フェッラーラ派を調べようと、ロベルト・ロンギ『芸術論叢Ⅰ』の「フェッラーラ大工房(抄)」をサクッと読んだついでに、他の章もちょこっと拾い読みをした。
で、私的に面白かった箇所を二つほど...。
◆ジョルジョーネ(Giorgione,1478年頃 - 1510年)
ジョルジョーネ《ラウラ》(1506年頃)ウィーン美術史美術館
ジョルジョーネ《モーゼの火の証》(1505年頃)ウフィッツィ美術館
「ウィーンにあるジョルジョーネの《ラウラ》が繰り返しボッカチーノに帰せられてきたことは、フェッラーラの画家に対するヴェネツィアの画家ジョルジョーネの早々とした影響を説明することになるとしても、ウフィッツィの小品《モーゼの火の証》に見られる多くのエミリアの反響を説明するのは、より困難なことである。もちろん私は、カステルフランコ・ベネトをカステルフランコ・エミリアにすり替えようとしているのではない。」「芸術論叢Ⅰ」(P208-209)(第八章 ヴェネツィア絵画五百年の糧)
思わず、座布団一枚 と声をかけたくなった。
◆エヴァリスト・バスケニス(Evaristo Baschenis ,1617年 –1677年)
エヴァリスト・バスケニス《パンとビスケットのバスケットを持つ少年》(1660年頃)個人蔵
「あるいは、《菓子籠を持つ少年》のような作品。われわれはここにミラノにあるカラヴァッジョの果物籠に再会するとも言えるであろう。バスケニスは、カトリックの教会管区に身を捧げつつも、あえてフェルメールに似ようとしているのであろう(おそらくフェルメールには、スェールツのようにしか見えなかっただろうが)。」「芸術論叢Ⅱ」(P218) (第十一章 モローニからチェルーティへ)
おおお…もしかして、フェルメールはスェールツを知っていたのだろうか
※ご参考:https://blog.goo.ne.jp/kal1123/e/a284f73e5eb7b9203f666fcf88ea5f1e
https://blog.goo.ne.jp/kal1123/e/8d86594e87f74497fbcb912cb5904437
また、今回改めてロンギの芸術論叢(特に岡田温司氏による巻末の訳註―「ロベルト・ロンギ論」にかえて)を見ましたが、ロンギという研究者のことは今まであまりよく知らなかったので、これでやっとその立ち位置や実像が見えてきました。巨匠の名品、名作を並べて作り上げた美術史への反発、フィレンツェ美術偏重・ヴァザーリの芸術家列伝を引き継ぐアカデミズムという考えやモレッリ、ベレンソンらの研究方法に対し、ロンバルディアを始めとするそれまであまりよく知られていない画家たちに光を当てることにより、美術史研究に新たな道を開いたことなど、ロンギが多くの業績を上げてきたことの理由がつかめました。しかし、一方ではこういった有名でない画家たちを扱った論文や著作はその方面に精通している一部の人にしか理解できなかっただろう、という気もします。日本で出版されたロンギの著作もこの芸術論叢Ⅰ・Ⅱとイタリア絵画史、ピエロ・デッラ・フランチェスカだけのようです。(もっとも芸術論叢Ⅱの訳者後書きで岡田氏は「近く刊行予定のピエロ論の翻訳出版によってロンギの主たる業績のほとんどが翻訳紹介されることになる」としていますが。)また、日本語版ウィキペディアにはモレッリ、ヴェルフリン、ヴァールブルク、ベレンソン、ゴンブリッチ、パノフスキー、アンドレ・シャステル、ケネス・クラークの項目はあるのにロンギ、ボーデ、アドルフォ&リオネロ・ヴェントゥーリはありません。ロンギの著作は難解であること、日本語の本が少ないことなどがウィキに項目がない原因なのでしょう。チェッコ・デル・カラヴァッジョの方へのコメントで書いた「美術史と美術理論-西洋十七世紀絵画の見方-改訂版」(木村三郎著1996年)を図書館で借りてきて今手元にありますが、この本でもロベルト・ロンギのことは出てきません。この本は美術史を専攻する大学生・大学院生の通信講座テキストとして書かれたものですが、著名な研究者の解説はウィキに項目がある人物とほぼ同様で、この辺からも日本でロンギがあまり一般的でないことが伺えます。(この点は芸術論叢Ⅱの後書きで「ロンギを読んだからといって、及第点の美術史論文がすぐに書けるようになるというわけではない」とあるので、難解な著作の多いロンギを木村氏はあえて取り上げていないのかもしれません。)また、芸術論叢Ⅱの後書きにある「ベレンソンからパノフスキーへと一気に飛躍する我が国のイタリア美術史研究の主流では、ロンギという他者をずっと避けて通ってきた」というのが、東大・芸大系の研究者を中心とする国内の研究の実情かもしれません。
なお、この「美術史と美術理論」は出版が1996年とやや古いこともあり、その後のバロック美術研究の進展や出版物、インターネットなどの資料検索情報、日本各地の美術館での17世紀絵画の所蔵リストなど、そのまま現在では使えないデータも多いのですが、美術史を勉強する基本的な方法(例えば作品記述descriptionの重要性など)について触れていたり、上記の研究者とその業績について述べられていたりするので、今まで断片的に読んでいた知識を整理統合・再確認するのには有用だと思います。カラヴァッジョについては日本の美術館が所蔵していないこともあり、記述は通り一遍でやや物足りなく感じました。これはイタリアのバロック美術全体についても同様で、フランス・オランダ・スペイン等の画家に比べイタリア画家は少ないようで、カラヴァッジェスキについての記述もほんのわずかです。
で、ロンギは本当に文学的で難解ですが、所々に皮肉やユーモアが炸裂していて面白いですね。私も岡田先生の後書を読みましたが、ロンギが日本で一般的でないのは寂しいです。まぁ、カラヴァッジョ好きはともかく、知る人ぞ知るで良いのかも(^^;
で、「美術史と美術理論」もためになりそうですね。私も探して読んでみたいと思います。
むろさんさん、今回も色々とお勉強になりました。ありがとうございました!!
芸術新潮9月号の予告記事を見ると、中央公論美術出版美術家列伝全6巻完結記念として、美術家列伝の特集記事を掲載するとのこと。
https://www.shinchosha.co.jp/geishin/#&gid=4&pid=1
上に書いた昨年のコメント投稿でミケランジェロ伝を含む第6巻が早く刊行されることを期待していると書きましたが、その後この件は忘れていました。芸術新潮の予告記事を見て思い出したので、遅ればせながら昨年12月に刊行された第6巻を借りてきました。本文は白水社版があるので読み直してはいませんが、特に読みたかったのは訳者の注釈部分です。昨年のコメント投稿ではミケランジェロ作のヴァチカンのピエタの署名について、6/8~6/26に議論を戦わせています(汗 ;^_^)。この第6巻注釈には(署名の文字FACIEBAT=未完成のことやミラノの彫刻家ゴッボことクリストーフォロ・ソラーリのことなど)ヒントになることは書かれていましたが、これだけでは疑問は解決しませんでした。そして、この注釈で「ルネサンスのライヴァルたち」(ローナ・ゴッフェン著、塚本博・二階堂允訳、三元社2019)がこの署名についての議論を扱っているとして参照されていたので、これも借りてきました。この中で興味を引いた部分は、「古代のプリニウス曰く、芸術家がFACIEBAT=未完成と署名するのは批評家に対する自己防衛(欠点を指摘されてもまだ完成していないためと言えるように)」「ピエタの署名が書かれた帯は衣服としての役割を果たしていないものであり、帯は胸の衣文に深く彫り込まれているので、早い段階で(署名のために)構想されたもの」「ヴァザーリが美術家列伝1550年版で書いたこの署名に関する記載を1568年版でミラノ出身のゴッボ作と誤解された話に書き換えたのは、その時点で署名についての十分な説明をする必要または正当化する必要があったため」「ゴッボ作と誤解されたので署名を彫ったという逸話はミケランジェロの死後1カ月以内に氏名不詳の人物が伝えた話であり、ヴァザーリはこの話の続きとして、(ミケランジェロがこの署名を彫った夜に)一人の修道女に見つけられたが、彼の目的に安心した彼女は彼にオムレツを作ってやったという手紙の筆者の報告を省略している」「16世紀初頭のローマではゴッボことソラーリの方がミケランジェロよりもよく知られていた(ピエタ契約当時のパトロンはミケランジェロがフランス人枢機卿、ソラーリが教皇アレクサンデル6世=あのロドリーゴ・ボルジア でありソラーリのパトロンの方が格上)」「ソラーリはレオナルドと繋がりを持っている(同時期にミラノ宮廷で働いている、1508年にはミラノで大聖堂関連の委員会の委員として同席している、弟はレオナルド派の画家)」「ミケランジェロとソラーリはヴェネツィアとローマで同時期にいたことが分かっているので、おそらく顔見知りだった」などです。そして、結論としてこのゴッボの逸話は、ミケランジェロ作のピエタが持つレオナルド風の要素-ピラミッド構図、洗練された性格描写、衣文などによって、このピエタにおいてミケランジェロがレオナルドに負うものを理解していたために、ミケランジェロはピエタに署名した、としています。さらにヴァザーリもこのことを理解していたために、美術家列伝1568年版でこの話を追加したとしています。ゴッボの逸話は全て真実でも全て作り話でもないと思いますが、何かの歴史的な事実を反映していると思うし、レオナルドとミケランジェロの反目を考えると、「ルネサンスのライヴァルたち」に書かれていることは事実に近いだろうという気がします(昨年6/17のコメントでレオナルドを暗示しているという田中英道氏の意見をご紹介しています)。
また、この件に関連し、美術家列伝第6巻に書かれたミラノの彫刻家ゴッボについて、興味深い内容がありました。P291の「レオーネ・レオーニと他の彫刻家や建築家たち」に関する注釈でこのゴッボことソラーリに触れていて、近年研究が大幅に進み、ミラノ大聖堂外壁や主礼拝堂の彫刻の作者帰属がソラーリ本人や工房として議論されているそうです。また、ルドヴィコ・イル・モーロ夫妻の墓碑制作にも携わったが、ルドヴィコの失脚により完成できなかったそうです。上記の田中英道氏の意見もあり、以前はヴァザーリがミケランジェロのピエタの作者として「ミラノの彫刻家ゴッボ」などという無名の人物に関する逸話を持ち出してきたのは何故か?レオナルドとあからさまに書けないためか?と思っていましたが、「ルネサンスのライヴァルたち」とこの列伝第6巻の注釈を読んで、ゴッボは無名であるどころか1499年当時はミケランジェロよりも有名な彫刻家だったと認識が変わりました(ソラーリは32歳の中堅、ミケランジェロはまだ24歳の駆け出しであり、このピエタで有名になった。なお、白水社版ルネサンス画人伝ミケランジェロ伝のP398注釈に書かれているソラーリの生没年1473/74~1520は誤りで、正しくは1467~1524です)。このような観点に立ってヴァザーリの伝えるゴッボの逸話を読まなくてはいけないし、歴史の中に埋もれてしまって現在ではほとんど知られなくなったことがいかに多いか、そしてそのようなことから形成された「神話」によって、我々は三巨匠やカラヴァッジョのことを理解しているとあらためて感じました。また、ミケランジェロの生前に書かれたヴァザーリの列伝1550年版とコンディヴィのミケランジェロ伝には書かれていないゴッボの逸話を、ヴァザーリは何故ミケランジェロ死後の列伝1568年版で付け加えたのか、上記の「ルネサンスのライヴァルたち」では「署名についての十分な説明をする必要または正当化する必要があったため」としていますが、ミケランジェロ本人に真偽を確認することができなくなったのであえて追加したということはないのか、今後この辺も考えていきたいと思っています。
なお、署名の件で昨年6/8のコメントでは「ミケランジェロのピエタ以降のダヴィデ等では、名前を彫る必要もないほど認められ、それ以上の大理石彫刻を作れる人物はいないことが誰の目にも明らかだったから、このピエタが唯一の署名作品になった」という意見を書きました。これに関連して興味深いことが「ルネサンスのライヴァルたち」に書かれていたのでご紹介しておきます。少し後のニュートンについての話ですが、「ライオンはその足跡で見分けがつく」。「ルネサンス期のライオンたるレオナルドはどの作品にも署名を入れなかった。彼らの同時代人と同じく我々もミケランジェロを彼の足跡で見分けることができる。しかし(ヴァザーリが伝える話では)ロンバルディア人たちにはそれができなかった」からミケランジェロは署名をしたとのこと(レオーネとレオナルドを掛けているのも面白いと思いました)。
次にパラゴーネとベネデット・ヴァルキの本のことを述べておきます。昨年の6/21のコメントで、中央公論美術出版から出ているベネデット・ヴァルキ著パラゴーネ―諸学芸の位階論争(2021年)について、「素人はここまで専門的な本は読まなくてもいいだろう」と書きましたが、その後レオナルドとミケランジェロの不和やヴァザーリの考えなどについて調べていくに従い、このパラゴーネの本も読む必要があるという気になったので、やや難解な内容でしたが半年ぐらい前に全体を読むことにしました。パラゴーネに関する当時の考え方やミケランジェロ没後にサンタ・クローチェの墓碑をどうするかなど興味深い内容もありましたが、特に目を引いたのは、当時の代表的な美術家に対してベネデット・ヴァルキが送った絵画と彫刻の優劣に関するアンケートとそれに対する回答、そしてその中に書かれたミケランジェロの言葉(絵画の方が優れているという人がいるが、そのぐらいの文章なら自分の家にいる下男でも書ける)やこれについての訳者の注です。このミケランジェロの言葉は一般にはカスティリオーネの著書「宮廷人」の記述を指しているとされ、また、研究者によってはレオナルドを指しているともされていますが、この訳者注では「ミケランジェロはヴァザーリを意識している」として、ヴァザーリの回答を引き合いに出しています(これを読むと確かにヴァザーリは絵画の優位性を述べています)。なお、カスティリオーネと言えばラファエロの描いた肖像画のことと「宮廷人(廷臣論)」を書いたことぐらいしか知りませんでしたが、宮廷人の日本語訳(東海大学出版会1987)があることが分かったので、この機会に取り寄せて関連部分のみコピーしました。(西洋美術でも日本美術でも今はかなり多くの原典が日本語訳・現代語訳されているのでとても役に立ちます。)
ヴァザーリはミケランジェロの崇拝者ですが、絵画・建築はやっていても彫刻はやっていません。ヴァルキへの回答文書はミケランジェロが読むことを想定していませんが、1550年出版の美術家列伝でも全体としては絵画優位の立場で書かれています。この考えが後のアカデミア・デル・ディセーニョ設立へとつながり、また、ミケランジェロも晩年は絵画・彫刻・建築は素描から生まれた子供という考えになっていくわけですが、ミケランジェロにとってのヴァザーリは自分に対する単なる崇拝者ということではない、もっと複雑な関係だったという気がします。この辺についても芸術新潮9月号で掘り下げた解説が掲載されることを期待しています。
最後に、昨年の6/19のコメントでご紹介いただいた美学54巻3号掲載「絵画と彫刻のパラゴーネ―カラヴァッジョ作 勝利のアモルをめぐって」の発表要旨(加藤奈保子)を膨らませた形の論考が同誌の第55巻2号(2004年)に出ていました。既にご存じとは思いますが、念のためにURLを記載しておきます。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bigaku/55/2/55_KJ00004585295/_article/-char/ja
で、当時ミケランジェロより、ゴッボことクリストーフォロ・ソラーリの方が格上で有名だったとは...(^^;。それに、あの三角構図がレオナルドを追っているのを知っているロンバルディア人、というのもなるほどです。やはりミケランジェロはレオナルドを意識していたんでしょうね。さらに「ミケランジェロはヴァザーリを意識している」というのも初めて知りました。ますます9月号が楽しみですね!!
それから、URLご紹介の加藤奈保子氏の論文も拝見しましたよ~。興味深く読ませていただきました。ありがとうございました!!
むろさんさん、今回も色々と、本当に勉強になりました。ありがとうございました!!
本の内容はミケランジェロを中心に、ライヴァルであるレオナルド、ラファエロ、ティツィアーノ、そして晩年でのバッチオ・バンディネリとチェリーニを取り上げ、ここにヴァザーリやセバスティアーノ・デル・ピオンボがからんでくる、といったものです。これを読み始めた目的は、ミケランジェロ作のヴァチカンのピエタの署名がミケランジェロ唯一の署名であることやゴッボ作と誤解されたというヴァザーリが伝える逸話から、どんなことが真実として言えるのかを知りたいということであり、また、芸術新潮9月号「こんなに面白いルネサンス巨匠伝」特集の予習として、ヴァザーリが列伝を執筆した真の目的を知るためです。芸術新潮の予告記事では、列伝中の記事―ミケランジェロがローマに来ていたティツィアーノをヴァザーリとともに訪ね、ダナエを見た後でミケランジェロがヴァザーリに語った言葉(色彩はいいが素描が足りない)―を載せていますが、「ルネサンスのライヴァルたち」のティツィアーノの項目を読むと、ダナエはミケランジェロのレダや(メディチ家礼拝堂の彫刻)夜からの借用であること、ミケランジェロ作のこれら「男性的」な女性像からティツィアーノは色彩による官能的な女性像への変換を行っていること、(それ以前のブレシャ祭壇画の聖セバスティアヌス―その署名については後述―などでもミケランジェロの影響はあったが)ヴェネツィアへ戻ると「(ミケランジェロの影響を)追い払った」ことなどが書かれています。なお、教皇パウルス三世の客としてローマに来ていたティツィアーノが、その時に描いていた絵として「ダナエと黄金の雨」、「教皇パウルス三世と孫たち」の2枚が現在ナポリのカポディモンテに残っているわけですが、ティツィアーノが教皇や諸外国の君主などから多くの注文を受けているのに対し、ローマ・フィレンツェ以外からはほとんど注文がないミケランジェロには複雑な思い(あるいは妬み?)があったかもしれません。「官能的な女性像や肖像画はミケランジェロの関心事ではないからティツィアーノのローマ進出を無視した」(「ルネサンスのライヴァルたち」より)といっても、ローマでの仕事をティツィアーノに奪われることを恐れていたことは考えられます。
ヴァチカンのピエタの署名に関して、私がこの本を読んで思ったことは、
ミケランジェロは自然と古代彫刻だけから学び、同時代の画家・彫刻家からは何も学ばなかった、というストーリー(神の如き存在という神話)を他人に信じさせたかった。だから、あのような署名を彫り、ヴァザーリはミケランジェロ没後に出した列伝の改訂版でゴッボ作と誤解されたという逸話を加えた。
ということです。
そう思った理由の一つ目は、ミケランジェロは最初にギルランダイオの工房に入って修業したという事実を隠したかった(コンディヴィはミケランジェロの要望に応えてギルランダイオの弟子ということを書かなかったが、父親とギルランダイオの契約書や支払い記録が存在する。ヴァザーリはミケランジェロ没後に遺族から見せてもらった契約書を公表し、1568年版の列伝でギルランダイオの弟子と書いた)。
二つ目は最初期の作品である階段の聖母(カーサ・ブオナローティ、極薄肉浮彫)の存在を隠しておきたかった。同時期頃の作品であるケンタウロスとラピタイ族の戦い(カーサ・ブオナローティ、半肉浮彫)は晩年になってのコンディヴィとの話で若い頃の誇りとして語っているが、階段の聖母については沈黙している。これは上記コメントで書いた晩年のベネデット・ヴァルキへの回答文書(絵画の方が彫刻より上だという文章を書いた人がいるが、その程度ならうちの下男でも書ける)の中にある「絵画は彫刻へ近づくほど良くなり、彫刻は絵画へ近づくほど悪くなる」という考えと一致している。そして、1507年(フィレンツェ暦では1506年)のローマからフィレンツェの父あての手紙で、「例の大理石の聖母像を家に運んで誰にも見せないようにしてほしい」と書いている。この聖母像について、以前はブルージュの聖母ではないかと言われていたが(コンディヴィ著ミケランジェロ伝の日本語訳注釈1978年岩崎美術社、ミケランジェロの手紙 日本語訳注釈1995年岩波書店 など)、この像は1506年にブルージュへ送られているので、現在では父に頼んだ像は階段の聖母とされている。さらに、階段の聖母はミケランジェロ没の2年後に遺族がコジモ公に贈呈しているが、それまでは世間には知られていなくて、ヴァザーリもその贈呈の後で列伝の1568年版が出る直前に初めてこれを見て列伝に追加している。そこには「ミケランジェロはドナテッロの作風を模倣したいと思いこの像を作った」という記載がある。これだけ証拠がそろえば、ミケランジェロはドナテッロの極薄肉浮彫の影響でこの作品を作ったことを生涯隠しておきたかったのは間違いない。なお、「ルネサンスのライヴァルたち」の著者ゴッフェンは(アイスラーという人の説を受けて)階段の聖母が偽造品(ドナテッロの?)として作られた可能性も示唆しているが、階段の聖母の数年後に眠れるキューピッドの偽造品を作り、古代の彫刻として売ろうとした事件に関わったという事実を考えれば、階段の聖母の偽造品説もありうるかもしれない(その場合は偽造品として作ったので隠しておきたかったということになる)。三つ目は前コメントで書いたとおり、ヴァチカンのピエタがレオナルドの影響を受けていること。このピエタが大評判だったことで、その後のダヴィデやシスティーナ礼拝堂天井画という真に自己の作風の確立へとつながっていくわけですが、20代前半のピエタまではそれほど有名でもなく(ゴッボことソラーリの方が有名だった)、いろいろな画家・彫刻家の作風を真似て模作していたことが分かります。最初期からピエタの頃までにいろいろ試したという事実を隠したかったようですが、このことはそんなに恥なのか、「神の如き」存在であるためには、自然と古代彫刻だけが自分の師だったということをそこまでして他人に信じさせたかったのか、と少し不思議に思います。あるいは、これは16世紀前半~半ば頃のヴァザーリ、ベネデット・ヴァルキ、コンディヴィらミケランジェロ周辺の人物によって作り上げられたストーリーなのか。特にヴァザーリはミケランジェロの実像も全て分っている上で、自分が考えるトスカーナ芸術の優位性、トスカーナ大公お抱え芸術家の立場、アカデミー設立へつながる動きなどを考慮して、ミケランジェロの思いを忖度しながらミケランジェロ神話を作り上げた、ということかとも思います。このへんも芸術新潮9月号でどのような記載になるのか期待するところです。なお、その後のイタリアからフランスへと美術の中心が移っても、アカデミーが美術界の最高権威であり続け、それへの反発から印象派やウィーン分離派などの動きが出てきたことなど、ルネサンス以降数百年に及ぶ影響を思うと、(レオナルドやラファエロも含みますが)ミケランジェロやヴァザーリが行ったこと(功?罪?)の大きさが思い知らされます。
なお、ミケランジェロがヴァザーリをどう思っていたのかについて、ヴェネツィア出身なのにすっかりローマの画家となったセバスティアーノ・デル・ピオンボとミケランジェロの関係から、類推できそうな気がします。(フィレンツェにいるミケランジェロがローマのラファエロの動向を知るためにピオンボと頻繁に手紙のやり取りをしていて、一方、ピオンボはラファエロの後釜としてヴァチカンの宮殿の仕事にありつくために、ミケランジェロの推薦を欲しがっていた。しかし、システィーナ礼拝堂最後の審判をミケランジェロに油彩で描かせようとしたピオンボに対し、ミケランジェロは「油彩は女のやること、ピオンボのような暇人のやること」と言っているとヴァザーリが列伝のセバスティアーノ・デル・ピオンボ伝に書いています。)また、ミケランジェロ対レオナルド、ラファエロ、ティツィアーノ、バッチオ・バンディネリ、チェリーニについては様々な形のライヴァル関係・対立関係がありますが、これらの詳細を知りたい場合はこの本を読む必要があり、その関係性からそれぞれの画家・彫刻家の実像がよく見えてくると感じています。
ミケランジェロとヴァザーリの関係について、前投稿で「ミケランジェロにとってのヴァザーリは自分に対する単なる崇拝者ということではない、もっと複雑な関係」と書きました。1550年版のヴァザーリ作列伝に少し不満があったミケランジェロは、コンディヴィに自分の要望を入れた伝記を書くように依頼し、上記ギルランダイオの弟子の件を始め、コンディヴィはそれに応えていますが、一方、ヴァザーリはギルランダイオの弟子の件、階段の聖母の件などミケランジェロが隠したかったことをミケランジェロの没後に1568年版列伝で次々とばらしています。このへんは生前には「崇拝者」を演じていたが、没後にはその反動が出てきたのかという気がします。(ミケランジェロも上記のセバスティアーノ・デル・ピオンボの件で、役に立たなくなったら非難しているので、同じようなものですが。)そして、ピエタの署名のゴッボの逸話をミケランジェロの没後にヴァザーリが追加したこともこの同じ流れの中で考えるべきと思っています(まだ結論は出ていません)。
この他、ピエタの署名のFACIEBAT(未完成)についても、他の作例などから分かってきたこともありますが、長くなったので続きは次回に。
芸術家の間にはやはり競争関係があるのがよくわかりますね。それに、芸術家も人間ですから利害の対立や嫉妬心もあるでしょうし(^^;
「美術家列伝」もですが、残された資料を現代の私たちが読む時、やはりそれぞれの「解釈」があるのだなぁと思いましたし、それはそれで良いのだとも思いました。
むろさんさんの「ピエタの署名のFACIEBAT(未完成)」についての続きも楽しみにしております(^^)/
まず、このfaciebatは古代の作品には使われていたが、ルネサンスでは使われなくなっていて、ミケランジェロがピエタで復活させたそうです。ミケランジェロ以前のルネサンス彫刻ではfecitかopus(~の作品)が使われています(アンドレア・ピサーノ、ドナテッロ、ポッライウォーロなど)。そしてミケランジェロ以降にfaciebatを使っている例としてティツィアーノのブレシャ祭壇画に描かれた聖セバスティアヌスを取り上げ、また、faciebatではなくpingebatと書いた例としてラファエロ(工房)作、ルーブル美術館の大天使ミカエルを上げています。(fecit・faciebatは「作った」なので、絵画・彫刻のどちらに使ってもいいが、pinxit・pingebatは「描いた」なので絵画専用)
ティツィアーノの聖セバスティアヌスには、右足の下で踏んでいる石の円柱の断面部分に「TICIANVS FACIEBAT MDXXⅡ」と書かれ1522年作であることが分かります。この聖セバスティアヌスは明らかにミケランジェロの奴隷を下敷きにしていること、石の円柱やfaciebatという表記もミケランジェロを意識していること、この祭壇画の注文者はミケランジェロが関係した眠れるキューピッドの偽作事件の購入者でありバッカスのパトロンでもあった枢機卿と親交があったこと(つまりこの線からもティツィアーノがミケランジェロを意識して聖セバスティアヌスを描いた)などが書かれています。
一方、ラファエロ工房の大天使ミカエルについては、スカート状の外衣の縁に「RAPHAEL VRBINAS PINGEBAT MDXVⅢ」と書かれ1518年作であり、ミケランジェロの名義聖人「天使ミカエル」(ミケランジェロ)への当て付けを意図して書いたが、faciebatを使わずにpingebatを使ったことにより、ミケランジェロのピエタ(faciebat)を想起させることなく古代の師匠たちを巧みに喚起させた、としています。この銘文は小さな文字なので、はっきりと読める写真がなかったため、他の本をさがしていたら気になるものがありました。Rizzoli集英社版美術全集5ラファエロの作品リストに書かれたこのルーブルの絵の解説を読むと、「RAPHAEL VRBINAS FACEBAT MDXVⅢ」と書かれています。一方、同時期に描かれ同じ経歴によって現在ルーブルにある「フランソワ1世の聖家族」の聖母の外衣の縁には「RAPHAEL VRBINAS PINGEBAT MDXVⅢ」と書かれている、とあります。これはどういうことなのか、少なくともミカエルの絵については「ルネサンスのライヴァルたち」と「Rizzoli集英社版ラファエロ」のどちらかが誤りです。ミカエルも聖家族も銘文の文字は非常に小さくて、読める写真がありません。今後ラファエロの本格的なカタログレゾネなどに当たり確認しようと思っています。いずれにしても、ラファエロもティツィアーノもミケランジェロのピエタの署名faciebatをかなり意識しているということは分りました。なお、上記Rizzoli集英社版のミカエルではFACEBATとなっていてFACIEBATではありません。これは単なる誤植なのかもしれませんが、中央公論美術出版の美術家列伝第6巻のミケランジェロ伝のピエタの署名に関する注釈で、「プリニウスの博物誌では古代ギリシャにおいて一部の作家が完成作にはFACIETと記し、アペレスらは未完成作にはFACEBATと記したことを伝えていて、この内容はポリツィアーノを通じてルネサンス期の人文学者にも知られていた」とあります。ラファエロがわざと古代の書き方を採用した可能性もあるのでこれも合わせて宿題です。
さらに「ルネサンスのライヴァルたち」ではジョヴァンニ・ベッリーニ作リミニのピエタの署名について触れていて、この絵では向かって右の台と黒い背景の境界近くの台の部分に小文字で署名「Ioannes bellinus pingebat」(ジョヴァンニ・ベッリーニが描きつつあった)とあります。小さな文字ですが、美術書で確認できました(私が見たのはファブリ画集です)。これは変身物語でアラクネが織物をするという記述を喚起したかったのだろう、とあるのでオヴィディウスの変身物語(ラテン語版)のVI 23行を確認したら、確かにseu pingebat acu(あるいは針で絵を描きつつあった)と書かれていました(下記URL)。
https://www.thelatinlibrary.com/ovid/ovid.met6.shtml
私が気になったのはこの絵の制作時期は1474年頃とされていて、それはミケランジェロが生まれる直前です。ミケランジェロのピエタの署名FACIEBATはルネサンスで最も早い例だというのに、それとほぼ同じ意味合いのPINGEBATを使った例がミケランジェロ以前にあり、ピエタとどのような関係にあるかを「ルネサンスのライヴァルたち」の著者ローナ・ゴッフェンは全く触れていません。同氏はジョヴァンニ・ベッリーニの著作(1989年)も書いている研究者なのに不思議に思います。これも今後の課題です。
以上、ミケランジェロ前後のいろいろな事例を書いてきましたが、結局ミケランジェロがピエタでFACIEBATを使った理由はよく分りませんでした。ゴッフェンは古代の例で批評に対する自己防衛、芸術とはいつまでも未完成であるという謙虚さ、また、自惚れや自意識の過剰、心にもない否定といった様々な可能性を列挙していますが、もう少し考えてみようと思います。なお、ピエタの署名ではFACIEBAで終わっていて最後のTが省略されていますが、これは署名の文字そのものも未完成を意味しているそうです。
(私は見たことがありませんが、花耀亭さんはリミニのピエタやティツィアーノのブレシャ祭壇画をご覧になっていますか?)続く
ヴァザーリの列伝1550年版の「彼がそこにおいて彼自身に満足し、また彼自身が気に入ったということ」(作品に対する自尊心から署名した の意)、1568年版でそれを削除しゴッボの逸話に変えたこと、そして、「若気の至りを恥じてそれ以降決して署名をしなかった」という話も全て後付けの理由のような気がします。もっと単純に、ピエタを作り始めた頃はまだあまり有名ではなかったので、「ミケランジェロという作者」をもっと売り出していくために署名した、署名が必要だったと考えてもいいのではないか。そしてダヴィデ以降はこれ以上の大理石彫刻を彫れる彫刻家はイタリア中には誰もいないということが明確になり、署名の必要がなくなったということではないか(ライオンは足跡から分るので、レオナルドが署名をしないのと同じ)。ダヴィデで初めてミケランジェロはレオナルドに並ぶことができた、ということであり、ダヴィデはミケランジェロにとって大きな転換点だったと思います。1500年にミラノから戻ったレオナルドが1501年に聖アンナ画稿を公開して大評判になり、ダヴィデ制作のために同じ1501年にローマから戻ったミケランジェロもこの聖アンナ画稿を写したと思われる素描を描いています。この頃はまだレオナルドの影響、というよりもレオナルドの画風も含め模作をしている段階だったが、ダヴィデを彫っている途中で何かがふっ切れたのではないか。ダヴィデ像の完成以降は男性的な像という路線一筋です。そして、前コメントで書いた階段の聖母を隠すという話も全てこの頃以降の出来事です(父親への手紙は1507年であり、ドーニの聖家族の少し後)。
ピエタを作る時点で「ミケランジェロという作者」をもっと売り出したかったということについては、契約書の中で証人であるヤコポ・ガッリが「ローマで最も美しい大理石彫刻を一年以内に作ること、今日のいかなる師匠もそれ以上にはなし得ないことを枢機卿猊下に約束する」という保証の条項を付けていることからも伺われます。まだ新人の彫刻家であるミケランジェロについて、このような契約条項を付けるということはガッリにとっても一種の賭けであったと思いますが、さすがにミケランジェロという大天才はこれを見事に成し遂げています(現代人にも了解できる)。上に書いたアイドルタレントと同じような例えとして、テレビで昔流行っていた歌のベストテン番組に例えると、ピエタ以前は10位とか20位以下、ピエタで5~3位ぐらいのランキングになりかなり売れるようになった。そしてダヴィデで念願の1位を取り大スターの仲間入りをした、といったところでしょうか。ガッリはローマに来たミケランジェロが住んだ邸宅の主人(銀行家)であり、本格的に売れ出す前のミケランジェロを、周囲の人も一生懸命売り出そうとしていたと思います(ガッリは眠れるキューピッドやバッカスの問題の時にもその解決のために動いたり作品を引き取ったりしている)。
今回、ピエタの署名に関する問題を考える目的で「ルネサンスのライヴァルたち」を読み始めたことで、ミケランジェロやヴァザーリ(の実像?)について理解が深まりました。ヴァザーリのルネサンス美術家列伝は1550年版と1568年版で変わった部分を把握し、その改訂に込められた真意を見極めることが大事だということがよく分かりました。このあとは明日8/24に発売される芸術新潮9月号の特集に期待したいと思います。
で、ネットで興味深い解説を見つけました。
◆「fecit」が「facere=する、つくる」の過去形なのに対して、「faciebat」は未完了の時制。つまり「ティツィアーノが(かつて)描いていた」というくらいの意味になります。
絵のサインなのに「未完了」とは奇妙ですが、これが今回のテーマにつながります。古代の歴史家プリニウスは著書『博物誌』のなかで、未完了時制faciebatを、「進歩の途中にある人間の営み」と関連づけ、その代表例として伝説的な画家アペレスを挙げました。つまり、ティツィアーノは、「faciebat」と書くことで、自らを古代の大画家アペレスになぞらえていたのです。
https://courrier.jp/columns/74295/#:~:text=%E3%80%8Cfecit%E3%80%8D%E3%81%8C%E3%80%8Cfacere%EF%BC%9D,%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
ベッリーニもティツィアーノもヴェネツィア派ですが、多分、ルネサンス期の芸術家の間ではアペレスの話は有名だったのではないでしょうか?? やはり自己プロデュースのために使っていたのでしょうかね??
ちなみに、ベッリーニのリミニ《ピエタの天使たち》もティツィアーノのブレシャ《アヴェロルディ祭壇画》も両方とも実見していますが、署名までは気が付きませんでした。リミニで撮った写真を拡大してもわかりませんでしたし、ブレシャの祭壇画は狭い奥にあるので、全体像を観るのも大変でしたしね(^^;
https://blog.goo.ne.jp/kal1123/e/42d4086778e535caaa3cc3d2b8234c4c
ということで、むろさんさん、「芸術新潮9月号」で疑問を解く鍵が見つかると良いですよね(^_-)-☆
壺屋めりさんですね。ルネサンスの世渡り術(芸術新聞社2018年)「第2章自己プロデュースを極める ティツィアーノの場合」にも同内容が掲載されています。なお、この本については数年前に「第7章根回しは相手を考えて ミケランジェロ<ダヴィデ>の場合」の中に記載されているダヴィデ設置場所検討委員会のメンバー(ボッティチェリやレオナルド、ペルジーノ他)の人数が32人か30人かで、石鍋氏が成城大学美学美術史論集19号(2011年)に記載した数字と異なっていたので、どちらが正しいのかいろいろ調べたことがあります。結局は元になったミケランジェロ関係の文献(Saul Levine、Seymour等)による違いだったようですが、これ以上は確認できないで終わっています。
ティツィアーノの件に戻ると、壺屋氏が書いているプリニウスの「博物誌」の序文については、ローナ・ゴッフェンの「ルネサンスのライヴァルたち」のミケランジェロ作ピエタの項目に文章が引用されていて、画家アペレスと彫刻家ポリュクレイトスがFACIEBATを使ったことやこれに対するプリニウスの考え(批判)が書かれています。上記コメントで書いたとおり、ローナ・ゴッフェンはルネサンス期として初めてミケランジェロがこの表現を採用したことの理由について、(ミケランジェロはその時点でのポリュクレイトスであることを熱望しつつも)批評に対する自己防衛、芸術とは未完成だという謙虚さ、自惚れや自意識の過剰、心にもない否定といった可能性を列挙して最終的な結論は保留しています。「ティツィアーノは自らを古代の大画家アペレスになぞらえていた」という壺屋氏の表現はやや単純すぎる気もしますが、ミケランジェロが1498年頃にピエタで使い始めた時と比べて、ティツィアーノがブレシャの祭壇画で(多分初めて)この表記を使った1522年ぐらいになれば、それほど深い意味付けはしないでアペレスになぞらえたということでいいのかもしれません。なお、ティツィアーノはブレシャの聖セバスティアヌス以降(通常の表記のfecitやopusと並行して)数点の絵にFACIEBATを使っているそうですが、壺屋氏が写真を上げているヴェネツィア、サン・サルヴァドール聖堂の受胎告知(1563~65頃)が2016年に国立新美術館他に来日した時の図録解説にも「X線、赤外線調査の結果、もともとは他の諸作品と同様TITIANVS FACIEBATと記されていた」と書いてありました。
このFACIEBATの使用に関して、その後のバッチョ・バンディネッリの例で面白い話が「ルネサンスのライヴァルたち」に書かれていました。1530年代ぐらいになるとFACIEBATを使うことは珍しくなくなったそうで、ベンベヌート・チェリーニは1553年に完成したペルセウスに(ミケランジェロと競いつつも敬意を払って)ピエタと同様、胸の帯にFACIEBATを使った署名をしています。一方でミケランジェロやヴァザーリと政治的な対立関係や美術上での敵対関係にあったバッチョ・バンディネッリが、1534年にミケランジェロのダヴィデと向かい合う場所にヘラクレスとカクスの像を設置すると、非難や揶揄する紙が多く貼り付けられ、メディチ家の独裁政権はそれらの筆者を投獄したそうです。こういった紙の中にバッチョがシエナの貴族バンディネッリ家出身だという架空の家系を主張していることを揶揄して、台座に彫られたBACCIVS BANDINELL FLOR FACIEBAT MDXXXIIII(フィレンツェ人バッチョ・バンディネッリ作 1534年)をもじったO Baccius faciebat Bandinello(おお、バッチョがバンディネッロを作りつつあった)で始まる詩が作られてバッチョ・バンディネッリをあざ笑ったそうです。なお、バッチョについては、ヴァザーリとの激しい対立関係や美術家列伝に虚偽の中傷が書かれていることについて後で書きます。
<ルネサンス期の芸術家の間ではアペレスの話は有名だったのでは
プリニウスの「博物誌」は1476年のランディーノ版以降は容易に入手可能であり、特にメディチ家お抱えの人文主義者ポリツィアーノが著書「雑録」でその説明を書いたとのことなので、ミケランジェロはポリツィアーノからアペレスやポリュクレイトスがFACIEBATを使ったことを学んだようです。そして、その後ヴェネツィアなどにも広まっていったのでしょう。
<リミニ《ピエタの天使たち》もブレシャ《アヴェロルディ祭壇画》も実見しています
私はどちらの町も行ったことがないので、将来もし行く機会があれば拡大鏡を使ってしっかり署名も確認したいと思います。ご紹介の2008年の記事中のアヴェロルディ祭壇画の写真を見ると、聖セバスティアヌスの足元の署名は下から見上げるような感じですが、署名の文字は一番下にあり比較的大きいので確認できそうに思います。なお、この聖セバスティアヌスの表現ですが、石井元章著ルネサンスの彫刻(2001年ブリュッケ)によると、1506年に発見されて大評判になった「ラオコーンからの影響」とあります。ミケランジェロもラオコーンから影響されているし、このティツィアーノの絵もミケランジェロ、ラオコーンの両方から影響を受けているといっていいのでしょう。リミニのピエタの署名は、画集から寸法を計算すると6mm×7cmぐらいの小さい文字の列なので、拡大鏡でもちょっと厳しいかもしれません。絵にどこまで近づけるかですね。
このコメントも同じテーマで長くなったので、そろそろ結論を出して終わりたいと思います。「ルネサンスのライヴァルたち」は半分ぐらい読んだところですが、注釈もしっかり読んでいるのでなかなか進みません。ミケランジェロの最初期作品「階段の聖母」を本人は隠したかったということを書きましたが、ミケランジェロ対レオナルド・ラファエロについて、もう一つ興味深い話がありました。それはミケランジェロのドーニの聖家族とラファエロのドーニ家夫妻の肖像画の件です。これらについて今までは、聖家族のトンドの注文者はこういう顔だったのか、また、ヴァザーリは夫のアニョーロ・ドーニについて金払いの悪いケチな男という逸話を載せている、ぐらいの認識しかありませんでした。ゴッフェンの本では、ドーニはアンギアーリの戦いとカッシーナの戦いのレオナルド対ミケランジェロの壁画対決を意識して、ミケランジェロとラファエロに注文を出したこと、ドーニ夫妻の肖像は(同じラファエロ作の一角獣を抱く婦人やラ・ムータと同様)明らかにモナ・リザの構図を使っていること、ヴァザーリはドーニ夫妻の肖像がレオナルドの影響と誰にでも分かるので、反発からアニョーロ・ドーニがケチな男だという逸話を載せたのではないか、といったことが書かれていました。(聖家族の代金を値切ったことから、)「ミケランジェロに感謝の意を示さないパトロンによって注文された肖像画であり、それは明らかにレオナルドに負うものであったため、ヴァザーリには二重に不快なものに見えたのかもしれない」とあります。
これはあまりにうがった見方だとか、研究者には様々な説があってもいい、と思われるかもしれませんが、今まで全く別個に考えていただけの作品をこのようにライヴァルとか敵対関係といった観点から眺めると、気がつかなかったことにいろいろ気づくということを知らされました。私は今までは主に1990年代ぐらいまでの国内で発行された美術全集(作家別のものや小学館の世界美術大全集各巻)とかフィレンツェ・ルネサンスの6巻シリーズなどを使って、三巨匠を始めとする自分のルネサンス美術に関する考え方が出来てきましたが、これらを見ているだけではどうしても作家別か作品別の知識しか得られませんでした(特に好きな画家についてはカタログレゾネも買っていますが、その画家の詳細なことは分っても、他の人物との相互関係まではなかなか分りません)。今回「ルネサンスのライヴァルたち」を読み、作家相互の関係とかミケランジェロならば女性像を年代順に並べてみたことで、いつから男性的な女性像が出てきたのか、その理由は何かなどを考えることができました。(なお、この本によればミケランジェロの男性的な女性像の最初はバルジェロにあるピッティの聖母の浮彫りだそうです。上記コメントではこれもピエタに続く女性的な像の一つと書きましたが、この本ではピッティの聖母の表情はダヴィデとそっくりであり、一方、雰囲気は階段の聖母やピエタの聖母マリアに近いとのこと。ピッティの聖母に関する私の推定は半分ぐらいは当たっていたようです。)
「ルネサンスのライヴァルたち」は原書の発行が2002年(邦訳は2019年)と、もう20年以上前の本であり、上記の私がよく使っていた本とは数年~10年程度の違いしかありませんが、その当時までの学説をできる限り網羅して論説を組み立てています(但し、最終的な結論を保留していることが多いので、結局何が正しいのかで迷うことはあります)。日本の研究者が書いた上記の本では著者が信じる説によって解説されていることが多くて、今までは単純にそのまま信じてきましたが、「ルネサンスのライヴァルたち」によって欧米の研究者には様々な説があり、認識を新たにしたこともいくつかありました(ミケランジェロが階段の聖母を隠そうとしたことやドーニの聖家族とドーニ家夫妻の肖像画の件など)。この本はかなり分厚いものであり、読みこなすにはそれなりの基礎知識も必要だと思うし、関連資料と比較しながら読む方がいいので、誰にでもお勧めできる本だとは思っていません(私もヴァザーリの美術家列伝全6巻とか、コンディヴィのミケランジェロ伝、ミケランジェロの手紙、ベネデット・ヴァルキのパラゴーネ等の日本語訳のある関連書籍を参照しながら読んでいます。但し、これらのうち高価な本はコピーです)。まだ読み終わっていませんが、三巨匠の実像とかヴァザーリが美術家列伝を書いた目的やヴァザーリと同時代の芸術家に対する記事の真偽(時には捏造もあり)などを考えるには必読の書だと思います。そして、この本で述べられていることの多くは、最近になって日本で出された本にも少しずつ取り上げられてきたように感じます。中央公論美術出版の美術家列伝全6巻の最初の巻が出たのが2014年で、最終巻が2022年ですが、例えば2016年発行の第4巻に掲載されている甲斐教行氏の論考「ヴァザーリのルサンチマン―好敵手たちへの非難・歪曲・抹殺」については「ルネサンスのライヴァルたち」の内容をかなり参考にしていると思います(日本語訳は2019年発行なので、甲斐氏は原書を使っているはずです)。2022年発行の列伝第6巻のミケランジェロ伝の訳者注釈では、何ヵ所かでこの2019年発行の日本語訳を引用しています。
長くなったので、上記甲斐氏の論考とかバッチョ・バンディネッリに対するヴァザーリの記載(時には虚偽も)、そして芸術新潮9月号の感想などは次回にします。