気ままな撮影紀行

鉄道写真をメインに航空機や一般の
風景写真等の撮影に出かけました。

南海電鉄多奈川線 深日港駅(大阪府)

2022年01月29日 | 南海電鉄
一昨日(1月27日)の更新時には、南海電鉄多奈川線の深日町駅(ふけちょうえき)をアップいたしました。今回は多奈川線でのもう一つの途中駅、深日港駅(ふけこうえき)をまとめました。駅のすぐ近くに深日港があって、淡路島や徳島方面へのフェリーが発着してました。しかし現在は全て廃止されて深日港からの定期旅客航路はありません。(撮影:2012年8月15日)


駅ホームへ入りました。ホームは1面1線だけで本線から分岐の支線の造りになってましたが、ホームの幅はかなり広めになっていると感じました。深日港からフェリーが発着してた当時は航路の連絡船発着時刻にあわせて、大阪の難波駅(なんばえき)からは急行列車が運転されてました。深日港発着のフェリーは鉄道連絡船の様な役割を果たしており、列車と航路の接続駅として重要な役割を果たして賑わってたようです。




下り多奈川駅(たながわえき)行き列車が発車しました。ホーム上の木造の立派な上屋が、要衝の駅だった事を彷彿とさせる光景になってました。


ホームから終点の多奈川駅を見ました。終点までは500m程で、写真中央奥に駅のホームが見えます。


深日港駅から徒歩数分の深日港です。



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本州最南端の駅 JR串本駅(和歌山県)

2022年01月28日 | JR西日本エリア
JR紀勢本線の駅で本州の最南端に位置して、JR西日本管轄駅でも最も南に位置している串本駅(くしもとえき)です。この駅では特急「くろしお」を含む全列車が停車して、普通列車は当駅で折り返し運転されるのもあって串本町での中心的な駅になっています。
(撮影:2013年2月9日)

単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線の、合計2面3線を有する駅長配置駅になっています。単式ホームに駅舎があって、島式ホームとは跨線橋で連絡しています。




駅前のロータリーには帆船のモニュメントがありました。


この舟はレディ・ワシントン号というアメリカの商船のブロンズ像です。
私達が学校の歴史で学んだ日米の最初の接触は、ペリー提督が1853年(嘉永6年)に黒船で浦賀に入港したのが最初とされてました。しかし、それよりも62年前の1791年(寛政3年)にこのレディ・ワシントン号とグレイス号の2隻のアメリカの商船が串本大島に立ち寄って、日本に対して交易を申し入れた事が日米双方の文献で確認されてます。

アメリカから持って来たラッコの毛皮で日本側との交易にのぞみましたが、当時の日本では毛皮は価値を持ってなかった事から交易交渉は失敗に終った様です。わずか数日間の滞在だった様ですが、これが公文書に記録された日米間の初めての接触だったとされています。
串本駅は串本大島の最寄り駅という事で設置されてるようですが、ペリー提督より前にアメリカ人が日本へ来てた事は初めて知りました。


当時は江戸幕府の統治下で鎖国政策を執ってました。大きな権力を持っていた紀州藩が外国と密かに接触する事が表沙汰になれば、幕府の信用が失墜する事を恐れた為に日本へは悪天候の為偶然に漂着しただけだ、として史実が隠蔽されてきたそうです。
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南海電鉄多奈川線 深日町駅(大阪府)

2022年01月27日 | 南海電鉄
南海電鉄本線みさき公園駅から分岐して多奈川駅(たながわえき)迄結ぶ多奈川線で、その路線の途中駅で難読駅でもある深日町駅(ふけちょうえき)です。多奈川線は路線距離は2.6Kmで途中駅は2駅のみで起点と終点を含めても4駅の短い路線です。(撮影2012年8月15日)

こじんまりとした木造駅舎で写真左側のアーチ橋の上を列車が走行しています。改札口を通ればすぐに階段のある、盛り土式ホーム1面1線の駅になってます。


ホームに入り、みさき公園駅の方向を見ました。


線路が大きくカーブして複線分の橋梁が設置されてる事から列車交換駅だった名残が感じられました。


多奈川駅方面です。列車交換時のホーム跡が残ってましたが、現在は使用されていません。




アーチ橋をくぐって反対側に移動して盛り土上のホームを見ました。下り列車の入線です。
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養老鉄道 養老線(岐阜県/三重県)

2022年01月25日 | 養老鉄道
岐阜県西部の揖斐駅(いびえき)から三重県の桑名駅(くわなえき)迄を結んで走行している養老鉄道です。ここは路線距離は約58Kmで単線の全線電化路線になっています。この路線は当初は近鉄の養老線として運営されてましたが、2007年(平成19年)からは近鉄の傘下で近鉄子会社の養老鉄道として運営されてます。(撮影:2013年11月5日)

下野代駅(しものしろえき)ホームに桑名駅を発車した大垣駅(おおがきえき)行きの列車が入線しました。


途中駅の美濃山崎駅(みのやまざきえき)での上下線列車交換です。






養老鉄道での列車の塗装は近鉄時代のマルーン1色塗装が主力で走行してました。現在の近鉄線ではこの塗装1色の列車は目にする事は無く、私が近鉄線を日常の足として利用してた時を思い出して懐かしく思いました。


養老駅(ようろうえき)です。この駅近くには滝の水がお酒になったという親孝行の伝説がある養老の滝があります。滝までは約4Kmで最寄り駅になっていて、駅舎は特徴の有る木造駅舎で懐かしい雰囲気になってました。




駅の改札口を見るとホームの天井から多くの瓢箪がぶら下がってました。

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日本とトルコが友好国となった起点の出来ごと(和歌山県)

2022年01月17日 | 旅行風景(近畿地方)
トルコの軍艦エルトゥールル号が和歌山県串本沖で遭難し、地元住民の懸命な救助活動もむなしく多くの乗組員が亡くなりました。この時の日本の村人達の献身的な対応が、トルコ国民に感謝の気持ちとして心に深く刻み込まれて、今日の友好関係の始まりとなった、と言われています。現在も5年ごとに、町と在日トルコ大使館の共催で慰霊祭が行われています。

遭難した現場海域、及び遭難慰霊碑を訪ねましたので、その時の様子をまとめました。(撮影:2013年2月11日)
この時のフォトチャンネルも新規追加致しました。

以下の内容は遭難現場を見渡せるヶ所に設けられた『トルコ記念館』を訪ねた時に受け取ったパンフレットを参考にまとめました。
明治23年(1890年)6月にトルコ国皇帝特派使節として来日して任務を果たした後、帰国の途中9月16日の夜に和歌山県の熊野灘沖で暴風雨に遭って650余名の兵士を乗せた同軍艦は難破し、580余名の命が奪われました。遭難現場は、現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で、この時地元の村人達は深夜でしかも暴風雨の中、島にたどり着いた69名の乗員を救助して村人達の手持ちの食糧や衣服、布団等を提供しました。離島にある小さな村の事、一度に69名もの来客があれば備蓄の食糧等はたちまち底をつきますが、歓待の意を表し喜んで食糧の一切を提供したとの事です。
その後、遺体の捜索もなされましたが発見された遺体は樫野崎の丘に埋葬されるも、300名以上の兵士の遺体は発見される事無く、樫野の海底で眠り続けています。

私自身は、トルコの軍艦が和歌山県沖で沈没した事がある、といった程度の事しか知識はありませんでした。はっきりした記憶はありませんが、学校でもこの事は習って無かったように思います。しかしトルコでは学校の教育現場でも、この事は子供たちにも正しく教えられて、現在の日本との友好国関係を築く礎になっている様です。

私一個人の力では何も出来ませんがこのような友好国との関係は、より一層深める事が大切だなと感じました。

日本とトルコの国旗が翻るトルコ記念館です。記念館内にはエルトゥールル号の模型や遺品、写真やその他資料が展示されてました。


遭難海域の現場です。


陸地からは200~300m前後も離れてなかった様に見えました。この日は快晴で海は大変穏やかな状態でしたが、この海域で上記の様な大惨事が起きたのは想像を絶する大荒れの天候だったんですね。


遭難現場をアップで狙いました。この岩礁に激突した様です。


記念館の近くに設けられた軍艦遭難慰霊碑です。








トルコ共和国の初代大統領でトルコ国民の英雄である ムスタファ・ケマル・アタテュルク騎馬像です。日本とトルコの強い結びつきを感じさせます。


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