友人のるふなさんが先週の金曜日に亡くなった。去年の3月、年度末の忙しさの中で喀血し、緊急入院した。一時は回復したかのように思われたが、入退院を繰り返し、遂に帰らぬ人となった。自分の肝臓を自分の身体の細胞が攻撃するという難病だった。
でも、私は必ず回復すると信じていた。お見舞いに行くたび、快気祝いはMちゃんの店でしようね、退院したら美味しいもの食べに行こうね…と話していたのに…。
なんでも、本音で話せる友だった。明るく聡明で、好奇心が強くて研究熱心、更にA型気質の完璧主義。O型アバウトな私はいつも頼ってばかり…。お見舞いに行っても、病人の方が気遣ってくれていた…。もう、せつないっったら!
そんな友の喪失感はやはり大きい。でもね、無常感に襲われるからこそ、残された者はしっかりと生を全うしなくちゃと思う。
でも、私は必ず回復すると信じていた。お見舞いに行くたび、快気祝いはMちゃんの店でしようね、退院したら美味しいもの食べに行こうね…と話していたのに…。
なんでも、本音で話せる友だった。明るく聡明で、好奇心が強くて研究熱心、更にA型気質の完璧主義。O型アバウトな私はいつも頼ってばかり…。お見舞いに行っても、病人の方が気遣ってくれていた…。もう、せつないっったら!
そんな友の喪失感はやはり大きい。でもね、無常感に襲われるからこそ、残された者はしっかりと生を全うしなくちゃと思う。
知っている人が一人いなくなることは僕も寂しいです。
本当に死ななくても、入院したり、拘留されたり、人が一人いなくなるのはとても大変なことだと、僕もこの前の入院で思い知りました。
生死を免れない人という有限な生き物は畢竟大いなる存在に祈るしかできないように思う。
哲学者カントの核心部の言葉は、大いなる存在、それを通して、我々は存在している。という、実践理性批判の言葉に尽きるように思う。
新年に神社で初詣で、手を合わせる。お彼岸にお墓に行って、手を合わせる。
その何気ないような営みこそが、我々の存在の核にあるように思う。
私も、この場を借りて、るふなさんのご冥福をお祈りします。
また一つ歳を重ねたということは、人の傷みや、人の気持ちも少しずつ解り、他人に寛容になっていくことだと思う。
哲学者カントの言葉を借りれば、経験によって鋭く研ぎ澄まされた判断力、がだんだん身に付いていくということかな。
良い一年を!
人が亡くなると、その周りの人たちの心にぽっかりと穴があくように寂しくなるものですよね。
でも、るふなさんとの楽しい思い出も蘇ります。思い出の中に生きているのだと思うと少し救われます。
okiさんのおっしゃる通り、手をあわせてるふなさんのご冥福をお祈りするだけです。
またひとつ齢を重ねても、なかなか寛容さも判断力も得難いままです(^_^;)
本当の「おとな」になれるように、また努力していきたいと思います。