今日(2日月曜日)は、朝から水曜日の一年生の「日本文明」の講義の準備。今学期の講義の最終回にあたり、鎌倉新仏教について話す。一時間でとても話し切れるテーマではないわけだが、せめて親鸞だけでも知ってもらいたいと思っている。それは以下の理由による。
フランスでは、禅についての関心は、高度に学問的な関心から非常に卑俗なレベルのそれまでをすべて含めて考えればかなり広い。それが証拠に、 « zen » という言葉は、「落ち着き払った、心静かな」「(極めて困難・過酷な状況にあっても、あるいは突然の予期せぬ事態に遭遇しても)冷静さを失わない、平静な気持ちでいる」というほどの意味で、形容詞あるいは副詞として日常のフランス語の中で普通に使用されており、小中高生だって使うほどである。日本でよりも日常的に頻繁に使われ、接する機会のある言葉だと断言して差し支えないであろう。 « Zen » と銘うたれた商品もあり、テレビのコマーシャルでもよく使われている(もう呆れてものも言えません)。今では、だから、もうどうしようもないと諦めているが、17年前にフランスに来て、初めてその無節操な普及ぶりに接したときには、禅に対して持たれている一般的イメージがかくも日仏で違うのかと唖然としたものである。もちろん、本気で禅に関心を持っているフランス人たちもいる。座禅を組む人だっている。禅宗の日本人僧侶もいるし、座禅道場もある。禅に関する著作も多数あり、道元の『正法眼蔵』の全訳が出版されつつもある。
このような禅仏教のフランスにおける「浸透ぶり」に引き比べると、浄土宗・浄土真宗についてのフランス人たちの関心はお世辞にも高いとは言えず、概説書も乏しく、経典の仏訳もほとんどない。わずかに『歎異抄』の仏訳があるだけである。2011年に出た新訳は未見で、その質についてはなんとも言えない。この日本思想史に燦然と屹立する宗教思想の両巨峰の間のフランスにおける受容の「格差」は、いったい何に由来するのであろうか。
それは、フランス人がどちらに神秘性を感じるかというところに少なくとも一つの理由があるように私には思われる。禅とマイスター・エックハルトとが真剣に比較されてたりするのも、両者が神秘主義的な言説において接近するかに見えるからであろう(ちなみに私自身はこの類の比較論に極めて懐疑的である)。こうした傾向に与って力があったのが京都学派の哲学者たちであったことは論を俟たないであろう。
『正法眼蔵』の難解な言説が醸し出す秘教的な雰囲気(もちろん道元の言説をこう見なすこと自体が皮相な理解に過ぎないこと、断るまでもないであろう)に対して、親鸞の『歎異抄』に示されたラディカルな思想性は魅力的に見えないのだろうか。日本ではよく、『歎異抄』での親鸞の教えと『福音書』のイエスの教えの類似性が指摘されたりしているが、まさにそれと同じ理由で親鸞の教説にオリジナリティを見出しにくいのでもあろうか。しかし、親鸞自身の根源的思想は、新約聖書のパウロ書簡にはすでに見られる教団形成の志向さえ、微塵に砕くところまで徹底化されているのだから、その思想的衝撃は、その意味で、道元のそれよりもカトリック社会にとっては強烈だと思うのだが。
もちろんこんなところまで一年生相手の講義で話せるわけではなく、「他力本願」と「悪人正機」について無用な誤解を予め与えないように注意しつつ、ごく概説的な話をするだけにとどめることになるだろう。