繋がるものとして理解できました。

その辺を平山さんの『真田信繁』で記しておきたいと思います。

【 天正十四年に徳川家康が上洛し、豊臣政権に従属すると、北条氏は同年十一月から臨戦態勢に入り、真田昌幸が上洛した天正十五年より小田原城をはじめ領内各地の大改修を始めた。

   その間、豊臣秀吉は、天正十五年三月から九州平定戦を実施し、島津氏を降伏させ九州の国分を完了した。そして、いよいよ秀吉は関東(北条氏)と奥羽(伊達・最上氏ら)平定に向けて動き出す。

   天正十五年十二月三日、秀吉は家康に対し「関東・奥両国迄、惣無事之儀」(関東・東北地方の戦争停止命令)の実現について一任し、敵対する勢力を「成敗」してもよいとした。家康は関東と奥羽と対峙する豊臣政権の重要な柱石と位置づけられた。これにより、徳川・北条同盟は形骸化した。北条氏は、十二月二十四日に全領国下に「天下御弓矢立」を発動し秀吉襲来に備えた。

   天正十六年四月、秀吉は後陽成天皇を聚楽第に迎える行幸を実現させた。これは、「日本国王」足利義満による後小松天皇の北山御行幸に倣ったもので、自分の権威確立を意図したものであった。この時秀吉は、徳川家康以下の諸大名より起請文を提出させ、関白の命令への服従を誓約させた。天皇の権威を背景に天下を治める体制(関白政権)を、確固たるものとしたのである。この聚楽第行幸に際し、秀吉は北条氏政・氏直にも上洛を促したが、彼らはこれに応じなかった。秀吉は不快感を示したと伝わる。

   秀吉は、北条氏の上洛を促すべく、北条・徳川・真田三氏間で懸案となっていた沼田・吾妻領問題の解決に乗り出した。もちろん秀吉は、天正壬午の乱終結時の領土分割協定の内実は承知していた。家康は信濃佐久郡等を自力で奪取していったのに対し、北条氏は真田昌幸に敗れて沼田・吾妻領を制圧できなかったのがそもそもの原因である。だが、秀吉は北条氏を上洛させ、豊臣政権への臣従を優先させるために、妥協案を提示した。それは、上野沼田・吾妻領のうち、沼田城を含む沼田領の三分の二を北条氏のものとし、名胡桃城を含む三分の一は「真田墳墓の地」であるという由緒を考慮して、真田昌幸に知行とするというものであった。】

   名胡桃城の名前が出てきたところで、ー1ーとします。この裁定に対する北条氏真田氏の動きが名胡桃城事件へとつながっていきますが、長くなりますのでその分は明日に。