昨日の記事で話題にしたように、「摂受」は、仏教語としては「しょうじゅ」と訓む。「仏の慈悲で衆生を救う」(『漢語林』)、「仏が人を受入れ、正法に帰依させる」(『漢辞海』)という意味で使われる。この意味での「摂受」を別とすれば、今日の日本語でこの語が使われる機会はあまりないのではないだろうか。一般語としては「せつじゅ」と訓み、仏教語と区別されるが、それでもそうめったにお目にかからない言葉であろう。
手元にあるいくつかの漢和辞典で調べてみたところ、「摂受」の説明は、「受け入れる」「取り入れる」となっていて、特別な意味がある言葉ではない。「摂取」と同義として扱われる場合もある。こちらは「栄養を摂取する」など、現代日本語でもごく普通に使われている。
「摂受」のニュアンスをよりよく摑みたく思い、手元にある五冊の漢和辞典で「摂」の字を引いてみた。それらの辞典の説明はそれぞれに興味深いのだが、『漢字源』にこの字の原義の説明として、「いくつかのものを乱れないように寄せ合わせて持つ」とあるのが目に留まった。ただ、取り入れるだけではないのだ。その他の辞典にも、語義として、「収める」「ととのえる」「やしなう」「たすける(佐)」「かわる(代理する)」「締める。結ぶ」などとある。
これらの語義を勘案すると、「摂受」するとは、種々のものを受け入れ、取り入れ、それらを結び合わせ、あるいはそれらがある場所において互いによく機能するようにはからうこと、と定義できそうだ。つまり、「摂受」とは単なる受け身の姿勢ではない。
こんなことを考えたのは、日本思想史を、異国の諸思想の受容史としてではなく、受容の思想史として、つまり異質なものの受容の工夫とその方法の系譜として読むという構想を十年ほど前に立てたことを思い出したからである。その構想をフランス語で最初に発表したとき、「受容」の訳語として réception を充てたのだが、それでは私が「受容」という語に込めたい意味はよく伝わらないという指摘を受けた。受け入れた側の受け入れたものに対する積極的な働きを示すことができないというのである。
そこで気づかされたのは、そもそも日本語の「受容」から払拭するのが難しい受動性であった。以来、よりよい言葉を見つけられず、受容の思想史を問題にするときには、日本語では「受容」を、フランス語では réception をそのまま使い続けてきたのだが、「摂受」のほうが「受容」よりも私の意図するところをよりよく表してくれるのではないかと今更ながら気づいた次第である。
摂受するとは、外から到来した異なる形にその形にとって新しい場所である私たちの「なつかしい」場所で新しい息吹を吹き込むこと、そう定義した上で、摂受の思想史を書いてみたいと思う。