かったかくんのホームページ

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回顧「マンモス豊田小学校の生活」

2018年08月10日 | 大分県
昨日は、とうろうまつりでNっちゃん。エフのパフェを食べに行った時に、Mきちゃん家族に再会しました。
初めて教員として所属した豊田小学校時代のかつての子どもたち・・・とはいっても今では社会の中でのリーダーたちに会う機会が多くなっています。

ときどき、これまでの歴史を「たいせつなもの」(第1集)から振り返っていきますね。

まずは、1年目の時です。


豊田小学校に赴任。全校で1500人近くいるマンモス校でした。

耶馬溪出身のかったかくんにとって、見たことのないすごい子どもたちの数。1500人。今では考えられない児童数です。

田舎育ちの「かったか」そして、学生時代のらりくらりして過ごした直後の大規模な児童の学校。目が覚めました。
大規模だとこんな感じになります。


◇「体育館に全校児童が入らない」
全校集会などをするとき、全校児童がまっすぐ並んでは入らないのです。まっすぐに縦並んでいる学年。横に一列に並んでいる学年。

いろんな形を組み合わせながら整列をしなければ1500人を小学校の体育館に収容できません。田舎者のかったかくんにとって、1500人を前にステージから話をするときには、足がすくむような気がしました。

もちろん、人数の関係で卒業式や入学式も参加するのは、高学年と決まっていました。
また七夕集会などいろんな集会は、学年ごとや縦割りのクラスごとですることが多かったですね。

もうびっくりの人数です。



◇「運動場で前にならえができない」
体育大会など運動場で、「前にならえ」という言葉が出すことができない。

まして、
「体操隊形に開け」
などいうものなら、運動会では、後ろの子どもは、トラックの周囲のテントをはるかに超えてその後ろの塀にぶつかってしまいます。




◇「先生の人数が半端でない」
先生の人数が半端ではありませんでした。50人近くいたような気がします。

かったかくんが採用されたときは、50代の先生が多かったのです。ほとんどがお父さんやお母さんみたいな人。

だから、新任のあいさつをするときは、親が見ている授業参観で自分の意見を言うような感じがしました。

しかし、みんなとっても優しい先生ばかりでした。

また人数が多すぎて、職員会議では、時折マイクを使いながら会議をすることもありました。声が小さいと、「聞こえませーん。」と激しくクレームが。
職員室もにぎやか、にぎやか。




◇「プレハブ教室があった」
最初は、4年生担当。4年生は、6学級。学期ごとに教室が変わります。

というのは、4年生がプレハブ教室を6クラスのうち、4つのクラスが使用しなければ教室が足りません。

だから、学期ごとに教室を変えると、1年のうち、2回は、プレハブ教室を利用することになります。

実にこれは、夏は暑いし、冬は、寒いんですね。

当時、プレハブ教室は、プールのところにあったのもありました。

学年でプールを使用するので、マイクを使います。プレハブ校舎は、うるさくて仕方ありません。尊敬する先輩のUのう先生は、教室で授業の声が聞こえないので、教室の中でもマイクを。

うそのような本当の話です。




◇体育の時間は悩みました
体育は、週3時間ありました。1時間は、運動場。1時間は、体育館。そして、もう1時間は、学年合同体育と決まっていました。

そうしないと、体育の授業が運動場や、体育館が取りあいこになってしまいます。合同体育は、6クラスがあるので、リレーなど、240人みんなができるような内容にしなければなりません。

運動場の体育の日で雨の時は、、教室でしか体育をすることができませんでした。


人数が多くてとまどったのは、まだまだあります。言い尽くすことができません。とにかくそんなでっかい学校に赴任しました。
 


しかし、かったかくんにとっては、かけがえのない3年間の豊田小学校の生活となりました。

教員としての子どもたちとの思い出づくりのスタートを切りました。