一日も早く無罪を確定してほしい。
昨日の「つぶやき」へのワイコマさんのコメントとカエルの返信です、
続報とは「しんぶん赤旗」から、「将棋NHK杯 藤井が初優勝」も文字写しをしておきます。
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将棋の藤井聡太五冠(20)=竜王、王位、叡王、王将、棋聖は19日、栃木県日光市で指された第48期棋王戦5番勝負第4局で渡辺明棋王(38)=名人と合わせ二冠=に勝ち、3勝1敗で棋王を奪取しました。1944年に羽生善治九段(30)が達成して以来、史上2人目の六冠。20歳8カ月での六冠は羽生九段の24歳2カ月を更新する最年少記録です。
将棋の八大タイトルのうち、残るは名人と王座となりました。藤井六冠は4月5日から始まる名人戦7番勝負で、渡辺名人と再び対戦し、最年「七冠」に挑みます。
藤井聡太六冠は、第49期(2018年度)新人王戦(しんぶん赤旗主催)の優勝者です。なお、渡辺明名人は第36期(05年度)の優勝者、羽生善治九段は第1期(1988年度)の優勝者です。
将棋NHK杯 藤井が初優勝 一般四棋戦を制覇
19日放送の第72回NHK杯テレビ将棋トーナメント決勝戦で、藤井聡太竜王対佐々木勇気八段が対局し、藤井竜王が116手で勝って初優勝しました。
これで、2022年度の四つの一般棋戦(将棋日本シリーズ、銀河戦、朝日杯、NHK杯) すべて優勝したことになります。同一年度内に四つの一般棋戦を制覇したのは、将棋界初の快挙です。
藤井竜王コメント
今年度、四つの一般棋戦で優勝できたことをうれしく思っています。早指しなので、決断よく指すことを意識していました。来年度もトーナメントで一局でも多く指せるよう、精進していきます。
藤井六冠の「精進」という言葉に将棋に対する尽きせぬ敬意感謝という思いを深く感じます。
昨日は何年かぶりで、京急横須賀中央駅から文化会館へ歩いて向かいました。病院の帰りは、バスで通るので登り坂であることも忘れていました。歩いて行き来していた頃、その登り具合も気にならなかったのですが、昨日はこんなに急だったかと……、反対側を見て、道の傾斜具合がかなりはっきりしているのです。
以上昨日のこと、以下は今日の坂道の話です。
昨夜妻からの出された予定では「朝のうちに資源ゴミを出して、昼頃家を出て墓掃除して彼岸法要に」と言われてしんどいなーと内心思いつつ「ハイ」と。で、朝目覚めましたら雨、シメタ!ゴミ出し無し寝ていられる(紙類なので雨の時は出せない)。家を出たのは結局1時過ぎ、お墓も雨に洗われているから、花を変えるだけでいいし卒塔婆も持って行くのだから法要の後での墓参りになりました。
ここから坂道の話です。雨のなか花を持ち歩き出したら、妻が花は私が持ちます、と。花を渡したら花を上向にして「こう持つのです」と言わんばかり、私の持ち方をチェックしていたのです。そこで私がチェックすることに、後ろからついて行きました。
いつもこの坂を登る妻の足どりは蛇行なのです、私はまだかなり脚力があるつもりで真っ直ぐ登りで何時も妻のかなり先を歩きます。今回はじめて、雨道につく妻の靴跡に私の足をのせて行きましたら、蛇行ではあるがしっかりした足どりで、歩幅も私より広いくらいで、いつも後ろから登ってくる姿からはわからなかったしっかりぶり。そう言えば義姉が足がしんどくてこの坂が登れないを理由に葉山に来ても墓に行かなくなって二十年くらい経つでしょう。義姉の場合は本人ががんを患っていますし、義兄の介護を中心にした生活が、かなり老をはやめていたと思います。
義姉は妻より4歳うえですから、妻の健脚ぶりは大したもの。私は義姉と同年齢ですので妻の健脚ぶりをさらにこえているわけです。ただし健康ぶりは脚だけで、胃検査を無事に終えたあと妻に「君は出産以外に入院したことが無いね」と、私は改めて妻の健康に敬意と感謝を表したのでした。
寺に着いて法要、日蓮宗の読経等に元気をもらって、墓の両親に花を届け声をかけて来ました。
以上、老いた二人が共に登る雨の坂道の話でした。
今日は遅くなりましたのでタイトル通り、
横須賀の「日本共産党演説会」に行って来ました、の写真を。
どの人が誰は2人だけ、向かって左端「近藤昇一」と「くぼたみき」の葉山町町議選の候補者です。
もうひと言、この資料に「統一地方選挙」と書かれています、あれ?
「いっせい地方選挙」ではない。
遡ってみたら、2015年の地方選挙は「いっせい」となっていました、
が、2019年には「統一」でした。
勝負事といってもギャンブル話ではなく将棋のこと、藤井聡太五冠が名人戦に挑戦することです。
12日に羽生九段の挑戦を退け王将を初防衛した藤井五冠は、すでに8日「名人戦」挑戦を決めています。
その王将戦を紹介するこの「Yahoo!ニュース」のなかで、藤井五冠について、こんな風に評しています。
実は 「相手の桂馬と角の動きはプロでも見落としやすい」 と、 ある棋士が解説で語っていたことがある。 桂馬は唯一、駒を飛び越えて移動できるので、 動きを見落としやすい。さらに、角の斜めの動きというのも、 人間の視覚にとって弱いのではないか。
想像でしかないが、 藤井聡太という男の 「五感」 には、 人類のこうした根源的に弱いとされるような部分は全くないのかもしれない。
羽生九段に対しては、
正月明けに始まった 「世紀の七番勝負」。 ぜひ第7局まで見たかったが、 2カ月余で戦いは終わった。 羽生はこの間も、 今季からB級1組での名人戦順位戦の終盤戦を戦っていたが、 最終成績は6勝6敗で1期でA級に戻ることはできなかった。 だが、 久しぶりのタイトル戦で存在感を十二分に見せたように、 まだまだ光り輝き続ける羽生には、 今後、100期はもちろんのこと、 63歳で名人戦に挑戦した怪物 大山康晴十五世名人 (1923~1992) を目指す戦いを期待したい。
さて名人戦の日程は、
この期間(3月23日県知事選告示〜4月23日町村長議員選投票日)、いっせい地方選挙という勝負事があります
『プロメテウス』を「歴史的伝記小説」と、著者のガリーナ・セレブリャコワ*が呼んでいるのは、この小説が歴史小説(一般的な史実を背景にした小説)と伝記小説(個人の一生の事績の記録小説)をかねあわせた小説という意味だと、訳者の西本昭治氏が「解説」で述べています。
私の本棚には、
こんな風に16冊が並んでいますが、いま全巻を並べると、
こうなるようです。
なぜ『プロメテウス』と名付けられたか、「プロメテウス」とは何者か。それについては、
プロメテウスとはギリシア神話の英雄の名である。大神ゼウスを欺き火をぬすんで人類に与えたために、怒ったゼウスは彼をカウカソス山上の巨岩に縛りつけ、その肝臓を毎日鷲に食わせた。しかしプロメテウスの肝臓は、食われるあとから新しく再生した。プロメテウスはゼウスの王位の安泰に関する秘密を知っていたのだから、もしゼウスに対する反抗をやめ、ゼウスに服従する気になり、その秘密をゼウスにもらしてやりさえすれば、いつでもこの責苦からのがれることができるはずだった。しかしプロメテウスは、自分の正義を知るがゆえに、また来たるべき解放を知るがゆえに、そうしなかった。
このプロメテウスの形象は、不当な苦痛に堪える不屈さ、あるいは圧制者に対する反抗の象徴として、また人類の先駆者として一身を犠牲にしてまでも人類に奉仕し、幸福をもたらすためにたたかう者の姿としてとらえることができよう。ギリシア三大悲劇詩人の第一人者アイスキュロス(前五二五〜四五六)に『縛られたプロメテウス』という作品がある。この作品は、このプロメテウスの形象を芸術的に定着させた壮大な作品であるが、フリードリヒ・エンゲルスと協力して科学的社会主義=共産主義をきずきあげたカール・マルクスは、この作品に深く傾倒し、本書(第三分冊)にも引用されているとおり、その学位論文 『デモクリストとエピクロスの自然哲学の差異』の序文は、「プロメテウスは哲学の歴史におけるもっとも高貴な聖者であり殉教者である」ということばで結ばれている。マルクスがこのプロメテウスを人類の敵とたたかう化身とみなし、このような人間になろうと努力したことは、若き日の右の論文からみてとれるのであり、また事実マルクスは、プロメテウスになったのである。
『プロメテウス』の表紙には、
この絵はこちらを写したものです、
この絵へのコメント、「リス」は絵の左上の隅に描かれています、
さてレンヘンとタッシーについてです、これも『プロメテウス』の訳註を記しておきます。
レンヘン
へレーネ・デームート(1820〜90)。マルクス家の家政婦。カール・マルクス死後は、エンゲルスの家政婦。愛称レンヘン、ニム、または二ミー。
タッシー
エリナ〔エレアーノル〕・マルクス=エーヴリング(1855〜98)。愛称タッシー。カール・マルクスの末娘。1884年以後エドワード・エーヴリング(1851〜98)の妻。イギリスならびに国際労働運動で活動。(エレアーノルはドイツ語読み、エリナは英語読み。)
昨日はマルクスの最後の姿を記しました、今日はエンゲルスの終焉の時を、
エンゲルスは、自分が一生をささげ尽くした世界の人びとの、未来に思いをめぐらして憩いながら、彼らの強力な闘争と勝利の行進を心にえがいた。革命、自然力のなかでもっとも強力な自然力、思想・意志・闘争の自然力が、 どっさりのものを掃きのけながら、世界を改造しつつあった。 不幸な人びとが幸福になりつつあり、 よろこびが凱旋のらっぱのように鳴りひびいていた。
ときおり苦痛が意識を鈍らせたが、しかしエンゲルスは苦痛に屈せず、抵抗した。 彼の苦しみをやわらげるために医師たちは麻酔剤を用いたが、うとうととまどろみながらもエンゲルスは思考することをやめなかった。ゲーテのことばが思いだされた。
財を失うこと――これはいくらかを失うことだ。
名誉を失うこと――これはおおいに失うことだ。
勇気を失うこと――これはすべてを失うこと
生涯エンゲルスは恐れを知らず、そのような人として自分の最期を迎えた。
一八九五年八月五日、午後十時三十分、 エンゲルスは、枕べにきらめくろうそくの光を最後に見た。時計がうつろに、冷ややかに彼の生涯の最後の瞬間を測った。エンゲルスの目のなかでぱっと火が燃えあがり、その目は永久にとざされた。短いほの白い夜がすぎた。東から、赤紫の、燃えさかり万物を照らす、太陽がのぼった。
一九六五年
この176ページが著者ガリーナ・セレブリャコワが1934年に書きはじめ1965年に書き終えた最終のページです。
3月14日は毎年きます、140年前の3月14日のことです。
この本、
のここに、
そのことが書かれています。
「三月十四日、マルクスは〜」を写しておきます。
三月十四日、マルクスはとても気分よくめざめた。彼はおいしそうにぶどう酒と、牛乳と、スープをすすった。自然は、さいごに、残った力をだし、死の直前にはよくあることだが、ひとときだけ、まやかしの全快をにおわせた。明るい希望に家じゅうがつつまれた。 レンヘンはすぼめていた肩を張った。タッシーはひさびさに顔をほころばせた。
しかし急に状態が一変した。 ごぼっとマルクスは血を喀いた。みんなおろおろし、うろたえ、泣きだした。病人だけが冷静のままだった。寝て呼吸するのが苦しかったので、近親者たちが彼を、火の燃えつづけている暖炉のそばの、黄色い縞の横うね織り布を張った大きな安楽いすにすわらせた。 血を失ってひどく弱ったマルクスは、まどろんでいるようだった。レンヘンは彼の休息を破らないように気をつけながら、柔らかいスリッパをはいてエンゲルスを迎えに下へ降りていった。午後三時ちょっと前だった。
「病室におはいりください。いまうとうとなさっています」と彼女は小声で言い、親友を先へ通した。
エレアーノルも彼女につづいて病室に忍び足ではいった。マルクスは、二分前ヘレーネがへやから出ていったときとおなじように、いすの背にもたれ、すわっていた。まぶたは閉ざされていた。安らかに落ちついた、思索にふけっているような、 幸福そうな顔だった。
マルクスは永遠の眠りについていた。
『人類は頭一つだけ低くなった。しかも人類が今もっていたもっとも非凡な頭一つだけ』とエンゲルスは戦友たちに書いた。
この本のことやレンヘンとかタッシーなどについては明日触れます。
なにやら不安を抱きながらの検査でした。
先日診療所の検査での打合せで、私は腹が時々痛むとか吐き気がするとか言い、妻は私が少食になって気になるなどと言います。昨夜も風呂に入ると臍のうえあたりに痛みが……、といううえでの検査でした。
案ずるより産むが易し、で今日の検査結果は綺麗なもので医師も写真の説明をしながら「問題ありません」と。少し気の抜けた感じで戻って朝食抜きだった腹に飯を送り込みましたら、眠くなり一寝入り……。
胃の検査はこれで3回目のようです。「つぶやき」をさかのぼってみましたら、2016年の10月に「胃カメラをのむ」、翌年9月には鼻から「胃カメラ」と、その時「あと、2、3年後に」とあります。するとこの間にもう一度検査が入っているのかもしれません。妻もこの前は2年前だと言います、でも「つぶやき」には入っていません。
2017年から2023年の数年間は、自分の身体以上に娘の介護が中心にありながら自分の身体にとっても波瀾万丈の時期でした、まさに80歳代に入っての転換期だったのです。そう考えると今回無事通過ということは、それなりの安定期に入ったのかとも思えてきます。この安定は、心配性の妻への何よりの恩返しになります。
今まで胃カメラと言ってきたのでしたが、これは正確ではないとのこと。正確には内視鏡だとのことでした(これはネット情報)。