五月雨(さみだれ)は「陰暦の五月ごろに降る雨。何日も降り続く梅雨の雨。」だから西暦の五月に降る雨は五月雨ではない。ましてや概して天気がいいはずのフランスの五月に降る雨は「さみだれ」ではない。でも、そう呼んでみたくなるような雨が今朝から降っていた。
明日の「Langue japonaise avancée」(直訳すれば「上級日本語」となるのだけれど、「上級」じゃないんだよね、現実は。「アヴァンセ」じゃなくて、せいぜいそれなりに「ガンバッテマッセ」というところくらいかな)の授業で、この「五月雨」を「美しい日本語の贈り物」第三回として紹介する。
ついでだからといって、「五月雨式」は紹介しない。だって、いい意味じゃないでしょ、この表現。「同じことが、いつ終わるともなくだらだらと繰り返し行われること。また、そのようなやり方」(『新明解国語辞典』第八版 2020年)って、誰が使い始めたのか知らないけれど、「さみだれ」というせっかくこんなにも美しい響きの言葉をそういう意味で使うって、どういう神経よ、って、そいつの胸ぐらを掴みたい気分である。
そのかわりといってはなんだが、「さみだる」という動詞を紹介する。現代語としてはもう使われないが、古語としては美しい用例がある。『和泉式部日記』の中の「宮」から「女」への歌。
おほかたにさみだるるとや思ふらむ君恋わたる今日のながめを
「あなたはこの雨を普通と変わらない五月雨と思っているのでしょうか。あなたを恋い続ける私の涙であるのを」(近藤ゆき訳注『和泉式部日記』角川ソフィア文庫)
降り続けている五月雨を我が嘆きの涙として詠んだ歌を「宮」から贈られて、「女」はそれに感応して返歌を詠む。
しのぶらんものとも知らでおのがただ身を知る雨と思ひけるかな
「あなた様が心のうちで思って下さっている涙の雨とも知らずに、ただもう、愛されない我が身を思い知らせる雨とばかり思いこんでおります。」(同訳注)
同じ五月雨を眺めていながら、それが「女」には我が身の上を思い知らせる雨に見える。五月雨は二人を繋ぐものでありながら、二人を遠く隔てるものでもある。
この歌のやりとりを読んでいて、三木清の「希望について」の次の一節が思い合わされた。
愛は私にあるのでも相手にあるのでもなく、いわばその間にある。間にあるというのは二人のいずれよりもまたその関係よりも根源的なものであるということである。それは二人が愛するときいわば第三のものすなわち二人の間の出来事として自覚される。しかもこの第三のものは全体的に二人のいずれの一人のものでもある。
五月雨は、この「二人のいずれよりもまたその関係よりも根源的なもの」の自覚の具体的形象にほかならないのではないだろうか。