「光のノスタルジア」を少し前に見に行ったけれど同時に公開の「真珠のボタン」は続けてみるにはあまりにも
重いドキュメンタリーだったので1作見ただけで帰ってきた。
今日が最終日だったので、岩波ホールまでまた出かけて行った。
今回はピノチェト政権のここまで人間は残酷になれるのかと思う残忍さと、先住民族に対して行ってきた愚行が
生命の起源、水と共に語られた。パタゴニアに住む水のノマド。水と星とともに生きていた人たちは
文明にあっという間に滅ぼされてしまう。どこの国でも原住民は自然とともに生きてそこに文明が失った大切なものが
あったと思う。そしてまたしてもアメリカによってクーデターが支援され土地を先住民に返そうとしていた政権がつぶされ
恐怖のピノチェト時代が始まる。この頃ふと先進国ってなんだろうと思う。G7とかG20とか・・そして国連は機能していない。
強い者が弱い者を支配する。
結びに最近発見された宇宙の果ての水蒸気がある星、そこで暮らしていたら彼らはこんな目に合わず安らぎを得ただろうか
そこへ移住したいというような言葉で終わっている。
人間はどこで踏み間違えたのだろうか・・
そしてあなたも私も責任があると突きつける。それでも根源に戻ることにより、まだそこに希望があることを
感じさせる映画だった。
光のノスタルジアを見た後でこの映画を見たのが順番としてはわかりやすかった。でも後者の方がずっとよかった思う。
パタゴニアは氷河とサンテクジュペリが飛んでいたところというイメージしかなかったけど、そこにかつて暮らしていた
原住民の神を必要としていなかった人々の暮らしがあり、資源だけを求めて入植した人たちに人間扱いされず
殺されていった歴史を知った。いつだったか言語学的に稀有な人種がアマゾンかどこかに住んでいて、宣教に行ったけれど
宣教の必要のない人々ですでにそこが天国であり、宣教者は家族を捨て言語学者になったというドキュメンタリーを
テレビで見たことがあった。
ネット上の下記のコメントに同感
「この映画が伝えようとしていることは一体なんだろう?先住民大量虐殺やピノチェト独裁政権下で殺された犠牲者たちの歴史を紐解く
のに、人間の愚かさを伝えるのに、大自然や宇宙や水の起源が必要だろうか。普通のドキュメンタリー映画であれば、“最も近い人間の
愚かな歴史”を振り返るのにここまで壮大な話をすることはないだろう。
それだけでこの映画がただのドキュメンタリーではないことがわかると思うが、先住民大量虐殺やピノチェト独裁政権下で殺された
犠牲者たちの歴史を紐解くことが目的ではないように思う。もっと哲学的なことを伝えようとしているのではないだろうか。“
最も近い人間の愚かな歴史”を大自然や宇宙や水の起源から見ることによって、人間の根源に迫っているように思う。」
映画の案内に
「およそ138億年昔、ビッグバンとともにこの宇宙が誕生し、46億年昔に地球が誕生、やがて水のなかから生命が生まれ進化を続けた。
海から陸が生まれ、映画の舞台となる南米チリという国が生まれた。巨匠グスマン監督はその果てしない時の流れのなかで、
大宇宙や自然をとらえた驚異の美しい映像とともに、人間が過去に繰り返してきた蛮行をとらえる。ピノチェト独裁政権下(1973~1990)
での弾圧、さかのぼり行われた植民地化と先住民への虐待などである。
大宇宙のなかの地球、その光や水は、人間とともに、宇宙の営みや人間の業ともいえる歴史の事実を記憶している。この2作品を見る者は、
心にこれまで経験のない意識が目覚めるのを感じるだろう。永遠の時空のなかで生成するひとつの生命体としての大いなる意識。人間は地球
の支配者ではない。歴史の記憶とは。人間の、人間やほかの生命を蹂躙する性(サガ)とは‥‥。 『光のノスタルジア』と『真珠のボタン』、
この2作品における「星の視座」は、今日の混迷する文明社会で顕在する、人間の暴力や支配への欲望に対して、私たちが忘れようとしている
人類の叡智を思い起こさせる。
それは未来への希望にほかならない。」
と書かれていた。
岩波ホール、次回はピロスマニ。なんと38年ぶりの再上映だそうで、38年前就職したての頃、同僚と試写会に行ったことを
思い出す。ピノチェト政権が発足してすぐの頃のことだと時代の流れを思った。
ポーランド映画「バブーシャの黒い瞳」は見逃したけれど次々回くらいに上映のグァテマラ映画「火の山のマリア」は
外せない。フランス映画「ヴィオレット―ある作家の肖像」の予告は久々に聞くフランス語の響きが美しかった。
姪が制作したドキュメンタリーはまだ字幕がないのでほとんどわからなかったけれど。