写真は昨日のものでこれが「兜太4冊」の部分、
こちらが「+1」の1冊です、
『語る 兜太』はkaeru夫人が借りてきた時一読したのですが、この『要覧』に目を通していて確かめたいことがあり借り直してきたのです。この『要覧』に「俳誌回顧 2016」という鼎談がありまして、その中に西東三鬼に関係することが書かれていました。
写真の前の頁に「新俳句人連盟七〇周年」との小見出しがあり「 ニ〇一六年は新俳句人連盟が七〇周年」とあって、この頁の写真に続いてきます。鼎談のなかでは秋尾敏という人が【 皆さんご存じないと思って「俳句人」の創刊号を持ってきたんですが……、】と話をすすめています。
その内容がこの写真の頁+次頁上一段ですので、かなり長い話になります。あえて一言で言うと七〇年前に生まれた新俳句人連盟は大同団結の会でしたが、そこから分裂して現代俳句協会がつくられる。その過程に日本共産党がからんでくるということなどです。
ここにも分裂劇の中心的人物として名前が出てくる西東三鬼は、葉山に縁が深く私としても俳人といえば第一に挙げる人です。その三鬼が分裂劇について書いていたのを読んだことがありますが、その内容とこの鼎談の話とは違う部分があるのです。
鼎談では、三鬼たちが新俳句人連盟を「嫌がった」のは「共産党からの支援金だったら、操り人形になる」こととしてます。三鬼がその辺をどう証言しているか、三鬼の書いたものを紹介しようと、手元の本をめくってみましたがその部分が見当たりません。記憶をたどると「支援」が「共産党から」ではなく「共産党へ」なのです、その点を三鬼が糺すことになって「分裂に」なるという経過だったのです。
この点はあらためて「証言」を紹介を後ですることとして『語る 兜太』のある頁に書かれていることに移ります。これも分裂劇です、新俳句人連盟から分裂して現代俳句協会が結成されるのですが、そこから今度は俳人協会というのが分裂という形で出来ます、と金子兜太が書いています。
その契機になった昭和三十六年の十一月のある日の現代俳句協会賞の選考委員会の席上の緊迫したやりとりを語り、「これが分裂劇の幕開けです。非常にドラマティックな瞬間でした」と。結合も分裂もまさに弁証法の見本のように展開するものだ、との証です。
そして翌年四月に編集者金子兜太によって同人誌「海程」が創刊されます。一日に出来た、と書かれています。その日は葉山町堀内で西東三鬼が亡くなっています。後日兜太らはその死を知り「ああ、この雑誌には西東三鬼の魂が乗り移ってる」と喜びあったのでした。