kaeruのつぶやき

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昨日の「反戦川柳作家 鶴彬」 の続き

2022-10-22 21:17:32 | kaeruの五七五

昨日「しんぶん赤旗」の12日の記事と紹介しましたが13日でした。

記事の内容は、  石川かほく市

 石川県中部に位置し日本海に臨む、かほく市。 反戦川柳作家・鶴彬(つるあきら)(1909~38年)の故郷です。 本名は喜多一二(きたかつじ)。

 鶴は河北郡高松村(現・かほく市高松)に生まれました。 高等小学校卒業後、伯父が経営する織り屋で働きながら、「北国新聞」の「北国柳檀」に投稿し、15歳で川柳人としてデビューします。

 18歳の時に上京し、革新川柳人 井上剣花坊(けんかぼう)に入門。「暴風と海との恋を見ましたか」など、ロマンチックな句を作っていた少年が、 プロレタリア川柳に目覚めていきます。

 1930年に金沢市の歩兵第7連隊に入隊。雑誌『無産青年』所持により、懲役2年の判決を受け、大阪衛戍(えいじゅ)監獄 (大阪陸軍刑務所)で刑に服します。

 37年に『川柳人』に反戦句を発表し、治安維持法違反容疑で東京・野方署に留置されます。38年、留置中に赤痢に罹患し、豊多摩病院で獄死しました。 29年の生涯で1000句をこえる川柳、90あまりの評論・自由詩を残しました。

 「鶴彬を顕彰する会」副会長・板坂洋介さんの案内で、旧能登街道沿いに点在する、ゆかりの地を歩きました。同会は毎年、鶴の命日(9月14日)のころ、墓前法要と碑前祭を開催しています。

 高松歴史公園には、句碑「枯れ芝よ団結をして春を待つ」があります。72年に高松児童公園に建てられた碑を98年に移設したものです。

 2009年には生誕100周年記念映画「鶴彬 こころの軌跡」が完成し、神山征二郎監督が揮毫した2基の句碑が建立されました。

 一つは鶴の生家跡にある、鶴の甥・喜多義教さん宅の庭に立つ句碑「可憐(かれん)なる母は私を生みました」。

 もう一つは浄専寺境内に立つ句碑「胎内の動き知るころ骨(こつ)がつき」。隣には没後80周年の2018年に建立された「鶴彬墓碑」があり、岩手県盛岡市の喜多家の墓から分骨した、鶴の遺骨が眠っています。

 浄専寺近くの「たかまつまちかど交流館」3階には「鶴彬資料室」があります。

 展示している句の中には、女性や朝鮮人など虐げられた人々をよんだ作品もあり、強い印象を残します。 「みな肺でしぬる女工の募集札」「ざん壕(ごう)で読む妹を売る手紙」 「母国盗った国の歴史を復習する大声」。

 板坂さんは「鶴は大衆にもわかりやすい川柳を武器に、激化する侵略戦争の被害者の実相をはき出し、命がけで反戦・反権力を貫きました」と話します。                     ツルシカズコ

この絵地図の鶴彬生家跡