今日(8日日曜日)、朝8時から9時までプール。帰宅後は、終日、水曜日の「同時代思想」の講義の準備。先週の丸山眞男から戦後日本の思想に入ったわけだが、今週は、丸山と同年生れの井筒俊彦がテーマ(この戦後日本を代表する二人の思想的巨人の間には、残念ながら、交流らしい交流はなかったようだ)。井筒をこの講義で取り上げるのは今年度が初めて。まさに天才と呼ばれるにふさわしい(司馬遼太郎に言わせれば、「二十人ぐらいの天才らが一人になっている」)この哲学者の思想の豊かさ・深さを簡単にまとめて紹介することなどとてもできないが、日本語における哲学的思考の一つの到達点である『意識と本質』(初版1983年)の中で展開されている哲学的方法論「共時的構造化」については、講義の中でいくらかでも立ち入って考察したいと思う。同書の主要部分を占める論文「意識と本質」の第一章の仏訳が今年に入って出版されたので、そこを中心に解説すれば学生たちにも近づきやすいだろうとも思う。その第一章の冒頭で、井筒は、「東洋哲学全体を、その諸伝統にまつわる複雑な歴史的聯関から引き離して、共時的思考の次元に移し、そこで新しく構造化しなおしてみたい」(岩波文庫版7頁)という途轍もない哲学的狙いを言明しつつ、その直後で、「せいぜい共時的東洋哲学の初歩的な構造序論といった程度のものにしかならないだろう」と断っている(同8頁)。その企図の壮大さからして、たとえ井筒ほどの天才をもってしてもそう言わざるを得なかったであろう。それでも、同書には、実に豊かな哲学的思索の泉が今もなお滾滾と湧き出ているかのごとくであることに変わりはない。しかし、浅学非才の我が身の途方もない不遜であることを承知のうえで、しかも井筒の哲学的直観が到達している意識の深みにこちらが触れるところまでさえ行っていないことを認めたうえで、敢えて言えば、私はこの「共時的構造化」にいささか懐疑的である。いったいこれが共有可能な方法として成立するであろうか、という意味において。講義では、もちろん、拙速な批判的言辞を弄することなく、まずは井筒のテキストそのものを、たとえごく僅かであっても、丁寧に読む。