昨日の『真田信繁』からの引用文に1字誤っていました。最後の1行は「昌幸に知行」ではなく「昌幸の知行」でした。あわせて「知行」についてWikipediaから紹介しておきます。全文は https://ja.m.wikipedia.org/wiki/知行 で 。
【 知行(ちぎょう)とは、日本の中世・近世において、領主が行使した所領支配権を意味する歴史概念。平安時代から「知行」の語が使用され始め、以降、各時代ごとに「知行」の意味する範囲は微妙に変化していった。
その中で、様々な主体が担っていた所領支配は、武士の手中へと収まっていき、「知行」の語は、武士が主君から給付・安堵(保証)された所領を意味するようになった。知行面積=知行高は、主君が武士に賦課する軍役の基準となり、その知行高の算出は、戦国期においては貫高により表された。江戸時代になると、知行高は石高で示された(一部では永法も用いられた)。平和で安定したこの時代、知行高は、厳格な体系を持つ武士内部の身分指標の役割を持つようになった。】
以下『真田信繁』からに引用の続きです。
【 真田が失う沼田領三分のニに相当する分は、徳川家康が替地を補償することにした。また秀吉は、北条氏がこの裁定を受諾し、さらに当主氏直が上洛するとの誓約書を提出すれば、ただちに上使を派遣して沼田領裁定を確定させることを約束すると言明した。
北条氏はこの裁定に大いに不満で、沼田領全域の割譲を強く主張したが受け入れられず、逆に秀吉は使者を小田原に派遣し、返答を催促した。もし拒絶すれば即開戦というのは誰が見ても明らかであった。ここに北条氏は屈服し、天正十七年六月、秀吉より提示された条件受諾を表明し、北条氏政が出仕するとの一札を提出した。
北条氏の条件受諾を確認した秀吉は、七月に沼田領裁定の執行を実施した。沼田城には北条氏政家臣猪俣邦憲いのまたくにのりが入った。いっぽうの真田昌幸は、旧沼田領の三分の一を統括する拠点の一つ名胡桃城に鈴木主水もんどを配備したと伝わる。また徳川家康は秀吉の指示通り、真田昌幸に対し沼田領三分のニの替地として信濃国伊那郡箕輪みのわを与えた。ここは高遠城主保科正直の所領であったが、家康は保科氏から取り上げたのであろう。
真田氏はこれを受けて、沼田領割譲によろ知行を失った家臣に対し、箕輪領で替地を宛行う作業を実施した。それは天正十七年十一月三日のことであった。この箕輪領における替地宛行状発給を開始したのは、真田信幸であった。そしてその日に、名胡桃城事件が勃発したのである。】
このあと事件について書かれていますが、その前にこの城の位置を見ておきます。
風船が名胡桃城、右下方の☆印が沼田城趾です。
(所在地 - 群馬県利根郡みなかみ町下津3437番地)
来週の「裁定」では昌幸に「名胡桃城はひときわ高いところにある。あそこの城からは、沼田が丸見えだ」とのセリフがあるようです。
名胡桃城事件そのものについては、明日に。