花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

【むろさんさん寄稿】「NHK BS世界のドキュメンタリー「疑惑のカラヴァッジョ」を見ての感想」(2)

2020-06-04 16:40:58 | テレビ

「NHK BS世界のドキュメンタリー「疑惑のカラヴァッジョ」を見ての感想」【むろさんさん寄稿】(続き)

2.調査方法が適切か 必要な調査は実施されているのか
今回の番組で紹介されていた調査は「これから絵を高く売ろう」という立場での調査研究であり、そのために都合のよいことだけを出しているのではないかということを感じました。私は最近Ermanno Zoffili編著 THE FIRST MEDUSA / LA PRIMA MEDUSA CARAVAGGIO, (英語・イタリア語併記)Milan ,2011 という本をじっくり読む機会がありました。2016年の西美カラヴァッジョ展及び2019年札幌・名古屋のカラヴァッジョ展に展示されたメデューサの楯第2バージョン(Murtola Medusa)についての調査研究報告書で、メデューサの神話的背景、ウフィッツイのメデューサの楯とともにどんな背景で描かれたか、科学的方法による分析結果などについて述べられています。このメデューサの楯の研究は所有者が売るのが目的ではなく、真筆かどうかを明らかにするために調査を行ったものです。この調査研究では顔料や下地塗り材料の化学分析やフォールスカラー(偽赤外線)分析を行っていますが、テレビ番組のトゥールーズのユディトの調査ではそういう分析の話が出てこなかったので、都合の悪い結果が出そうな調査はやらなかったか、やっても公表しなかったのではないかと勘ぐりたくなります。
テレビ番組では絵の表面からはがれたという顔料の分析のシーンもありましたが、それは後に補筆した部分の顔料ということでした。当初部分は物理的に採取できなかったのか、あるいは敢えて採取しなかったのかは分かりません。

Zoffili の本に出ているMurtola Medusaの顔料分析結果は、それまでに分析結果が報告されているカラヴァッジョの真筆作品15点と比較して一覧表にされています。対象となる顔料物質の種類は20種及び下地塗り材料2種です。その結果は、①Murtola Medusaにもカラヴァッジョの他の多くの作品に使われている典型的な物質が使われている。②Murtola Medusaの下地はCALCITE(石灰)であり、他の多くのカラヴァッジョ作品と同じであるが、ウフィツィの MedusaではGESSO(石膏)下地であり、現在分析結果が知られている作品ではボルゲーゼ美術館の「蛇の聖母」(パラフレニエーリの聖母)と2点だけである。これらの結果からMurtola Medusaがカラヴァッジョの真筆であるかどうかの判定はできませんが、こういった分析結果のデータを蓄積していくことが重要です。

Murtola Medusaの画像診断としては、通常のX線撮影や赤外線反射撮影の他に赤外線フォールスカラー合成デジタル撮影、紫外線蛍光カラーデジタル撮影、実体顕微鏡デジタル撮影などが行われています。このうち赤外線フォールスカラー合成デジタル撮影は赤外線画像の特定の波長域を別の色調(すなわち false color/偽の色)に置換処理したもので、可視光下では同系色にみえる2種の顔料が異なる色調で表示されることもあり、技法分析に役立つとのことです。芸術新潮2019年12月号掲載のウフィツィ美術館のキリストの洗礼(ヴェロッキョ工房とレオナルド・ダ・ヴィンチ作)の調査報告では、ヨハネとキリストの肉体は全く異なる顔料で描かれていることが分かるとされていて、現在の画像診断方法の中ではかなり有力な方法と思われます。トゥールーズのユディトが今後METに入るのならば、こういった調査が徹底的に行われ、結果が公表されることが望まれます。

3.今回の絵の購入方法と寄贈について
番組の最後の方で、オークションではなく通常の取り引きにより売却が決まったこと、その裏にはアメリカの富豪とMETのキース・クリスチャンセンが関与していたことが明かされていましたが、これを見て思い出したのは、昔ワシントンNGがジネヴラ・デ・ベンチの肖像を手に入れた時の話です。
かなり昔に新聞で読んだ記事ですが、これが深く印象に残ったことがルネサンス美術に関心を持つことになったきっかけの一つなので、その内容は今でもよく覚えています。
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵について、ヨーロッパの主要大国(英仏独ソ)にはあるのにアメリカにはないということで、アメリカの美術館関係者や支援者は皆レオナルドの絵を手に入れたがっていたが、リヒテンシュタイン公国の王室コレクションから絵が売却されるという情報があったため、ワシントンNGの関係者が極秘に徹底的な調査を行い、真筆という確信が得られたので、購入することとした。アメリカへの運搬は飛行機で行い、絵のために一人分の座席を準備して運んだ。価格は当時の絵画取り引きの最高額であった。資金の提供者はメロン財閥で、すぐに国家に寄贈し、絵にはポール・メロン氏寄贈の銘板が付けられて名誉が与えられ、また寄贈者には税の控除があり、国家(ワシントンNG)にはただでレオナルド・ダ・ヴィンチの絵が手に入って、めでたしめでたしということです。
(ジネヴラ・デ・ベンチの肖像はボッティチェリの絵とともに、ワシントンNGへ行ったら真っ先に見たいと思っていた絵です。1月に代官山で開催された「没後500年記念夢の実現展」での腕の部分を追加した復元模写も興味深く拝見しました。)

今回のテレビ番組の中で言われていた、美術館関係者からは誰も購入希望者が出てこなかったということが、このトゥールーズのユディトについての専門家の評価を象徴的に示していると思います。カラヴァッジョの真筆として美術館が購入するには疑問点が多すぎてリスクが高いと判断したということです。購入希望者はアメリカの富豪ただ一人、そしてその裏で動いたのがMETのキース・クリスチャンセン。オークションの予想価格よりも低い値段で取り引きが成立したはずですから、これは購入後の調査でカラヴァッジョの真筆と判定されれば「お得な買い物」となり、METの展示室に寄贈者の名前も載って大きな名誉が与えられます。真筆ではないフィンソンか誰かの作となれば金銭的な評価は桁違いに下がってしまい、寄贈者もあまり注目されません(大騒ぎになった絵の寄贈者として名前は残るでしょうが)。大きな賭けですが、アメリカの富豪というのはリスクを取る投資家・企業家でもありますから、その辺は承知の上でスポンサーになっているはずです。クリスチャンセンも、うまくいけば高い評価が得られる、ダメでも自分のふところが痛むわけではない、ということです(学者としての評価がどうなるかということはありますが)。

4.トゥールーズのユディトの作者判定に関しての個人的感想
以下に述べることは番組を見終わってから考えた全くの素人の思いつきです。美術史的な裏付けも何もない空想ですが、こういう感じ方もあるということを知っていただければと思います。
(上で述べたモレッリ方式の判定とか科学的分析のことは別にしても)私はこのトゥールーズのユディトはカラヴァッジョの真筆ではないと思いました。私には番組中で「バルベリーニのユディトの表情には人を殺すことへのためらいがあるが、この絵のユディトは冷酷な殺し屋のように見える」という趣旨の解説がとても気になりました。最近名古屋のカラヴァッジョ展に来ていたボルゲーゼのダビデとゴリアテを見て感じたことですが、首を切られたゴリアテの側はカラヴァッジョの自画像として自分の犯した罪への反省とか後悔とか恩赦への期待といったことがよく語られていますが、首を切ったダビデの側にも何か複雑な感情、単なる勝利者としてカラヴァッジョが表現しなかった理由があるように思います。ルネサンス時代のドナテルロ、ヴェロッキョ、ミケランジェロのダビデとは違うもっと複雑な感情を表現できる能力をカラヴァッジョが持っていた、あるいはルネサンスという特別な時代(15世紀後半のイタリアは戦争がほとんどなかった史上まれに見る時代だったので、そこにルネサンスの花が開いた、と考える研究者もいます)とは違う、イタリアにとって苦難の時代にローマという競争の厳しい世界で生きていたカラヴァッジョが感じ取って表現したものかもしれません。メデューサの楯にしても、メデューサは単なる化け物ではなく、妖怪にならざるを得なかった深い意味(悲しみ)がある(もとは髪の毛がきれいな絶世の美女だったのに)。そしてカラヴァッジョはこういう殺す側と殺される側双方の持つ悲しみを理解し表現することができた画家ではないかと番組を見て感じました。だから、単純な殺し屋としか表現できていないトゥールーズのユディトはカラヴァッジョの真筆ではないと感じています。カラヴァッジョとカラヴァッジェスキの作品で同一主題を描いたもの(いかさま師、ダビデとゴリアテ、聖マタイの召命など)で比べてみると、その表現力の差は理解できると思います。