内的自己対話-川の畔のささめごと

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「摂受」か「折伏」か ― 日蓮の時代と現代

2021-05-24 23:59:59 | 読游摘録

 亀井勝一郎の『日本人の精神史 第三部 中世の生死と宗教観』の中で日蓮を論じている章節に「摂受」という言葉が出てくる。仏教語としては「しょうじゅ」と訓む。勝鬘経にも説かれていることであるが、人々を教え導くには二つの方法がある。相手の信仰がまちがっていても、寛容な態度をもって徐々に説得していくのが摂受であり、相手を強く責めてうちくだき、勢力をもって迷いから脱却させるのが折伏(しゃくぶく)である。
 日蓮の考えた末法の世とは、折伏の時代であった。摂受ではもはや間に合わないと見たところに日蓮の危機意識があった。『開目鈔』には、「無智悪人の国土に充満の時は、摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者多き時は、折伏を前とす、常不軽品のごとし」とある。注釈書を参照したわけではないので確かなことは言えないが、ただ無智ゆえに悪を犯す人たちに対しては摂受を優先すべきだが、誤った考えに染まり、法を蔑ろにする連中が蔓延る時代には折伏を優先すべきだとの意だろうか。
 今の日本はどうすればよいのでしょうか。もう摂受じゃだめでしょうか。折伏するしかないのでしょうか。そうだとして、折伏されるべき人たちには事欠かない今日このごろですが、誰がそれらの人たちを折伏するのでしょうか。