150年前の明日のことなのですが、その前に、
150年前の7月25日の日付、マルクスが『資本論 第1部』を書きあげ出版できる状況までにいった日です。その一ヶ月と20日ほど後の9月14日に待望の第1巻は世に生まれ出たのです。
14日ですから明日つぶやけばいいことなのですが、実は今日が定例の資本論講読会でした、それを私の都合で延期してもらい予定を狂わせ迷惑をかけたのです。それでこの場に爪のあとくらい残しておこうと思いました。
もう一つの理由は、『資本論』の訳本についてです。それぞれ特長があるでしょう、講読会参加の四人がそれぞれ違った訳本で出ているのもなかなか面白いのです。
その中で私の使っている、
新日本出版社版、上製本なら5冊新書版13分冊ですが、最近の自分の経験で「これは良い」と思ったことを紹介したい……、と思ってその頁を探して見たのですが、見当たらないのです。
要は、資本論の草稿にもとづいて正確に訳し出されていることです。その例として、草稿に記されている{ }がキチンと文中に記されているのです。その部分はマルクスが執筆中に、浮かんできた考えをそれまでも論理の展開とは離れて書き込んだ部分なのです。草稿には{}がされているのですが、『資本論』では外されているのです。
念のため岩波書店版(文庫)、大月書店版の該当頁を見ましたが{}がないままでした。
確か自分が報告をした時の頁だと、何度か頁をめくり目を通したのですが、見つかりませんでした。多分ヒョッコリ出てくるでしょう、そうしたら紹介します。それにしても頁をめくりながら思いました、こういう論理の積み重ねが分厚く文字になって目に迫ってくると、まるで迷路のなかにさまよい歩いているの気分になります。kaeruのような雑な脳にとって一ヶ月近く資本論的ページから目が離れると、論理展開が読み取れなくなるのです。
いやはやせめて一週間に半日くらい目をならしておかねば、と思いました。