国立西洋美術館のショップに、なんと!6月30日発売予定日の『リ・アルティジャーニ―ルネサンス画家職人伝―』が置いてあった。
で、早速チェックしましたよ~、アントネッロ編をね。
で、飾られていたのは、ペトルス・クリストゥスの部屋ではなく、コラントニオ先生の工房だった。でも、やっぱり似ているよね~!!
ヤン・ファン・エイク《アルベルガティ枢機卿の肖像》(1431/35年頃)ウィーン美術史美術館
国立西洋美術館のショップに、なんと!6月30日発売予定日の『リ・アルティジャーニ―ルネサンス画家職人伝―』が置いてあった。
で、早速チェックしましたよ~、アントネッロ編をね。
で、飾られていたのは、ペトルス・クリストゥスの部屋ではなく、コラントニオ先生の工房だった。でも、やっぱり似ているよね~!!
ヤン・ファン・エイク《アルベルガティ枢機卿の肖像》(1431/35年頃)ウィーン美術史美術館
で、なるほど、ミケランジェロはレオナルドに対してライバル意識が強かったのかもしれませんね(;'∀')
でも、システィーナの天井画も最後の審判も、レオナルドへの対抗心抜きで、多分イヤだったと思います。しかし、教皇命令だし完璧主義だからやらざるを得なかった、というような気がしますね。
>パラゴーネの観点からベッリーニは対立を避けた
デューラーも褒めていますが、ベッリーニは人間ができていますからね。初期のベッリーニは義兄マンテーニャから多くを学び、後に方向性は違って行っても、やはりファミリー意識は強かったような気がします。
リ・アルティジャーニの第14回で、マンテーニャが油彩画を描かないことについて、レオナルドが「マンテーニャは油彩に嫉妬しているのではないか」というシーンがあります。ミケランジェロの場合は、油彩画は何度でもやり直しがきくし、時間をかけていつまでも描いていられるので、レオナルドのような女々しくて暇な奴がやるものと考えたのだと思います。
リ・アルティジャーニはフィレンツェで油彩画が始まる直前のフィリッポ・リッピの頃やヴェロッキョ工房で油彩画を描き始めた頃から始まり、途中の北方絵画からの影響と油彩画の可能性を(そして「油彩のヴェネツィア派」への発展の予感も少しだけ)見せて、最後の「職人」としてのレオナルド、ボッティチェリらの言葉で終わっていますが、今回1530年代頃のミケランジェロの思いについて考えたことによって、この一本道だけではなかったと思うようになりました。この頃のタブローはほとんど油彩画になっているので、確かにミケランジェロの考え方は少し特殊だと思います。ミケランジェロ崇拝者であるヴァザーリでさえ油彩画を描いています(例えば1966年のフィレンツェ洪水で被災したサンティ・アポストリの「無原罪の御宿りの寓意」)。しかし、この頃ではミケランジェロは並ぶ者のない神の如き存在として美術界に君臨していたわけですから、そのことと油彩画全盛ということをどう考えたらいいのか、まだ結論は出ていません。なお、ヴァザーリはセバスティアーノ伝で書いたミケランジェロの言葉やエピソードをミケランジェロ伝の方では書いていないので、この点についてはあまりあからさまに書かないように遠慮したのかもしれません。
そして、これに関連して、今ベネデット・ヴァルキのパラゴーネ(中央公論美術出版2021)を読んでいます。以前のコメントでここまでの本は読まなくてもいいだろうと書いたのですが、単なる不和とか対抗意識だけでは解明できないし、メデューサの楯などでカラヴァッジョにもつながってくること(レオナルドと同様カラヴァッジョもフレスコ画が描けない)ですから、もう少し調べていこうと思っています。なお、この本の中の解説でマンテーニャとジョヴァンニ・ベッリーニの関係に触れている部分があり、パラゴーネの観点からベッリーニは対立を避けたそうです。
まず、ラファエロ作ガラテア(ローマのヴィッラ・ファルネジーナ)に関する小林明子氏の論文から、この絵の源泉がオウィディウスの変身物語やポリツィアーノのジョストラだけでなく、ピエトロ・ベンボのアゾラーニ(邦訳アーゾロの談論 ありな書房2013)から示唆を受けて作成されたこと、セバスティアーノ・デル・ピオンボが隣に巨人のポリフェモスを描いているが、当初はガラテアもセバスティアーノに依頼されていたことなどが論じられています。セバスティアーノ・デル・ピオンボのことも詳しく知りたいと思い、中央公論美術出版のヴァザーリ美術家列伝第4巻2016のセバスティアーノ・デル・ピオンボ伝(越川倫明解説)も読んでみました。これによれば、セバスティアーノは1531年に教皇庁尚書院の鉛封印官に任ぜられ、ピオンボという名前もそのためだそうです(piombo鉛、piombare鉛の封印をする)。この職は実入りのよい閑職で、チェッリーニも望んでいたそうで、チェッリーニの自伝(岩波文庫 上巻)によれば、教皇はチェッリーニに対し「お前に鉛封印官の役職を与えると彫刻の仕事をしなくなる」と告げ、セバスティアーノを任官しているので、この仕事が給料のよい閑職であることは周知の事実だったようです。
そして、このセバスティアーノ伝で特に注目したのが「セバスティアーノは教皇を説得して、システィーナ礼拝堂の最後の審判をミケランジェロに油彩で描かせようとして壁面の準備をしたが、最後になってミケランジェロは『フレスコ以外では描かない』『油彩などというものは女のやること、セバスティアーノのようなひまな怠け者のやることだ』と言い放ち、セバスティアーノの準備した下地を剥がさせ、フレスコ画用の下地が塗布された」という部分です。
新たなフレスコ画用下地のための煉瓦の支払い記録(1536年)が残っているので、これは事実のようです(システィーナ礼拝堂を読む 河出書房新社2013越川倫明、甲斐教行他)
これを読んでまず思ったのが、ミケランジェロはタブローでは油彩画を描いていないのかということ。確認したら、ウフィツィのトンド・ドーニは板にテンペラ、1503~06年頃。LNGのマンチェスターの聖母も板にテンペラ、1501~03頃。同じLNGのキリストの埋葬も板にテンペラ、1510頃。後の2枚は基本構想がミケランジェロで、仕上げは弟子です。1503~10年頃のフィレンツェ、ローマではほとんど油彩画となっていて、旧世代画家のボッティチェリでも1500年頃のフォッグ美術館神秘の十字架像はキャンバスに油彩です(1501年銘のLNG神秘の降誕や同じ頃の聖ゼノビウスの奇跡連作は板にテンペラなので、両方描いていた)。レオナルド・ダ・ヴィンチは1470年頃のヴェロッキョ工房の時代からほとんど全て油彩画(キリストの洗礼ではテンペラ部分がヴェロッキョか別の弟子の手、油彩部分はレオナルドの手)。そして1470年代ではヴェロッキョ工房だけでなく、ポライゥオーロ工房でも部分的に油彩を使い(LNGの聖セバスティアヌスの殉教)、ボッティチェリより古い世代のウッチェロも1470年頃にはLNGの聖ゲオルギウスで油彩を使っていて、1503~10年頃に油彩でなくテンペラというミケランジェロの方針は際立っていると感じます(LNGの2枚では弟子にもテンペラで描かせているので徹底していると思います)。
何を言いたいのかというと、「油彩などというものは女のやること」というのはレオナルドのことを指していて、「セバスティアーノのようなひまな怠け者のやること」というのも本当はレオナルドのことなのだと感じました(鉛封印官になったセバスティアーノが絵を描かなくなったという話が有名なので引き合いに出した)。最後の審判を描き始めたのはレオナルドの没後20年近く経過しているので、ミケランジェロの対抗心、反発というのは相当根深いとここでも思いました。以前のコメントでミケランジェロからベネデット・ヴァルキへの手紙で「ある人物が書いた美術論は自分の所の下男でも書ける程度の内容」と書かれていて、レオナルド没後20年ぐらいの時点でもレオナルドへの対抗心を持っていると書きましたが、それと同様です。なお、このヴァルキへの手紙について、前コメントでは裾分一弘「レオナルドとミケランジェロ―その不和について」(イタリア学会誌18号1969)を読んでそう書いたのですが、「ミケランジェロの手紙」(岩波1995)の該当部分の注釈ではカスティリオーネの廷臣の書としています。どちらが正しいのかについて、カスティリオーネの本の邦訳(「カスティリオーネ宮廷人」東海大学出版会1987)があるので現在取り寄せ中です。(続く)
>修復前は聖母がベールをかぶっていた
ウッチェロの聖母子、ベールは私も😲です!!
>伊語版、英語版の出版は十分ありうる話
イタリア人(日本在住歴有り)にZoomでこの本を見せたら、イタリア語版も出ているのか?と尋ねられました。伊語版・英語版も期待されますね。
前コメントで書かなかった感想を少し追加しておきます。
印象に残ったシーンはいくつかありますが、連載12回でリッピの工房にいる少年時代のボッティチェリが「もしかしてオレってすごい時代に生きてんのかもな」と呟くシーンもその一つ。その後のフィレンツェの春―ボッティチェリにとっての栄光の日々―を予感させるシーンです。
そして、前コメントで、ヤマザキさんは惣領冬実の「チェーザレ」を意識しているだろうと書きましたが、辻邦生の春の戴冠も意識していると思います。春の戴冠の前半はボッティチェリにとってはメディチ家のロレンツォによる栄光の日々、そして後半はメディチ家の失脚、フランス軍のイタリア侵攻とサヴォナローラの神権政治という混乱と挫折の時代です。しかし、これらについてもリ・アルティジャーニでは描かれないので、フィレンツェ一の美女シモネッタもロレンツォの弟ジュリアーノも登場しないし、ボッティチェリの代表作プリマヴェーラやヴィーナスの誕生、システィーナ礼拝堂壁画制作でのローマ派遣などに触れることもありません。連載29回(最終回)でボッティチェリがつぶやく「わたしにはマザッチョやウッチェロのように規格外になる男気はなかった」、「流行に身をゆだねることで安心がしたかったのだ」、そしてレオナルドの「我々は時代に欲されたに過ぎない」という言葉。若い頃の修業時代から、途中の栄光と挫折の日々を飛ばして晩年のこれらの言葉へとつなげることで作者のメッセージがより明確になっていると思います。
漫画の絵として気に入ったのが、年を取ってからのフィリッピーノ・リッピの表情です(実際には44歳頃)。ある程度年を取ってからの自画像や肖像画は残っていないようで、現存する代表的な自画像は、カルミネ・ブランカッチ礼拝堂の聖ペテロの逆さはりつけの右側、皇帝ネロの右の方(右端)に描かれたもの(20代半ば頃)ですが、この顔を少し老けて落ち着いた状態にしたものとしてよく描けていると思うし、誰からも愛され、母親ルクレツィア思いであったフィリッピーノの性格をよく捉えているように思えます。
ボッティチェリについては、フィリッポ・リッピの弟子の時代(10代半ば)、サン・ルカ画家組合加入時(27歳)、晩年(56歳)の3回登場しますが、27歳時点の連載2回目ではヴァザーリやロレンツォ豪華王が伝える陽気な性格をよく現わしています。一方、晩年はいろいろな事があり過ぎて、性格描写はかなり難しいと思います。サヴォナローラ事件の他にも、かつての弟子フィリッピーノの方が売れっ子になっていることへの複雑な思い、工房が怠け者のアカデミーと呼ばれて暇人の溜り場になっていること(仕事が少なく借金が多くても、都市生活を謳歌している老人?)などです。また、ローマにいたミケランジェロからの手紙の取り次ぎをしたり、ダヴィデ設置場所審議会の委員をやったりして、社会的にはある程度の尊敬は受けていたということもあります。レオナルド、フィリッピーノとの3人で会話をするシーンで、穏やかに過去を回想する老人という表現にしたのはある意味当然だったと思います。とんぼの本の対談記事で池上氏はフィリッピーノが年老いたボッティチェリを支持し続けていると述べていますが、実際には上記のような自分より売れていることへの複雑な思いもあっただろうし(当然かつての弟子の活躍を喜んでいるとは思うが、ボッティチェリもまだ現役の画家なので注文の競合もあった)、この3年後には12歳年下のフィリッピーノの方が先に亡くなります。この死に際してボッティチェリは何を思ったのか、これも最晩年のボッティチェリの心の中の大きな出来事の一つとして気になるところです。なお、フィリッピーノの母、あのルクレツィアの最後の記録がフィリッピーノ没時(ルクレツィアは70歳ぐらい)だそうで、その後母の記録はないそうです。
今回のとんぼの本の対談で、ヤマザキさんは描きたかったことの一つはウッチェロと言ってますが、ダブリンの聖母子を引用したエピソードは面白かったし、また、貴ブログでも書かれているジョットのパドヴァの絵(ユダの接吻)とウッチェロのサン・ロマーノの戦いで、ともに槍が林立する場面を並べたのは、さすがヤマザキマリだと思いました。(なお、ダブリンの絵、修復前は聖母がベールをかぶっていたのですね。知らなかった。下記URL)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Madonna_di_dublino_prima_del_restauro.jpg
https://commons.wikimedia.org/wiki/Paolo_Uccello_catalogue_raisonn%C3%A9,_1971
また、単行本収録の対談で、池上氏は「この本はイタリア語で出して読んでもらうべき」といった趣旨の発言をしています。春の戴冠の単行本が出た時も同様のこと(イタリア人が読んでも驚くような詳しい内容)が書評で書かれていました(永井三明 文芸展望19「壮大なフィレンツェ文化史」。後に「作家の世界 辻邦生」に再録1978年)。春の戴冠は非常に長い小説であり、伊語や英語版を作っても(翻訳の手間と売れ行きの関係で)採算は取れないだろうから実現不可能と思いますが、このリ・アルティジャーニはセリフも少ないし、世界的に人気のある「日本のマンガ」なので伊語版、英語版の出版は十分ありうる話だと思います(ヤマザキ氏本人が伊語訳をしてもいいでしょう。既に企画は進んでいるかもしれませんね)。その時はチェッキ氏、ネルソン氏、ライトボーン氏などボッティチェリ、フィリッピーノ、マンテーニャなどの本を出している専門家にも内容を見てもらい、意見が反映できたらもっと素晴らしいものになると思います(妄想です)。
で、私的にはこの本のように、ペトルスとアントネッロがイタリアで会って欲しいですね(;'∀')
論難されていたみたいですね。ヴァザーリが書いてしまった話だから、否定するのにも力がいるということでしょうかね。
ヤマザキマリさんと池上英洋先生の対談でも、ペトルス・クリストゥスがイタリアに来たかは「美術史家の間でも意見が分かれる」けれど、何らかの接点があったと考えられる、と言ってます。
>アントネッロ がどこでフランドルの油彩技法を学んだか?
多分、フランドルの油彩技法は、バルテルミー・ディック→コラントニオ→アントネッロへと伝わったのでしょうね。
この本の中で、ルネ・ダンジューに随行してナポリに来たバルテルミー・ディックがルネ(レナート)からヤンの《聖痕を受ける聖フランチェスコ》を借り模写したものを、コラントニオ先生が持っている設定がありました。アルフォンソ5世の代、ナポリに招聘された(ここはフィクション)ペトルス・クリストゥスに工房でその模写作品を見せるという興味深いシーンがあり、更に、ペトルスがアントネッロに油彩メディウム調合を手ほどきするシーンも登場。コラントニオ工房にはアルベルガティ枢機卿似の肖像画もあり、北方絵画への憧憬が溢れる工房でした(*^▽^*)
ちなみに、私的にもロヒールやメムリンクが登場しなかったのは残念でした。
この作品の中で私的におおっ!と思ったのは、ウッチェロ《サン・ロマーノの戦い》がスクロヴェーニ礼拝堂ジョット《ユダの接吻》の影響を受けたというシーンでした。遠近法的に、そーかぁ?!、という驚きがありましたね。
で、ヤマザキマリさんと池上英洋先生の対談も興味深かったですよね。確かにトリビア色々(絵画ファンも知っているけど(^^;)で楽しませてくれましたし、歴史物語的ストーリー展開も面白かったです。
ちなみに、マンテーニャは偉そうで良いのです(笑)。考古学と銅板に力を入れたい、と言ってましたが、銅板も確かに!で、版画流通もしてますしね。
で、私的に疑問を入れさせてもらえれば、ペトルス・クリストゥスの奥さんの名がエリザベトになっていましたが、ゴーディシーヌ(Gaudicine)だと思うのですがね??
https://nl.wikipedia.org/wiki/Petrus_Christus
×>ナポリ王ルイ・ダンジュー
○>ナポリ王(イタリアに遠征したが王にはなれなかった)ルネ・ダンジュー
あと1994年にメトロポリタン美術館であった
Petrus Christus : Renaissance master of Bruges(URL)
のカタログの61Pでは、クリストスのミラノ就職(スフォルツァ家の文書)は文献解釈 読み取りの間違い・別人で、否定。コラントニオ先生が初期ネーデルランド絵画を研究模写していたので、その関係は間違いないが、他はあやしい話ばかり、という辛辣な記述がありました。
当方は、ナポリでナポリ王ルイ・ダンジューに仕えたバルテルミー・ダイクが伝えたのかな、と思っておりました。
全話を一気に読んでみて感じたことを書きます。
まず、ヤマザキマリさんはやはりボッティチェリが好きなんだなあということ。2016.1月の連載第1回が(第一特集は江口寿史ですが)第二特集のボッティチェリの直前のページがリ・アルティジャーニのボッティチェリの話からスタート。これはあきらかに連動していますね。ヤマザキさんは確か「偏愛ルネサンス美術論」でもボッティチェリのパラスとケンタウロス(ウフィツィ美術館)が好きで、フィレンツェ留学時には何度も模写したということを書かれていたと思います。そして、ラーマ家の三王礼拝図(ウフィツィ)の右端に描かれたボッティチェリの自画像を(他のどの登場人物よりも)さらに格好よくイケメンに描いて登場させています。その号の「偏愛ルネサンス美術論」広告でもボッティチェリのことを「漫画的な輪郭線を描いた画家」としているので、三巨匠と比べても愛着を持っているのでしょうね。
そして、この第1回でボッティチェリに「フィレンツェ一の美しい聖母を描くために、そのモデルにしたい絶世の美女に会いに行く」というセリフを言わせています。このセリフは連載第4回(フィリッポ・リッピの工房での少年ボッティチェリの話)で、リッピからの「表情のない冷たい仮面のような聖母とべっぴんの(若い妻である)ルクレツィアの聖母と、お前なら毎日どちらを拝みたくなるか?」「人気の職人になりたいんだったら、美人をうまく描けるようになれ!」という言葉とがつながっていると感じました。ボッティチェリはそれを見事に引き継いだというのは言うまでもありません(但し違うのはボッティチェリは女好きにはならなかったこと)。
時は流れて最終回とその前の回(2021.3月と6月)。レオナルドの聖アンナのカルトンをサンティッシマ・アヌンツィアタで公開しているので1501年(ボッティチェリ56歳、レオナルド48歳、フィリッピーノ44歳)。1498年にサヴォナローラが処刑され、ようやくフィレンツェも落ち着きを取り戻した頃で、ボッティチェリは同年にLNGの神秘の降誕を作成。26歳のミケランジェロはローマでピエタを作成後、1501年頃にフィレンツェに戻ってきて、そろそろダヴィデに取り掛かる時期であり、1504年に完成して、ボッティチェリ、レオナルド、フィリッピーノはダヴィデ設置場所審議委員会の委員となり、その1504年にフィリッピーノは病気で師のボッティチェリよりも早く亡くなる、といった時期です。2021.3月のコメント投稿で私は最終回の話を予想して、ダヴィデ設置場所審議委員会の情景と晩年のボッティチェリがベッロズグアルドの別荘付近から過去の栄光の日々を回想するということを想像したのですが、実際の最終回はもっとあっさり、ボッティチェリ、レオナルド、フィリッピーノの3人が会って「我々は時代を象った職人だった。それだけのことなのだ」というレオナルドの言葉で終わっています。全話を通して読んでみて、今はこの終わり方で良かったと思っています。結局アルティジャーニということに特化した内容であり、この時代にも多かった権謀術数、争い事や不和(レオナルドとミケランジェロなど)は一切表現していません。サヴォナローラ時代のこともチェーザレ・ボルジアのことも連載27回(2020.11)でレオナルドに一言語らせるだけで終わりにしています。多分ヤマザキさんは同じ頃のイタリアを扱った惣領冬実の「チェーザレ」を意識していると思いますが、そういう政治的な話は全て省き、職人としてのルネサンス芸術家像を描きたかったのでしょう。ですから、ミケランジェロは登場しないということです。この前までコメント投稿していたように、ピエタの署名からミケランジェロの場合は芸術家としての自意識が読み取れますが、レオナルドは同じ三巨匠といっても、職人の部分を持っていると考えたのかと思います。ボッティチェリとフィリッピーノはクワトロチェントの古い時代の画家(つまり職人)、レオナルドはフィリッピーノより年上ですが新時代のチンクエチェントの芸術家(というよりも思索家)ですが、ヴェロッキョ工房で育ったためか職人としての意識もあったという点でミケランジェロとは一線を画するという気がします。ミケランジェロはギルランダイオ工房出身とされていますが、早いうちにこの工房と決別し(つまり画家になることをやめて)、芸術家としての彫刻家になろうとした、という意味でレオナルドより新しい時代の人間だったと思います。
次に連載半ばの油彩画技法のこと。
花耀亭さんはマンテーニャ&ベッリーニ義兄弟編やアントネッロ編のアルベルガティ枢機卿に似た作品をお読みになりたいとのことですが、私は連載当時にはあまり印象に残らなかったこれらの部分については、今思うと油彩画技法の伝搬やマンテーニャが頑固に油彩を使わなかったこと、そしてフィレンツェでもウッチェロの聖ゲオルギウスのように1460年代頃から油彩画が現れることも合わせて、この部分は話の展開上も必要だったのだと思うようになりました。そして、その油彩画技法のこととともに、マンテーニャ&ベッリーニ、アントネッロを登場させたことは、レオナルドが彼らの作品に影響されることにつながっていく、という意味で重要だと感じています。
この連載に関連して芸術新潮に掲載された対談記事のこと。
2019.6月号と7月号に掲載された「レオナルド没後500年記念特別放談」と2022.7月号(単行本化記念対談)がともに池上英洋氏との対談として載っています。これらは多分単行本に収録されると思いますが、特に2019年の分は現代の漫画家と比較したり、アントネッロ・ダ・メッシーナの不気味な写実表現力とか、リ・アルティジャーニの本編と合わせて読むと面白いと思います。この中で「ヴァザーリの美術家列伝は歴史小説として読まないと(笑)」(池上氏)という部分がありました。これはまさにこのリ・アルティジャーニも想像を交えた「歴史小説」なのだと思います。今月号の対談記事で、レオナルドがジネヴラ・デ・ベンチの肖像画の依頼を受ける時に、アントネッロのあの受胎告知の絵を参考に見せられて衝撃を受けるという、ヤマザキさんが空想で作った場面について、池上氏もその着想に感心していますが、こういう部分は歴史小説としてなら許される範囲なのだろうと思います。今やっているNHKの大河ドラマ鎌倉殿の13人は歴史家や美術史家の方のブログや書き物で史実と異なる部分が多いという指摘をよく目にします(例えば芸術新潮今月号の対談記事でも、東国武士はろくに文字も書けないといったシーンがあったなど)。私もこの番組では女性関係や史実の前後関係でおかしいと思うことが度々あります(それでも毎回楽しみにしていますが)。その点リ・アルティジャーニは史実と比べても矛盾する点がほとんどないので、池上氏が評価しているのもよく分ります。
リ・アルティジャーニを読むのに参考になったものを上げておきます。一つ目は同じ芸術新潮の2007.6月号レオナルドダヴィンチ受胎告知来日記念特集の森田義之氏記事(P45~のヴェロッキョ工房)、二つ目はマンガ メディチ家物語 講談社2005 森田義之監修です。
最後に、直接は関係ありませんが、最近ヴェロッキョについて気になる記事を見つけましたので、ご紹介しておきます。それはヴェロッキョが若い頃(17歳ぐらいで)殺人を犯したというものです。中央公論美術出版のヴァザーリ美術家列伝全訳版第2巻ヴェロッキョ伝の注に「ヴェロッキョの名が最初に記録に登場するのは1452年に14歳のアントニオ・ディ・ドメニコなる人物を石で撲殺した件についてであるが、結局は翌年に和解して彼は赦免される」というものです(森田義之解説)。同様の記事は小学館の世界美術大全集西洋編11イタリア・ルネサンス1にも書かれています(これも森田氏)。若者グループでの喧嘩で投げた石が当たった傷害致死事件のようです。カラヴァッジョやチェリーニの殺人は有名ですが、多くの有力な弟子を育てたヴェロッキョが若い頃にこういうことに関係していたというのには少し驚きました。