内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

三木清「旅について」再読(上)

2021-05-07 23:59:59 | 読游摘録

 三木清の『人生論ノート』(新潮文庫)は二十三篇のエッセイからなっているが、最後に付録として収められた若書きの「個性について」(大正九年)を含めて、「旅について」以外の二十二篇についてはすべて初出誌が後記に明示されており、執筆時期も自ずと特定できる。ところが、「旅について」だけは三木自身による執筆時期等についての説明がなく、岩波版第二次全集の桝田啓三郎による後記にも「不詳」とあるだけで、いつ書かれたのかわからない。創元社版(昭和十六年八月刊)の後記には昭和十六年六月二日とあるから、それ以前であることは間違いない。
 いかにも若書きの気負ったスタイルで書かれた「個性について」は別として、「旅について」以外の文章のスタイルはほぼ同様だが、「旅について」だけスタイルが違う。一段落が長く、段落間に空白がなく、論述もそれだけ持続的で密度が高く、それ以外の二十一篇のエッセイにしばしば見られる断章的な飛躍が少ない。その分、論脈は追いやすい。それらの諸篇に対するひとまずの結論としても読むことができるように思える。三木がこのエッセイを『文學界』に連載れた諸篇と同時期に書いたとすれば、執筆時期は四十代の前半である。
 最初にこのエッセイを読んだのは高校二年か三年のときだったと思う。受験勉強のために続けていた通信添削の現代国語の問題の本文として使われていた。全文ではなかったと思う。その後、いつか忘れたが、そう時をおかずに新潮文庫版で全文読んだはずである。そのときは、まだ自分自身の経験としては旅を知らなかったから、そこに書かれた旅についての省察への共感というより、旅というものへの漠たる憧れとともに読んだ記憶がある。それから四十年以上経って、今回は演習のためとはいえ、これが何度目かはもうはっきりしないが、あらためて読み返し、自ずと別の感懐が湧いてきた。

人生は遠い、しかも人生はあわただしい。人生の行路は遠くて、しかも近い。死は刻々に我々の足もとにあるのであるから。しかもかくの如き人生において人間は夢みることをやめないであらう。我々は我々の想像に從つて人生を生きてゐる。人は誰でも多かれ少かれユートピアンである。旅は人生の姿である。旅において我々は日常的なものから離れ、そして純粹に觀想的になることによつて、平生は何か自明のもの、既知のものの如く前提されてゐた人生に對して新たな感情を持つのである。旅は我々に人生を味はさせる。あの遠さの感情も、あの近さの感情も、あの運動の感情も、私はそれらが客観的な遠さや近さや運動に関係するものでないことを述べてきた。旅において出會ふのはつねに自己自身である。自然の中を行く旅においても、我々は絶えず自己自身に出會ふのである。旅は人生のほかにあるのでなく、むしろ人生そのものの姿である。(『三木清全集』第一巻、岩波書店、一九八四年、三四七‐三四八頁)

 この意味での旅を知らなければ、人は人生を半分しか、いやそれ以下しか生きていないことになるのだろうか。私はこれまでどれだけ旅をしてきただろうか。