kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

彼岸の俳句、他。

2014-03-21 21:36:20 | kaeruの五七五

 同じ町内の数少ない身内の老夫婦が亡父母に線香をあげに来られた。

一昨日の彼岸の入りには墓参りと彼岸法要に参加、新しい卒塔婆を墓

に立てる、風に卒塔婆が音をたてる、小雨模様になり急ぎ墓地を下った。

 

 今日彼岸の中日、春分の日、この日の句を、

  

  春分の田の涯にある雪の寺      皆川盤水    涯=はて

                                 『美しい日本の季語』

  海に出てしばらく浮かぶ春の川    大屋達治(おおやたちはる)

                                 『癒しの一句』

  ゆらぎ見る百の椿が三百に      高濱虚子

                                 『虚子一日一句』

  蒲公英の絮吹いてすぐ仲好しに    堀口星眠    蒲公英=たんぽぽ 

                                     絮=わた

                                 『折々のうた 三六五日』

 

 19日の「しんぶん赤旗」の「潮流」欄より、

  始めより我らは棄民青やませ     高野ムツオ (宮城県多賀城市)

  夏草や影となりても生きるべし    高野ムツオ

  

  喪へばうしなふほどに降る雪よ    照井翠 (岩手県釜石市)

  春の星こんなに人が死んだのか   照井翠

 

  この街を出てゆくといふ、をさなごをかばんのように脇にかかへて

                          高木佳子 (福島県いわき市)

  深くふかく目を瞑るなり本当に吾らが見るべきものを見るため

                          高木佳子  

  


よりよい表現のためにー俳句と写真。

2014-03-20 20:43:57 | 本のひと言

 『「生活」とは何か』 という本に写真家・土門拳さんの言葉が紹介されてい

ました。アマチュアの人たちのスランプ克服策についてのアドバイスです。

 

≪「思想の行き詰まりによるもの」については(略)「時代・社会・人間につい

ての新しい見方を自分の中につちかう必要がある。(略) 一言にしていえ

ば、“むずかしいものを読んだり聞いたりする必要がある” ということになる。

いわゆるベスト・セラー的な、通俗的な、やさしいものからは、何の発見も得

られないであろう。」

 「表現技術の行き詰まりによるもの」については「絵を見ることのほうが、

写真をみることのほうよりも、もっと新しい強い刺激を得られることがしばし

ばあるものである。ただ絵も、絵なら何でもいいというわけにはいかない。

やはり本もの、つまり実際の油絵そのものを見なくては、だめなのである。

 (略)なによりもいい音楽を聞くことが一番ではないかと思う。それもでき

れば優れた音楽家のなまの演奏会を聞くのが一番いいだろう。(略)ただ

娯楽的な、気安め(原文ママ)に終る音楽では無駄である。

 (略)スランプがもし思想と技術の両方の行き詰まりからきているならば、

以上に上げた二つの打開のための努力を、あわせしなければならないだ

ろう」≫

 この一文は土門さんの 『写真作法』(ダヴィット社・1969年) からの引用

で、≪≫内の「略」は引用文にあるままです。

 

 写真を趣味にしている人などを念頭においた一文ですが、俳句を詠もうとい

う人にもいいえることと思い、自分への覚え書きとしてここに記しておきます。 


出雲崎と俳句 ー 米寿漁師の句集。

2014-03-19 19:40:22 | kaeruの「おくのほそ道」

■ 奥の細道の旅 (3/18着信)

○現在地  出雲崎に到着

○次の目的地  直江津。

○次の目的地までの距離  25.6km。

○次の目的地までの歩数  34,272歩で達成です。

 出雲崎で俳句といえば芭蕉の名と “荒海や” が挙がるわけですが、それ

はそれとして「出雲崎 俳句」で検索をしましたら、『磯見漁師』 という句集

が紹介されていました。

( http://www2.odn.ne.jp/~chj13670/newsub114.html )

 

 斉藤さんは昨年米寿を迎え今でも一人で海に出る現役漁師です。 斉藤

さんが船を出すのは、俳人芭蕉が「荒海や佐渡に横たふ天の川」の句を詠

んだ越後・出雲崎の海です。

 サイトに紹介されている俳人・黒田杏子さんの「言葉」を転写させてもらいます。

思い出す 亡妻の旧姓 遠花火    斉藤凡太

           花を待つ 追伸多き 戦友(とも)の文    斉藤凡太

 今回、凡太さんに句集をまとめ、出版することをお薦めしたのは私です。86歳現役漁師の句集はめったにないと思います。選者として、この十数年間、身体を張って海上で仕事をされる漁業者の毎週の投句作品に私は励まされました。
 菊地信義さん、石井隆司さん、鈴木忍さん、深津健司さん等多数の皆さんからご協力いただきました。          

              平成24年4月8日 仏生会    まどかな月を眺めながら   黒田 杏子


 また、昨年7月にNHKラジオ深夜便で放送された時の一文も読んでみて下さい。

 ≪斉藤さんは17年前に妻を亡くしてから俳句を始めました。今やその俳句を

生きがいにして、「凡太」という俳号を持ち、著名な俳人・黒田杏子さんからの

評価も高く、地元新聞で多くの句が選ばれています。≫

なお、放送の概要が下記のURLのブログ(「明日への言葉」)で分かります。

http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/07/87.html

http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/07/872.html

 


毎年さ彼岸の入りに……。

2014-03-18 19:25:56 | kaeruの五七五

  毎年さ、彼岸の入りにこの句読む  

 これは正岡子規の “ 毎年よ彼岸に入りに寒いのは ” をもじったものです。

子規の句については 去年の彼岸の入りの日=2012年3月17日の「つぶ

やき」で触れていますので、お手数ですがこれでお読みください。

     彼岸の入り。  2013-03-17 

 

 さて、この句はどうでしょう。

 春の雨居るかといへば居るといふ     巌谷小波(いわやさざなみ)

子規の句の説明に「母の言葉をそのまま詠んでいます」とありますが、これも

日常会話をそのまま使いそこに季語を付けただけです。その「春の雨」がこの

問いと答えのやり取りの人間関係をも言いあらわしています。

 庭先にまわって来て声をかける間柄で、傘をたたみかけながらの声のやり

取りに季語「春の雨」がよく効いています。


ふる里の山は……。

2014-03-17 21:05:01 | どこまで続くかこのブログ

一昨年の10月14日の「つぶやき」に上田の太郎山について書いていました。

太郎山へ愛をこめて。 2012-10-14 

この山については、子どもの頃の印象では冬の山肌は常に雪を覆って

いたのです。しかし、帰郷し初めて気になりだしたのは数十年前ですが、

二月の山肌に雪にないことでした。

 子どもの頃見慣れた山は太郎山の南側でしたが、昨日案内してもらった

真田町 「地蔵温泉 十福の湯」 はこの山の北側をぬけていきました。私

は初めて太郎山の「裏側」を見たのです。そこは雑木林を雪が覆う冬景色

でした。

 

 同じ山でも南側に見せる顔と北に向いている顔の違い、当たり前といえば

当たり前のことですが。 「こちらでは裏太郎とでも呼ぶのかね」 などと間の

抜けた質問をして、自分でおかしな聞き方をするのものだと感じていました。

以前、私たちが小学校の頃だと思いますが、日本海側を 「裏日本」 と呼ん

でいた時がありました、同じように人口が多く鉄道の走る上田(市街地)を中

心にした見方が浸みこんでいたのかと思います。

 

 狭い郷土主義にとらわれていると、地域全体のことが見えなくなり、一種の

優越感とでもいう感覚で自らの視野を狭くしてしまう。だからといって軸足が

どこに置いているのか分からぬような発想だと、右往左往するだけでしょう。

 山の南側にいて北側の姿もきちんと描けることが出来なけれならなかった

のでした。それには北側を見ておかなければならない、たとえ見ていなくても

南側とは違う姿を想像できなければならないわけです。

 

 ふる里の山は、見慣れていただけにそうでない面の存在を教えてくれました。

「ふる里の山は有難きかな」です。


ブログの空白と有意の日。

2014-03-16 22:10:20 | どこまで続くかこのブログ

  本当に久しぶりのブログ空白日となりました。すくなくとも意識がありインターネット

の機能が使えれば何らかの足跡は残した筈なのですが、そうならなかったのは意

識の問題でした。

  完全にダウン状態で兄宅に着くと布団に潜り込んだ、筈なんですが、私のスマホ

にこんな画像がありました。

 これは兄の長男(私の甥)の愛娘で小学校1年生、私の帽子とマフラーを

着けて私の眠気を覚ましに来てくれていたのです。 この子と行動を共にし

て、昨夜だけでなく昨日今日の二日間、まことに楽しくすごせました。

 それに、この「蛙」、

 上田の知人で「kaeruのつぶやき」を見ていて下さる御婦人がいて、

その義弟がつくられ「道の駅 雷電」でも売っているものだそうです。

 記念にということで三兄弟に一組づつ頂きました。これを見ていると

「つぶやき」からもっと大声で「叫び」なさい、と言われているようです。

 その御婦人の案内で駅近くでのこんな集会に兄と私たち夫婦・弟夫

婦が顔を出すことになりました。

 今月30日を投票日にして上田市市長選が行われることになっていました。

金井忠一さんという人は、1995年に市議会議員(日本共産党)に当選し、

19年間活動してきた人だということでした。

 知人は79歳のお婆さん的年齢ですが、この後援会のリーダー的役割で

今日は早くからこの集会の成功のために、打ち合わせを重ねていたそうで、

昼飯にした会場近くの飲食店でも何人もの婦人たちと挨拶を交わしていま

した。こういう人が「つぶやき」を見ていてくれるかと思うと、有難く励まされる

ことです。

 

 昨夜の「宴会」の模様は別に記すとして、今日は上田駅から20Kほど山に

入る「地蔵温泉 十福の湯」に連れていってもらい堪能してきました。

 

 標高975mは雪のなかです。道路は完全に雪なしの状態で朝10時から

の営業開始、10時30分に着いたが満車状態、駐車出来るとこを探しでか

なり時間がとられました。

 この辺は以前は長野県真田町、今は上田市真田町と上田市が入ります。

行政区域の拡大で行政の舵取りが難しくなっていることも、同じ市内でも

雪のまったく無くなっている市街地とこの雪景色を見ると分かります。

 画一的な行政姿勢では住民福祉の役割ははたせません、市長選の行

方も単にふる里だからというだけでなく、注目されることです。

 

 そんなことやらあんな事やらで、ブログの空白日になってしまいましたが、

昨日から今日にかけていたって有意義な日であったと思います。


春泥の里。

2014-03-14 21:33:11 | kaeruの五七五

 春泥(しゅんでい)、季語としてというよりも信州・上田育ちの者には、この

時期の足元の感覚として残っています。完全舗装の道を歩く生活のなかで

も、この季語の俳句にそれを感じられるのは嬉しいことです。

 

  春泥のそのごちやごちやを恋と呼ぶ    櫂 未知子

            (『美しい日本の季語』 三月十四日の句) 

 都会育ちでかなりの年齢になって、俳句に関心を持つようになった人が

この 「ごちゃごちゃ」 をどう受けとめられるでしょうか。春泥を歩く感じから

ではなく、「恋」の「ごちゃごちゃ感」から春泥を感じとるかも知れません。

  恋なのか春泥の道まわり来て    清蛙

 少年であった頃、舗装された道路から土の道へと入り込み、リンゴ畑を

歩いてみたものです、藤村を気取るほどの度胸はありませんでしたが。

 

 明日はその「春泥の里」上田に出かけることになりました。

 三人兄弟の末が、私と兄嫁の喜寿を祝って甥っ子と共同で席をもうけて

くれることになり、夫婦で出かけます。

 そこで、三月十五日の句も、こちらは 『癒しの一句』(ふらんす堂)より。

  昼蛙どの畦のどこ曲らうか    石川桂郎


「なんじゃかんじゃ物語」。

2014-03-13 20:44:03 | どこまで続くかこのブログ

 これに 「きょう放送」 と書かれていいますが勿論きのうの 「しんぶん赤旗」TV欄の一部です。

 最初に観た感想をいいますと、「あれ、こんなに早く終わちゃたの」でした。

上の写真の最後に≪この「昭和の町」は観光スポットとして賑わっている≫と書かれていますが、

その「賑わい」を観たかったのでした。

 

 その 「賑わい」 は豊後高田市のHPにありました。

 

 この写真には説明がありませんが、TV用の場面ではなくある日の「昭和の町」の光景

でしょう、毎日がこんな光景ではないでしょうが。

 下は市のHPのURLですが、

http://www.city.bungotakada.oita.jp/soumu/page_00114.html

全体としてかなり魅力的です、住民の皆さんが至るところで「出演」しています。「昭和の町」

で町づくり運動に参加した住民の姿が、町の正面に顔を出しているという感じです。

 ドラマのなかで古手川裕子扮する市長が自分の父親もこの町の畳職人であったことを回

想する場面がありましたが、上の写真の 「父子関係隠し味」 には、市長の親子関係も含まれ

ているでしょう。

 

 さて、このドラマを観て、今日の「つぶやき」のタイトルが 「なんじゃかんじゃ物語」 と自然

に出てきたのは、ドラマなどに影響を受けやすい性格からきているのか、このブログの性格

の無さの自覚か。いずれにしても商店街というものは物と物のつながりでなく、人と人のつ

ながりが大切なのだという台詞があったような気がして、ブログでもその点は同じだ、と受け

止めたことによるようです。その人と人のつながりも今居る人ばかりでなく、縦世代のつなが

りが、今を支えているという関係です。


出雲崎着の前に。

2014-03-12 20:35:22 | kaeruの「おくのほそ道」

      

 上の写真の左は昨日のもので、隣りは出雲崎にある「芭蕉園」の句碑です。

出雲崎には芭蕉の句碑はここともうひとつあります(妙福寺)が、そこのは

芭蕉の句(荒海や)単独での句碑ではありません。

 アプリが添付している公園と思われるのは「芭蕉園」で間違いないでしょう。

「芭蕉園の句碑」の写真は、全国の芭蕉の句碑をあつめてサイトの「芭蕉園」

の写真で、転写させてもらいました。

(サイト http://www.asahi-net.or.jp/~gi4k-iws/sub85141.html )

 

 芭蕉が出雲崎に向けて新潟を経ったのは元禄二年七月三日(1689/8/17)

その夜は弥彦で泊まり翌四日に出雲崎着となります。出雲崎でのことは着いた時

に触れるとして新潟での話です。新潟に着いた七月二日(8/16)は、当地は祭りの

さなかで、どこの旅籠屋も満員、一部屋に何人も詰め込まれる宿しかななく芭蕉は

困惑していました。見かねた大工の源七の母親が自宅に泊まるよう声をかけてくれ

ます。曽良の随行日記に「大工源七母、情有」と書かれていることです。

 

 金森敦子さんの 『芭蕉「おくのほそ道」の旅』 には市内の寺のこんなことが書かれ

てます。

≪市内の宗現寺と善導寺には、芭蕉が脱ぎ捨てていった蓑を埋めたと言われる「蓑

塚」がある。宗現寺のものは文政十年(1827)の建立。138年も前の蓑が残っていた

とは信じられないし、芭蕉が嵩ばる蓑を持って歩いたとも考えられない。江戸後期に

なると、こうした奇妙なものが各地に建てられるようになるのである。≫ 


出雲崎のどこに立つのだろか。

2014-03-11 16:13:27 | kaeruの「おくのほそ道」

■奥の細道の旅 (3/10着信)

○現在地 新潟に到着

○次の目的地  出雲崎

○次の目的地までの距離  57.3km

○次の目的地までの歩数  76,679歩で達成です。

 地図の隣はアプリに添付され 「出雲崎」 としか書かれていませんので、

出雲崎のどういう場所か不勉強で分かりません。なにか公園の一角で

芭蕉の句碑が立っているという感じです。

 今日はこれから人に会う予定で、帰りは多分深夜になる予定です、で

すから「公園」については明日あたりに……。