3月2日に宝生流能楽堂で観世流河村晴久さんを中心に
能の入門講座が開催されました。
日経ホールの「能楽の水鏡」で二つ隣の席にいらした河村さんの奥さまより
このイベントのお知らせをいただいていたものです。
入門的なこういう公演に行くと、資料もいろいろもらえるのがいいですね。
河村夫人は前回は洋服でしたが、今回は和服で入口に立ち
来客の対応を忙しくされていました。私もお礼だけ述べて中に入りました。
今回はワークショップで、皆でエアの鼓をたたいたり声を出したり、各パートの方から
レクチャーがありました。
また、河村さんからは能は平和を求める芸術で、武士が戦うことの虚しさを
表現しているとも。しかし最近ウクライナに行って、自分たちの文化を守るために
戦っている人たちを目の前にして何も言えなかったと話していました。
楽譜とかも初めて見ましたが、全体的に教育者がどうやって能の世界に
子どもたちが入って行けるかのヒントにしたいようでした。
敦盛は半能といって全部演じられませんでしたが、私としては
いろいろな説明よりも全部見たかったという思いもあります。
観賞というよりは学習と言った感じのイベントでした。
前回の日経ホールでのイベントは素晴らしかったと
改めて思いました。
タイムリーに翌日3月3日の朝日新聞のフロントランナーに観世清和さんが載っていました。
品がある。格もある。外の世界に心がおおらかに開かれている。神聖な「翁」に臨んでも、
幽玄優美な曲を演じても、隠しようもなく表れる。
(フロントランナー)観世清和さん 「平和、情愛、恋心、生と死を描く芸術です」
世阿弥の言葉でひとつ選ぶとすると「初心するべからず」と答えていました。
この「初心忘れるべからず」は、先月のとしちゃんのブログにもありましたね。
世阿弥が広めた言葉ですが、「初心」にはもっと深い意味があったのです。
それは「初心」の「初」という漢字に現れているそうです。
この漢字は、「衣」偏と、「刀」から作られていますね。
それで元の意味は、「布地である衣を鋏で断つ」ということだそうです。
つまり、「まっさらな生地に刀を入れるということは、折あるごとに、古い自己を断ち切り、
新たな自己として生まれ変わらなければならないという意味である」、と書かれていました。
観世清和は能についてこう語っています。
能は武家の式楽、教養とも言われますが、和歌をはじめ「伊勢物語」「源氏物語」「平家物語」などの
古典文学のエキスが凝縮して入っています。
能が、約700年間、廃れることなく続いているのは、現代に通じる普遍的なテーマを扱うからではないでしょうか。
平和の素晴らしさ、夫婦や親子の情愛、男女の間の恋心・・ 人の生と死を描く舞台芸術です。
敦盛のプログラムにも能について説明がありました。
能は、かつては猿楽と言われ、室町時代にその基が築かれた伝統芸能。
元来、芸能は宗教性と娯楽性を持つ。鎌倉時代に庶民の娯楽芸能であった猿楽の座(劇団)は
同時に翁猿楽という農耕儀礼に根ざした祝言の芸を行い、自社の祭礼の折などに芸能を行っていた。
奈良で活躍する多くの座の中で、観阿弥、世阿弥の人気が高まり、京の都に進出し、足利義満に寵愛されるようになる。
この出会いにより、庶民中心の芸から、貴顕の観賞に耐えうる、高度な文学的内容を持つものへと変質してゆく。
・・・・およそに日常生活では体験しない、霊魂の世界が描かれ、また究極の非常事態、極限状況に置かれた人間が描かれるが
実は人間の心の底の問題を顕在化させたものが能の主題となっており、親子の、また男女の愛情、危機に際しての人の心など
能の舞台に触れることによって、いつの時代にも変わらぬ人の心に触れることができる。
・・・・今年度は「平家物語」を題材にした能《敦盛》を取り上げる。平家物語の中で一人の少年が誕生し、その絶対的な
不条理の中で戦乱に巻き込まれて死にゆく悲劇を描いている。これからの日本を担う子どもたちに、日本の精神性、
伝統美を多角的に伝える手立てを示したい。
March 2 2018 Suidoubashi
能の入門講座が開催されました。
日経ホールの「能楽の水鏡」で二つ隣の席にいらした河村さんの奥さまより
このイベントのお知らせをいただいていたものです。
入門的なこういう公演に行くと、資料もいろいろもらえるのがいいですね。
河村夫人は前回は洋服でしたが、今回は和服で入口に立ち
来客の対応を忙しくされていました。私もお礼だけ述べて中に入りました。
今回はワークショップで、皆でエアの鼓をたたいたり声を出したり、各パートの方から
レクチャーがありました。
また、河村さんからは能は平和を求める芸術で、武士が戦うことの虚しさを
表現しているとも。しかし最近ウクライナに行って、自分たちの文化を守るために
戦っている人たちを目の前にして何も言えなかったと話していました。
楽譜とかも初めて見ましたが、全体的に教育者がどうやって能の世界に
子どもたちが入って行けるかのヒントにしたいようでした。
敦盛は半能といって全部演じられませんでしたが、私としては
いろいろな説明よりも全部見たかったという思いもあります。
観賞というよりは学習と言った感じのイベントでした。
前回の日経ホールでのイベントは素晴らしかったと
改めて思いました。
タイムリーに翌日3月3日の朝日新聞のフロントランナーに観世清和さんが載っていました。
品がある。格もある。外の世界に心がおおらかに開かれている。神聖な「翁」に臨んでも、
幽玄優美な曲を演じても、隠しようもなく表れる。
(フロントランナー)観世清和さん 「平和、情愛、恋心、生と死を描く芸術です」
世阿弥の言葉でひとつ選ぶとすると「初心するべからず」と答えていました。
この「初心忘れるべからず」は、先月のとしちゃんのブログにもありましたね。
世阿弥が広めた言葉ですが、「初心」にはもっと深い意味があったのです。
それは「初心」の「初」という漢字に現れているそうです。
この漢字は、「衣」偏と、「刀」から作られていますね。
それで元の意味は、「布地である衣を鋏で断つ」ということだそうです。
つまり、「まっさらな生地に刀を入れるということは、折あるごとに、古い自己を断ち切り、
新たな自己として生まれ変わらなければならないという意味である」、と書かれていました。
観世清和は能についてこう語っています。
能は武家の式楽、教養とも言われますが、和歌をはじめ「伊勢物語」「源氏物語」「平家物語」などの
古典文学のエキスが凝縮して入っています。
能が、約700年間、廃れることなく続いているのは、現代に通じる普遍的なテーマを扱うからではないでしょうか。
平和の素晴らしさ、夫婦や親子の情愛、男女の間の恋心・・ 人の生と死を描く舞台芸術です。
敦盛のプログラムにも能について説明がありました。
能は、かつては猿楽と言われ、室町時代にその基が築かれた伝統芸能。
元来、芸能は宗教性と娯楽性を持つ。鎌倉時代に庶民の娯楽芸能であった猿楽の座(劇団)は
同時に翁猿楽という農耕儀礼に根ざした祝言の芸を行い、自社の祭礼の折などに芸能を行っていた。
奈良で活躍する多くの座の中で、観阿弥、世阿弥の人気が高まり、京の都に進出し、足利義満に寵愛されるようになる。
この出会いにより、庶民中心の芸から、貴顕の観賞に耐えうる、高度な文学的内容を持つものへと変質してゆく。
・・・・およそに日常生活では体験しない、霊魂の世界が描かれ、また究極の非常事態、極限状況に置かれた人間が描かれるが
実は人間の心の底の問題を顕在化させたものが能の主題となっており、親子の、また男女の愛情、危機に際しての人の心など
能の舞台に触れることによって、いつの時代にも変わらぬ人の心に触れることができる。
・・・・今年度は「平家物語」を題材にした能《敦盛》を取り上げる。平家物語の中で一人の少年が誕生し、その絶対的な
不条理の中で戦乱に巻き込まれて死にゆく悲劇を描いている。これからの日本を担う子どもたちに、日本の精神性、
伝統美を多角的に伝える手立てを示したい。
March 2 2018 Suidoubashi