内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「主体」の乱用と「近代の超克」の多義性

2021-05-12 23:59:59 | 講義の余白から

 昨日の授業で、冨山房百科文庫版の『近代の超克』の中から、下村寅太郎と中村光夫の論文の抜粋を読んだ。下村寅太郎の論文はわずか八頁と短いものだが、その最初の四段落を読んだ。その中に二回「自主的」という言葉が出てくる。

 我々が「近代」と称しているものはヨーロッパ的由来のものであり、少なくとも今日それの超克が問題にされる「近代」は、その外には存しない。それゆえ我々において近代の超克が問題になり得るとすれば、それは具体的にはヨーロッパ的近代との対決に外ならぬ。したがって我々における近代の問題性や超克の方向はヨーロッパの場合とは必ずしも同一ではない。問題の自主的な把握が必要である。

 我々がもし問題に対してあくまで自主的であろうとするならば、近代の超克そのものを改めて問題とせねばならぬ。もし近代を愚劣として批評しながら我々自身の現実がそれに整合的でないならば、単に厚顔なる饒舌にすぎない。近代が否定されるべきであるならば、それは現実的には、何を意味するかが覚悟され、それの帰結に対して徹底的な責任を負わなければならない。我々は改めて、「近代を否定し得るか」から出発すべきである。

 授業の準備のために読んでいるときには気づかなかったのだが、授業中に学生たちと一緒にこの箇所を読んでいるとき、「自主的」のかわりに「主体的」を入れても、「自らの問題として責任をもって」というほどの意味で使うかぎりは誤解を招くことはないことに気づいた。なぜ下村は「主体的」という言葉を使わなかったのだろう。偶々だろうか、あるいは意識してのことだろうか。
 私は意識してのことではないかと思っている。当時、京都学派ではやたらに「主体」「主体性」「主体的」などの言葉が使われていた。同じく「近代の超克」座談会に参加していた西谷などその最たるもので、西谷が座談会に先立って提出した二十頁ほどの論文「「近代の超克」私論」には三十回以上使われている。最も集中して使われているのは次の箇所である。

文化を創造し或は科学する主体は、まだ自覚された主体的無の立場ではないが、自覚された主体的無の立場は、その超越的な立場から、文化を創造し科学する主体にその真の主体性として内在し得る。主体的無としての真の心は、有としての身体や有としての心の絶対否定であると同時に、その有に相即して之を生かす。世界からの自由はそのまゝ転じて世界のうちへの自由となり得る。真の自由はこの両面の自由への自由、即ち世界超越と世界内在とへの自由である。このやうな主体的無の立場は、いふ迄もなく東洋的な宗教性の特色である。

 この「主体的無」がなんであるかはともかくとして、宗教哲学の専門家のこの手のご託宣に対して、優れた科学史家だった下村はうんざりしていたのではないだろうか。だから、場合によっては神秘的で無根拠で途方もない付加価値まで負わされかねない「主体」という言葉を極力避けていたのではないかとふと思ったのである。